未来をかけたバトルと切ない恋『C』

最近、アニメの配信サービスを契約しました。録画しそこなった番組や、録画を手元で見るのが難しくなった番組を楽しめるようになってウキウキしています。

早速ノイタミナ枠で放送されたアニメ『C』を視聴しました。

特に将来に夢を持つわけでもなく、毎日を何とか生きているだけの大学生余賀公麿(よがきみまろ)は、ある日謎の男真坂木に案内されてこの世界ならざる場所である『金融街』に足を踏み入れます。金融街はプレイヤー(アントレプレナー)の未来を担保に金を貸し付け、アントレプレナーとそのパートナー(アセット)をペアとしてペア同志にバトルをさせています。金融街で得た黒い金は現実世界でも使うことが出来、公麿は、実は現実世界に金融街の金が多く流れ込んでいること、金融街が現実世界に影響を与えないよう三國壮一郎率いるムクドリギルドが暗躍していること、敗北は実際に未来を失うことになることなどを知っていきます。

放送時もその後もあまり反響が無かったように覚えている作品ですが、今見返しても抜群の面白さでした。

この物語には二つの軸があります。一つは主人公である公麿と三國壮一郎の関係です。この二人はオープニング・アニメーションで明示されているように、いずれは戦うことになります。一時は何となく三國の言うことを聴いていた公麿が、やがて決定的に価値観を違え対立していく様子がこの作品のメインの柱です。

もう一つが、公麿と彼のアセットであるマシュの関係です。優柔不断で不器用な公麿とは対照的に歯切れよく有能なマシュは、当初公麿をあまりよく思っていません。しかしながら、彼の一貫した周囲へのやさしさや思慮深くあろうとする態度に感化され、次第に好意を寄せるようになります。

公麿と壮一郎の価値観の対立は「失ってしまった可能性」への怒りと、「明日に意味がない」ことへの怒りの対立と言えます。ゆえに公麿は今日のために明日を犠牲にすることを良しとせず、壮一郎は明日を顧みず今日を支えようとします。この二人は分かり合えません。一方で、作品全体がそうであるように、この二人の価値観の対立は「明日のために金を使うべきか」「今日のために金を使うべきか」の対立とも言えます。

この二人の戦いは公麿が主人公であるためそちらに肩入れしてしまいがちなのですが、実は二人の守りたい価値観をそのまま入れ替えたとしても、すんなり公麿に肩入れしてしまうことが出来ます。つまり、どちらかが悪でどちらかが善ではなく、たいていのまっとうな人には判断が下せないような価値観の衝突として描かれています。二人の根底にあるのは善悪でも計算でも論理でも倫理でもなく、固執です。このおかげで話が薄っぺらな勧善懲悪に終らずに済んでいます。絶妙の脚本でした。

公麿とマシュの関係は淡い恋物語です。そもそもマシュは自分が抱き始めたのが恋とはわかっていないような状態の上、公麿は受け入れることに躊躇がありました。そのため二人の関係が恋に昇華するのは、別れの前のほんのひと時だけでした。絶妙だったと思います。この二人の関係は本当に優しく、素敵でした。

また、マシュの存在は公麿が父親への見方を変えるカギとしても機能しており、全体的に暗くなりがちな話に温かみを添えています。

『C』は、金融用語バトルという外連味あふれるアイデアの作品である一方、「価値観の相違」「淡い恋物語」という二つの物語軸を持つ深みのある仕上がりになっています。また、我々の社会における金の意味をそれとなく端々で暴き立てている作品でもあります。

久々に良質の作品を見返すことが出来て、大変満足でした。

前向きの寂しさに彩られた『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』

『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』の放送が終了しました。昨年(2020)の10月から1クール放送された同番組は、直後の今年1月に再放送が始まり、さらに4月からNHKに場所を変えて再放送されるというまさかの3クール連続放送となりました。

