『おにいちゃんはおしまい』のメタファー

今期のダークホース的な位置にある『お兄ちゃんはおしまい』は、TSもののコメディという極めて引火しやすそうなコンテンツです。しかしながら、根底に互いのことを思いやる兄と妹の心を描くことで、今にもどこかに飛んでいきそうな凧をうまくつなぎとめているように見えます。

さて、何回か繰り返し見ているうちに、作品中に面白いメタファーがちりばめられていることに気が付きました。

例によって強引な解釈ですがひとつづつ列挙してみます。

第1話

第1話では屋根の上にいる1羽の雀が描かれています。これが、まひろの孤独のメタファーだと考えるならば、毛づくろいする様は自分の体を何度も見下ろしていたまひろと重なるとも言えます。

それにしても美しい作画ですね。

終盤には見事なアゲハチョウが描かれます。変身のメタファーですね。

第2話

この回ではみはりが望んだとおり、二人の仲はより打ち解けたものになります。それを象徴するかのようにスズメは2羽になっています。電線の上のスズメと言えば、『とらドラ!』でも竜児と大河の仲がスズメで表現されていました。

女の子の日の話だったからか、ツバキらしき赤い花も描かれていました。

第5話

第3話4話はそれらしいメタファーはありませんでした。

第5話では冒頭に6羽のスズメが描かれます。ラストにもみじが友達のあさひとみよを連れてきて、OP/EDに描かれる6人がそろいました。

第6話

第6話では冒頭に淡いピンクの花が描かれます。中学校に編入して本格的に「女の園」を経験することになると暗示しているのでしょうか。スイートピーならば花言葉は「門出」と編入初日にぴったりです。

中盤にはスズメが4話。これは女子中学生4人組を表していますね。

まとめ

『お兄ちゃんはおしまい』はぼんやり見ても楽しいコメディですが、兄と妹の間の気持ち、ポップさの中にある美しい作画など細かく見ても楽しめる作品です。

メタファー探しも楽しいですよ。

おまけ

番組中にいろいろな形で出てくる謎の生物は、原作者のねことうふ氏のアイコンでもあるオオサンショウウオでしょうか。

一方、このシーンでは鰓と尾びれが描かれています。鰓がある描写は珍しく、意図的なものかもしれません。サンショウウオは幼体の時には鰓を持っています。しかしながら意図的に鰓のある姿を描いているのなら、このクッション(?)はウーパールーパーなのかもしれません。

ウーパールーパーといえば幼形成熟です。成人であるにもかかわらず中学生の姿をしているまひろのメタファーでしょうか。

実績ある米澤穂信の閉塞

米澤穂信はデビューして20年以上になるミステリ作家です。数々の賞も受賞していますし、代表作と呼ぶにふさわしい作品も複数あります。

その代表作の一つでありデビュー作でもある古典部シリーズは、原作発表から20年、アニメ放送から10年経過してもファンから愛されています。かくいう私も新作が発表されるたびに飛びついて読んでいます。

一方で、20年続く(あるいは20年完結しない)古典部シリーズは米澤穂信にとってちょっとした重荷になっているように思えます。というのは、ファンの気持ちが強いからです。

言うまでもなく古典部シリーズの中では主人公である折木奉太郎とヒロイン千反田えるがどうなるのか、が重要な一つの縦糸となっています。この二人の関係がどうなるのか、はもちろん作者である米澤穂信が決めることです。一方で、このご時世、ファンの重すぎる期待が時に過剰反応になることはご存じのとおりです。

これまでの話の流れから言って折木奉太郎を長い休日から引き出すのは(厳密にはこれもファンの期待に過ぎませんが)千反田えるでしょう。また、最近ツイッターのTLで読んだ解釈が面白かったのですが、その解釈に従うなら鍵のかかった部屋の少女である千反田えるを、鍵を開けて部屋(陣出)から引っ張り出すのは折木奉太郎の役割ということになります。

これはファンからするとハッピーエンドなわけですが、こんな風に方向が決まるのは閉塞感を描く作家にとってどうなんだろう、と考えずにいられません。

米澤穂信についてこのブログでは繰り返し『閉塞感』の作家だと書いています。無論、数ある作品の中には閉塞感を打ち破る結末もあります。しかしながら、現在でも発表される作品の多くは重苦しい閉塞感が舞台を覆っていたり、結末も閉塞から抜けきれないものが多数あります。