これまで私はラブライブシリーズはゲームもしていませんしアニメも見ていませんでした。そもそも、あの異様に主張の大きな瞳が苦手で忌避していた、ということもあります。ただ、東條希だけはその傑出したキャラデザのおかげで辛うじてわかる、と言う状態でしたね。

言っておきますが、本当にほめていますからね。あのキャラデザは傑出しています。

さて、そういう状態でニジガクを見始めたのは実は1月からです。ほぼ前知識ゼロと言う状態で、どのくらいほぼゼロかというと1話の途中まで、

(沼津ってこんなに大きな施設があるんだ)

と思っていました。番組が違う。

さて、そういう状態でぼんやり見始めたものの優木せつ菜の『Chase!』に一発ノックアウトです。正直言って舐めてかかってました。こんなにエネルギッシュで前向きなメッセージを叩きつけてくるなんて想像もしていませんでした。この曲のシーンはアニメも秀逸で、ぼんやりと毎日を過ごしていた脩がせつ菜が歌に込めたメッセージに叩きのめされ、新しい気持ちを胸に抱く、と言う様子が実に鮮やかに描かれていました。キャラデザも例の瞳は抑え気味に描かれており、落ち着いて見ることができます。

そうやってみるみるはまってしまい、結局4月からの3回目の放送も全部見てしまいました。振り返ってみれば、この作品はせつ菜の歌だけではなく、いろいろなところまで細やかに作りこまれた作品でした。特に脚本・構成は見事で1話でアイドルをあきらめたせつ菜を3話で脩が同好会に引き込むまでの流れは緻密かつ以後の話に向けて広がるように作っており、何度見返しても高い満足度を味わうことができます。

せつ菜に反発したかすみが自分の行いを顧みてせつ菜と同じことをしている、と気づくシーンなどその最たるものです。彼女は単にそれを反省で終わらせず、せつ菜の気持ちを汲み、そして「自分とグループ」という高い視点で見つめなおしています。ストーリー全体を通して「自分とグループ」という視点をきちんと持つことができたのはせつ菜とかすみだけであり、4話前半でせつ菜がかすみだけを呼び出して「ソロアイドル」という路線を相談したこともうなづけます。4話ではそれぞれがやりたいことを話し合いますが、それがすべて実現されていくというのも話の広がりとして楽しかったです。

さて、このように全体として楽しい話でしたが、一方で「ソロとしての自己実現」を扱っているがゆえに、私はこの物語に何とも言えないさみしさを感じてしまいました。

ラブライブ!シリーズがグループアイドルを扱っていることはそれまでアニメを見ていなかった私でも知っていることです。それをソロでやる、と言う横紙破りがこの作品を活気づけています。ソロでやることはこの作品では全肯定されており、それはストーリーでも、オープニングでも、エンディングでも歌われています。

言うまでもないことですが、この作品で語られる「一歩踏み出そう」は別れの話ではありません。それは夢に向かって一歩歩き出すことです。しかし、おそらくはメイン・ヒロインのポジションにいる歩夢自身が、前に歩き出すということは別れだと言っています。

「今は私の大好きな相手が脩ちゃんだけじゃなくなってきて、本当は私も離れていってる気がするの」(12話)

これに対するせつ菜の答えが振るっています。

「始まったのなら、貫くのみです」

彼女らしい明るくエネルギッシュなセリフです。前に向かう選択肢しかない。しかし歩夢の悩みをまったく解決していいません。それでも結局歩夢はその言葉を正面から受け取り、(たとえ別れになろうとも)前に進む決断をします。

脩のほうは歩夢と離れていくという気持ちなど別段持っていないのですが、歩夢視点だと、脩は一貫して好きなことが増え続けており、相対的に脩の中の歩夢が小さくなっているのは事実です。10話から始まったもやもやした展開は、結局この事実を「二人が前に進むことの代償」として歩夢が受け入れることでようやく解決を見ています。

最終回のクライマックス『夢がここから始まるよ』は、この番組を象徴するような、夢に向かって歩き始めることを応援する素敵な歌です。しかし、私は画面から制作者も意図していないようなものを拾い上げて勝手に一喜一憂するような人間です。そういう人間からすると、「アイドルの笑みを浮かべた歩夢が背を向けて仲間たちの下へ駆けて行き、カメラがズームアウトしてモニタの中の彼女たちが写る」というシーケンスにも別れの匂いを感じずにはいられません。

高校生のクラブ活動はモラトリアムの最たるものといっていいでしょう。仲間と集い、同じことをする。卒業が来ればばらばらになりそれぞれが違うことを始めるまでのつかの間の結束。しかし、この作品ではグループ・アイドルでありながら個性を尊重しソロ活動を認めることで、同じ同好会でありながらそれぞれが違う活動をする方向に歩んでいます。

「私たちは仲間だ」

というメッセージは繰り返し発せられますが、彼女たちがそれを強調すればするほど、彼女たちが歩む道がすでに分かれていることを感じずにはいられません。その雰囲気はエンディング曲の「NEO SKY, NEO MAP!」にも色濃く表れています。

『ラブライブ!虹が咲学園スクールアイドル同好会』は、グループが結成されて彼女たちの夢が始まる物語であるにもかかわらず、卒業式に唄う歌のような明るい未来に彩られた別離を思わせる、不思議な作品でした。

『ゴジラ シンギュラポイント』

2021年春アニメの中でも抜群に面白いゴジラS.P.。毎回混迷を深めていく状況にはらはらしながら見入っています。

初代『ゴジラ』では水爆によって目覚めた破壊神ゴジラによる災厄が描かれます。この映画には戦争で百万人以上が死んでから10年しか経っていない日本という世相、ならびに日本人の死生観が色濃く反映されており、それ故に様々な解釈が与えられ名作と呼ばれるようになりました。この映画ではゴジラこそが災厄であり、ゴジラとどう向き合うか、ゴジラをどう退治するかがテーマです。したがって、なぜ水爆によってゴジラが目覚めたかは描かれていません。そのこと自身は作品の価値を下げませんが、SFとしては不満が残ります。

一方、ゴジラS.P.ではゴジラを『紅塵災厄の一つ』と位置付けており、紅塵災厄とどう向き合うか、どう解決するかがテーマです。なぜゴジラが 紅塵災厄から現れたのかはまだ描かれていませんが、なんにせよ(スタッフは大きな声では言わないでしょうけど)ゴジラはストーリーにおいては脇役でしかありません。

と言うことで、メイは芦原破局点をどうやって回避するのか!!ユンはゴジラと戦うのか!!が10話放送終了時点での注目点です。

さて、謎を残しつつ伏線の回収が始まったこの作品ですが、ここでざっと伏線を眺めてみると一つの仮説が出てきます。このストーリーって、芦原博士が仕組んでいるように思えませんか?

芦原博士と未来を見る計算機

現時点で芦原博士について断片的にわかっていることをざっと並べてみるとこんな感じです。

  • みさきおくの研究所の設立者であること
  • 研究所地下の骨から出る電波を送信する施設を作ったらしいこと
  • SHIVAの設立にかかわっているらしいこと
  • ほとんどの研究は認められず、研究ノートも何を書いているかわからない事
  • 時間屈折を使った超計算機を使う仮定で、未来に破局点を発見したらしいこと。

などです。最後の点を言い出したのはメイですね。

仮にメイの仮説が正しく、博士が未来の破局点を見つけたのだとしたら、根本的な疑問が浮かび上がります。

「博士は破局が起こると知ってなお、手をこまねいて見ていたのか」

この質問に対する考えうる答えは

  1. Yes, 博士は研究対象としての破局に興味はあるが、回避は二の次だった。
  2. No, 博士は破局回避の努力をした。

というものです。1.はマッドサイエンティスト的ですが、ゴジラシリーズにおいては避けて通れないスタンスです。初代ゴジラでは山根博士が「ゴジラを殺すより研究することが人類への貢献となる」と主張しており、話の重要なポイントとなっています。ゴジラS.P.においてはBBがこの立場に近いように描かれていますね。