これまで閉塞感を打破した作品でも、登場の背後には何かしら閉塞した状況が続いていてそれが読後に何とも言えない重苦しさを少し残していました。ある意味米澤風味と言えますが、こういう重苦しさを引きずったうえでのハッピーエンドになるのかなぁ、などと感じています。

なんだか結末まで導くのがひどく難しい作業に思えます。が、そういった作品を書く上での『米澤穂信という作家を包む閉塞感』を考えると、多少不謹慎ですがアイロニカルな面白みを感じます。

『ぼっち・ざ・ろっく!』と『アキバ冥途戦争』

2022年の最後を飾る秋アニメはきらら系コミックを原作とする『ぼっち・ざ・ろっく!』が台風の目の中心でした。一方で、TVオリジナルの『アキバ冥途戦争』も負けず劣らず強烈な印象を残しています。

以下、両作品について思いつくままに書いてみます。

原作への内挿と外挿が光った『ぼっち・ざ・ろっく!』

10月放送開始当時はそれほど注目されていなかった『ぼっち・ざ・ろっく!』ですが、11月には「今期のダークホース」と呼ばれ、12月に入ってからは堂々たる今期ナンバーワン候補となっていました。

原作はきらら系4コマ漫画です。激しいバトルがあるわけでもなく、黒々とした怨嗟も渦巻かず、淡々と心地よい程度のアップダウンを楽しむのがこの系統の作品です。『ぼっち・ざ・ろっく!』も多分に漏れずあっさり目のコメディとストーリーが続きます。

こういった作品をアニメ化するときには原作通りにしてしまうとあっという間に終わってしまうか、間を取りすぎて間延びした作品になってしまいます。

『ぼっち・ざ・ろっく』では徹底したキャラの理解のもとに、4コマのコマの間で起きていることを内挿しただけではなく、さらには「こんなやり取りもあったのでは」という外挿も行われていました。

例えば、大雨で観客の入りが悪かった初ライブの後の打ち上げで、ぼっちがサラリーマンの会話に耳を傾けるシーンがあります。このシーンは原作だと2コマ、しかもセリフだけです。しかしアニメにはここでくたびれた二人組のサラリーマンをじっくり描いてみませます。このシーンで抜群にうまかったのが視点の切り替えでした。カメラが移動してサラリーマンの向こうにボッチが映るだけでもう視聴者としては爆笑せずにはいられませんでした。ぼっちが将来に不安を抱いていることがきちんと描かれ、それが視聴者と共有されていると確信できているからこその演出です。

作画に関しても、実写アニメーションや特殊効果デフォルメといった挑戦的な描写が多々見られました。これらも原作に描かれているぼっちの精神崩壊表情を踏まえたうえで、「ここまでならやっても大丈夫だろう」という見極めが絶妙だったと言えます。

特に印象深く記憶に残っている場面があります。第6話「八景」で、ぼっちがきくりと出会うシーンです。ここでぼっちのギターを触ってみたきくりが「大事に使っているんだね」とギターを渡すシーンの二人の脚の動きに息をのみました。脚を動かしてギターの移動とのバランスをとる動作が描かれています。

言っちゃ悪いですが、原作は4コマまんがですよ。ここまで描写する必要なんてあるはずないのです。それでもぼっちの体の動きをきちんと描写することで「大事に使っているんだね」という何気ない言葉がきちんとした重さを持ったものになっています。

ところが同じシーンでもきくりに「ついておいでよ」と連行されるシーンでは物理もリアリティも踏み倒して極めて漫画的なひらひらした動作でぼっちが引っ張られています。「きくりに振り回されている」というぼっちの心境がよくわかります。

第6話「八景」より。同じ場所の連続するシーンだが、リアリティに対する深度が全く違う

原作への理解という点では、やはりヒロインに対する理解の深さをとりあげなけれなりません。『ぼっち・ざ・ろっく!』は女の子がバンドをやる様子を楽しく見る漫画ですが、根底にヒロインの

「他人とかかわるのが苦手だが、みんなにちやほやされたい」

という本人も認めるめんどくさい性格からくるハードモードな日常が横たわっています。アニメではこの部分を骨格に見事に作品を肉付けしています。

女の子バンドを楽しく見るアニメのオープニングの冒頭に「広い宇宙の中で押し入れの中に潜り込んでいる」ヒロインの絵を持ってきて、ラストに楽しそうなクラスメイト達を見つめる絵を持ってくる理解の深さがこの作品のクオリティの高さを物語っていると言えます。