芦原博士は写真や研究ノートを見ると実にマッドなご様子ですが、2.のスタンスだったのではないかと私は思っています。仮に2のスタンスだった時、芦原博士は何をしたのでしょうか。

タイムマシンのパラドックス

10話の冒頭、メイの回想としてリー博士とのタイムマシン論議が描かれます。回想のなかでリー博士は

「タイムマシン・パラドックスは情報を送らなければ発生しない」

と言っています。ここでいうタイムマシン・パラドックスは、博士が言うように

「タイムマシンによって得た未来の情報で過去を変えると未来も変わる。その結果、タイムマシンの無い未来に収束する」

というものです。

この論議は要するに芦原博士の超計算機を望遠鏡のように使って未来を見ても、それを利用することはできないということです。

芦原博士が超計算機を使って未来を改変しようとすると、超計算機が利用できない未来に行きつき、破局を回避できるかどうかわかりません。いっぽう、博士には計算機しか武器がありません。

ジレンマです。

芦原ノートと暗号放送とSHIVA

リー博士の

「情報を送らなければパラドックスは起きない」

という主張に対して芦原博士が到達答えを発見したのがユンです。ユンはみさきおくからの放送にディジタル・データが埋め込まれていたことを見抜いていましたが、10話でそれがMDハッシュであることを突き止めます。その結果、彼は放送されているデータのメッセージ解読にあらかた成功しますが、いっぽうで別の疑問を抱きます。

なぜ、当時存在しないアルゴリズムによる符号化ができたのか。そもそも、なぜそんなことをしたのか。

これは見ている我々には自明です。芦原博士は超計算機を使い、未来に開発されるアルゴリズムによる計算を行ったのです(後述)。そしてそんなことをしなければならなかった理由は、彼の時代に解釈できる形でそれを放送すれば、未来が書き換わって破局の回避が不確定になるからです。

芦原博士は彼の時代には雑音としての意味しかないMDハッシュを使ってデータを送る仕掛けを作りました。おそらく、彼の研究ノートが意味不明に記されているのも同じ理由です。彼は将来…破局が起きる直前に…誰かがそれを解読することを期待して難読化したのではないでしょうか。

そしてひょっとすると、SHIVA設立さえその後の未来を改変するための土台だったのかもしれません。

偶然なのかプログラムされた必然なのか

さて、現在お話は進行中です。

我々はみさきおくの研究所の警報により提携研究所に連絡が入り、代理で偶然メイが登場し、首をひねりつつ業者であるオオタキ・ファクトリーへ電話し、ユンと電話で会話をするシーンを見ました。オオタキ・ファクトリーのWEBサイトに遊び半分でアクセスしたメイが考えもなくナラタケをインストールするのを見ました。ナラタケはインストールをメイに請い、ペロ2となってメイのノートをまとめて勝手に論文サイトに投稿します。偶然論文を読んだリー博士はメイをシンガポールに招待します。そして移動中に偶然ラドンが街を襲うさまを見たメイは、洗濯物が心配になります。メイの意を汲んだペロ2はオオタキ・ファクトリーの作業用自走車両を乗っ取り、偶然にもユン達を助けます。そこから、偶然チャットするようになったユンは、芦原ノートに取り組むメイを助けます。リー博士はメイを芦原博士が残した書斎に案内し、SHIVAへの道筋をつけて退場しました。幽霊騒ぎが起きてユンが駆り出されたお屋敷は偶然にも芦原博士の屋敷でした。

これって全部偶然ですかね?もちろん、物語中では偶然です。我々は主人公とヒロインが偶然出会って偶然世界を救うお話をずいぶん見ています。

でもこれ、ぶっちゃけ芦原博士の組んだプログラムじゃないですか?

全くの妄想ですが、芦原博士は直接的な未来改変をあきらめた後、破局の直前に、それを回避しうるシナリオを探ったのではないでしょうか。そうして、超計算機によるシミュレーションを何度もまわして、もっとも破局回避の可能性の高いシナリオを作り上げたのかもしれません。そのシナリオは、

  • 地下の骨からの警報を探知したら提携研究室に連絡するという、一見無意味な指示。
  • 電波に埋め込まれたMDハッシュ。

を起点としてメイとユンをみさきおくに引き寄せ、メイが芦原ノートにたどり着き、ユンの協力を得られるようなバタフライ効果を計算したのかもしれません。SHIVAの設立も、メイの前にリー博士を連れてくるためだった可能性があります。

メイをユン、リー博士という二人の協力者に合わせたことからペロ2もだいぶ怪しいのですが、それがバタフライ効果によるものか、芦原博士が何かを仕組んだのかはちょっとわかりませんね。今のところ芦原博士からナラタケにつながる線は無いようですが。

もう一波乱ありそう

物語は終盤へと向かい、どうやらメイとユンがあと一回言葉を交わせば破局を逃れる道筋がつながりそうです。一方でインドの研究所の面々は「シバ」と呼ばれる何かを隠し持っているようで、一波乱あることは避けられないでしょう。

なんにせよ、「科学者と技術者が世界を救う」というSFど真ん中のこの作品も残すところあとわずか。ワクワクしながら放送を待ちます。

ウマ娘をインストールして艦これをやめた

ウマ娘 プリティーダービー。大変な人気ですよね。

SNSはどこもかしこもウマ娘、ウマ娘、ウマ娘。Youtubeにもたくさんビデオが上がっており、どうやって育てるか皆さん熱心に語っています。

実際、コンテンツのビデオを見ると感心します。何しろ可愛くて3D。それがフリフリ楽し気に踊って歌いますし、レースシーンは「走る」というこの上もない美しい姿を存分に見せてくれます。

なので、スマホに入れてみたのですよ。で、チュートリアルに入るか入らないかのところでアンインストールしてしまいました。

だってこれ、とてつもない時間簒奪アプリですよ。

3Dモデルの歌って踊って可愛い女の子が、美しい姿で走り回るのですよ。これでしゃべってストーリーがついて、楽しくないわけがない。一日何時間も時間を奪われるに決まっています。

そして、改めて気づいたわけです。どんなゲームも時間を奪うことを手段としているわけですし、私は艦これに時間を注ぎすぎた、と。

昨年の今頃、実はミスで照月を轟沈させてしまっています。その後やる気をなくしてしばらく離れていました。実際、かなりアクティビティが落ちているさなかのことでした。それが夏あたりから再開し、それまで無視していた高難度の任務を一つ一つクリアしていきました。今年の頭頃にはすべての単発出撃任務をクリア完了。

ここ最近はネジ集めのためにウィークリー任務を全クリアする日々でした。でもこれ、ゲームに時間をかけすぎていますよね。

結局、艦これをやめてしまいました。いざやめると、あれほど執着していたネジの数が気になりません。また始めるかもしれませんが、今は別のことに時間を注いでいます。

BNA

ケモノ少女という、ある種のマニアに刺さる設定で始まったBNA。どんなものかと観ていましたが、中盤から何度もあっと言わされました。

  • 二人一緒に事故に巻き込まれた少女たちが、同じ病院で治療を受けいずれも変身能力を獲得しているという伏線。
  • Netflixから資金を得て全世界展開を見越した作品でありながら「狐と狸は化ける」という日本でしか通じない話をあえて持ってきている戦略。
  • 偶然ながらBlack Lives Matterが吹き荒れるこのタイミングで主題が「少数者排斥への抵抗」であること。
  • そして演じるということのポリティカル・コレクトネスが吹き荒れるご時世にあわせたかのような「何が美しいかは自分が決める」というセリフ。

日本での反響はそれほどでもなかったようですが、7月から始まった世界配信がどう受け取られるかは興味があるところです。

全体の構成もうまいものでした。中盤まで時間をかけてヒロインをアニマシティになじませ、アニマシティを取り巻く問題をじっくりと描いた後、話を動かしながら伏線をゆっくりと見せていく手腕のおかげで安心してストーリーを追うことができました。

BNAは私にとって2020年の忘れられない作品になりました。

麻藤兼嗣と鼓田信

亀が出ている作品を『甲羅干し』で取り上げないのは片手落ちだと思いました。

絶賛放送中の『波よ聞いてくれ』。原作は1話無料公開でドはまりした後、1巻発売時からずっとコミックスを読んでいます。アニメは想像以上に高いレベルの作品に仕上がっていますね。原作の面白さを抑えながら、音で食っている人たちの仕事を丁寧に音で表現しています。

声優陣は大原さやかさんが芽代まどかを演じると報じられた時からテンションあがりっぱなしでした。ふたを開けてみると期待にたがわぬ声。そしてミナレ役をこれまで注目されていなかった杉山里穂さんが好演しています。サブキャラも皆さんイメージとドンピシャで、すでに原作を開いてもセリフが声優さんの声で再生されます。幸せなアニメ化ですわ。

さて、本題です。原作を読んでいた時からうっすら気になっていたのですが、アニメを見て再び気になり始めたことがあるので記しておきます。原作にも触れますが、アニメ未放送分の話は出ませんのでご安心を。

麻藤さんと、ミナレさんの父親である͡鼓田信さん、この二人には接点があるのではないでしょうか。いや、接点といわずとも共通の知人がいるのでは。ぶっちゃけ二人はシセル光明と同時期に接触していたんじゃないかと思われる節があります。

まずヒロインの名前です。麻藤さんはミナレさんを高く買う理由についていろいろと理由を挙げています。ラジオ業界に生きる人としてその言葉に嘘はないようですが、一方で彼はシセル光明から30年前にアイヌの言葉として「ミナ・レ(笑わせる)」という言葉を聞き、覚えています。そして信さん(お父さん)。ミナレの名前の由来について煙に巻きましたが、初登場時に電話で

「周りから笑われる人間になれ」

と言っています。これがミナ・レという言葉結びつくんですよね。単なる説教にも聞こえますが、いくら細かいギャグまで拾っているとは言え、アニメがこのセリフを忠実に拾っていることが気になります。

つぎにラジオです。麻藤さんはシセル光明が旅に出るときにスカイセンサー5900をもらっています。作品内の時間から言ってこのエピソードは80年代前半だと思われますが、当時スカイセンサー5900はすでに生産中止。ですからシセル自身が言っているようにお年玉を貯めて買ったのでしょう。ただ、時期的に麻藤さんはこの当時10代だったと思われます。回想シーンでも対等に話している風はありませんから、シセルに対してお姉さん的な憧れをもって接していたようです。

さて、このスカイセンサー5900ですが荒巻き鮭回に出てきたように信さんも持っていました。年齢的に言って中学生くらいの時に手に入れたものでしょう。当時BCLはブームでしたし、ソニーのスカイセンサー5900は松下のクーガー2200と並ぶ大人気機種でした。ですから「偶然」シセルと信さんが同じラジオを持っていた可能性はもちろんあります。

そして場所。麻藤さんが福岡出身であることはミナレさんとの最初の飲みで明かされています。で、信さんですがここが引っかかるのです。ミナレさんが命名理由を尋ねたとき、信さんは自宅と思われる場所で電話を取っています。そのとき、電話の横にケースに収められた人形がおかれているんですよ。これ、博多人形じゃないですか?

アニメ8話『電話じゃ話せない』より。博多人形らしきものが写っている。
原作第28話『電話じゃ話せない』より。やはり博多人形らしきものが描かれている。

鼓田信さんって、福岡に居たことがあるのでは?

最後に人脈です。信さんは娘が深夜のラジオでデビューするのを知っていて、その時間に聞いているんですよね。ミナレさん本人だって夜になって知らされたのに。「知人」から聞いたって誰でしょう(ぶっちゃけ、私はMRSの偉いさんだと思っています。そう考えるとMRS自腹枠にOKが出ていることも納得がいく。でも多分麻藤さんはその事情を知らない)。

ということでまとめです。麻藤さんと鼓田信さんは共通点が多いです。

  • ミナ・レというアイヌ語の意味を知っている。
  • スカイセンサー5900という古いラジオを持っている。
  • 麻藤さんは福岡出身、信さんは何らかの形で福岡に縁がある。
  • 麻藤さんはラジオで働いている。信さんはMRSに知り合いがいると思われる。

あやしい。多分、この二人は30年前にシセルを挟んで向き合っています。今はミナレさんを挟んで向き合っていますね。私はシセルにアイヌ語のテキストを渡したのが鼓田信さんである可能性も考えています。

『虚構推理』が楽しい

アニメ放映中の『虚構推理』を毎週楽しく見ています。

ヒロインはあやかし共に片目を抉られ片足を切断されるというなかなかえぐい設定ですが、当の本人がその結果として

「おひい様」

と呼ばれる立場を楽しんでいるというあっけらかんとしたキャラです。彼女のああ言えばこう言う性格が、ともすれば暗くなりがちなエピソードを救っているように思えます。ストーリーも、沼の主が納得するような適当な話をでっち上げたり、かといえば話の通じない怪異とバトルを繰り広げたりと、多彩です。

妖怪が出てきている時点で十戒を破っていますが、ノリノリで描かれるミステリとして存分に楽しめます。何より、スタッフが楽しんで作っているのが伝わってきます。まさか劇中で死んだアイドルの歌を1曲聞かされるとは(笑)。

『火炎放射器とわたし』は劇中で非業の死を遂げたアイドル七瀬かりんの持ち歌です。ちょっと調べたところ、昨年11月に七瀬かりんのツイッターが始まり、初主演ドラマ『青春火吹き娘』についてつぶやかれています。その後、明るい調子のつぶやきが続くものの、1月12日にマネージャーにより休養の書き込みがあり、19日の本人と思われるつぶやきを最後に更新されていません。いや細かい。

そして、ここまでやるのだから当然のように鋼人七瀬まとめサイトは存在します。

琴子は対話が不能で意志を感じないことから、鋼人七瀬は空虚な操り人形だと考えています。どうも、無責任なファンのうわさ話が作り上げた虚像が実在化したような話です。

だとしたら、こうしてアニメスタッフにより作られたであろう仕込みを一所懸命読んでまわっている私も、鋼人七瀬を創りだしたファンたちと同じです。まんまと劇中に取り込まれていますね。

『色づく世界の明日から』紙飛行機

これはずっと書き残しておかなきゃ、と思っていたことです。

『色づく世界の明日から』。終盤の紙飛行機のシーンは実に素敵でした。

口できない想いが溢れそうになって、たまらず紙飛行機に魔法をかけて飛ばしてしまう瞳美。紙飛行機に書かれた瞳美の気持ちを読み、やはり胸にしまっていた気持ちが溢れて走りだす唯翔。

唯翔に届くよう魔法を描けたふたつ目の紙飛行機が、進路をそれる。その意味に思い当たって、家を飛び出す瞳美。

携帯電話の登場で世の中が随分ロマンティックでなくなったなんて声も聞こえますが、そんなこともありません。魔法を扱った作品で描かれた、胸を締め付けられるような美しいシーンでした。

あのシーンは、ちょっと忘れられないです。

『グランベルム』最終回の結論

ずっともやもやしていた事が自分の中で綺麗にまとまったので、メモとして残しておきます。

グランベルムについては何回か書いています。私にとってグランベルムとは

「魔法のない世界を願っていた少女が心を揺らし、それでもやはり魔法をなくそうと決意する苦しい物語」

でした。魔法以外には取り立てて何も持っていなかった新月は、満月によってこの世界は魔法が無くても美しいことを説かれます。そして満月やアンナを救うことができたかもしれない力を選ばずに、魔法をこの世から消し去ることを選びました。

ところが最終回のラスト。新月の静かな日常がひとしきり描かれたあと、彼女の足元の花が魔法をかけられたように咲きます。そして彼女にとって重要かもしれない転校生が現れるところで話は終わります。

魔法は残っていたのでしょうか。魔法は残っていなかったはずだ、というのが私の理解でした。魔法があれば友達を作ることができます。子供の頃にそう思いついたことを、恐ろしいことだと内省したことが新月の「魔法をなくす戦い」の始まりでした。多くの悩みと苦しみを背負いつつも、満月と話し合って出した「やはり魔法はいらない」という結論は彼女にとってとても大事なことです。

もし魔法が残っていたのなら、物語を通して描かれた新月と満月の日々は全部意味がなかったことになってしまいます。

では、あのシーンは何だったのか。

私はあのシーンは奇跡だったのではないか、と思っています。満月は魔法がなくともこの世界は奇跡と美しいことで満ち溢れている、と新月に説きました。その言葉の正しさを胸に、新月は魔法のない世界を守ったのです。ラストのシーンは、魔法のない世界でひとりぼっちだった新月に起きた奇跡だったのでしょう。

『ヴィンランド・サガ』14話。戦士がもたらす信仰と、虐殺がもたらす救い

2期に入ってから驚かされるエピソードがポツポツと現れてきました。ストーリーの中で中庸から外れたところにいる人間を描くのがうまい原作者の力量によるものでしょう。14話はストーリーに加えて美術が凄まじく、心が揺さぶられるような回でした。

クヌート王子を護送するアシェラッド一行は雪に阻まれ、近隣の村への襲撃を余儀なくされます。一行が連れて行く牧師は海賊たちの話の中でトルフィンの父親、トールズの戦いとその言葉を聞きます。一方、近隣の村の少女アンは出来心から盗みを働いてしまったため、信仰が心の重荷になっていました。

今回は食料に窮したアシュラッド隊が、村を襲います。雪に閉ざされた村は襲撃を察知することも、他に救援を頼むこともできず、されるがままに略奪されます。

襲い奪うものと、襲われ奪われるもの。

この両者の中のキリスト教徒二人の心象に光を当てた回でした。アンの物語は単体として十分に衝撃的で、視るものに苦い思いを残す上質のストーリです。しかし、その対比として牧師をおいたことが一層ストーリーを印象強くしています。

海賊たちからろくな扱いを受けていない牧師ですが、彼はトールズの戦い(名前は聞いていない)とその最後の言葉を聞きました。

「本当に強い兵士に剣はいらない」

トールズは素手で数十人を叩きのめしますが、己の命を失っても一人も殺していません。これが牧師の心を揺さぶります。

一方、その本当に強い戦士から殺されずに生き延びた海賊たちは、近隣の村を襲い、機密保持のために全員を殺します。偶然その場にいなかったアンは無残にも家族をすべて失いますが、皮肉なことに自分を苛んでいた信心深い環境が消えてしまったのでした。

自分が死ぬことになっても海賊を殺すことを拒んだトールズと、信仰故に自分の盗みを悔い苦しみ続けたアン。この二人が、ひとつの海賊団を挟んで知らず向き合っているという構造は、実にあっぱれです。

正しくなければならないと信じることは、強くない人には苦痛なのかもしれません。私はキリスト教に詳しくはありません。しかし、よく聞く受難という考えは、多くの強くない人々に苦しくも正しい道を説く上での考え方かもしれません。

そんなことを考えたエピソードでした。