オープニング・アニメーションより、冒頭と最後のシーン

一本びしっと通った筋を見せつけた『アキバ冥途戦争』

十人が十人、「なんじゃこりゃ!」と思うような作品でした。

かわいいメイドさんにあこがれて上京してきた和平なごみは、アキバのメイド喫茶『とんとことん』で働き始めます。そこは、彼女があこがれたかわいいメイドの世界ではなく、「メイドなら、殺られる前に殺れ」というやくざな世界でした。

第一話の嵐子の銃撃シーンがあまりにも強烈で、その辺で考えることを止めてしまったような気がします。(ギャグかな)と思ったのですが、放送中盤から(これは大ごとだぞ)と思いながら見ていました。大真面目にやくざ映画をやってる。メイドの恰好で。

途中にギャグをはさみながらも展開するのは、あくまで抗争です。毎回人が死にます。いとも簡単に。モブが死に、ゲストスターが死に、重要人物だと思っていた人が死ぬ。特にすさまじかったのは愛美が登場した中盤の数回で、さすがに彼女は死ぬだろうと思っていましたが、死体の処理には度肝を抜かれました。まじで?メイドさんを?

後半は

「和平なごみはヒロインではなく、和平なごみを通して描かれるヒロイン嵐子」

だと思っていたのです。だって嵐子には持ち歌があるけどなごみにはないじゃないですか。それも最終回直前にちゃぶ台返しでした。

この作品は見ているうちに「なごみは何をしているんだ、この作品はやくざ映画なんだから、メイドなら殺せよ」と思ってしまうのですが、それこそがスタッフの思うつぼ。最終回で凪率いるケモノランドグループ総出のかちこみを迎え撃ってなごみが仕掛けたのが『メイド戦争』。

初回で徹底的に否定した「メイドさんならお客さんを萌え萌えさせなければ」というなごみの主張で平押ししてきます。そんな世界でなかろうが彼女たちは知ったことではありません。とんとことんのスタッフはあおられても怒鳴られてもスマイル接客。

「お前らを殺しに来た」
「ありがとんとん!」

の下りは、この作品の狂気が頂点に達した瞬間です。そしてその後の展開も猛烈な緊張感をはらんだ狂気に彩られています。

怒号が飛び交う中、なごみが歌うのは死んだ嵐子の持ち歌。歌った後に語るのは堂々たるメイドの心得です。

一見これまでの世界観をぶち壊してます。しかし、それを聞きながら誰にも語らず凪が思い出す嵐子は、あくまでかわいいメイドを目指しています。

「かわいいメイドになりたかった」

と言って死んだ嵐子の持ち歌を歌い、メイドはお給仕だと説くなごみ。振り返ってみると、全く違うように見えた嵐子となごみは、二人とも「かわいいメイドさん」にあこがれ、二人とも年齢など歯牙にもかけず貫いています。

恐るべき鋼の意思で練り上げられた筋の通った脚本でした。

(ゾーヤのロシア語に「なんだって!」と返す下り、笑わずにはいらせませんでした)

考え抜くことを楽しんで作られた作品

『ぼっち・ざ・ろっく』とは『アキバ冥途戦争』は全くベクトルが違う作品です。しかしながら、いずれも製作スタッフが考えに考え抜いて作られた作品であり、しかも彼ら彼女らが楽しんで作ったであろうことがうかがわれる作品でした。

素晴らしい作品を作ってくれたスタッフに感謝します。

『三つの秘密、あるいは星ヶ谷杯準備滞ってるんだけど何があったの会議』

少し古い話になりますが米澤穂信の表記の短編を『野性時代』2022年7月号で読みました。古典部最新作です。以下、本作と古典部シリーズのネタバレがありますのでご注意を。

作品中の時期は『ふたりの距離の概算』の少し前。校内マラソン大会の準備中に総務委員による会議が開かれます。当のマラソン大会の準備が滞っているのですが、なぜ滞っているのかがわかりません。総務部副委員長の里志がこの行政的問題を解決するために司会を務めるのでした。

発売して即購入し、一読して「ああ、これはファンサービスだな」と思ったのを覚えています。

里志の自分の能力に対する諦念は、『クドリャフカの順番』『手作りチョコレート事件』で繰り返し取り上げられており、本人のみならず読者のよく知るところです。その彼が捨てたものではないどころか、とんでもない能力を持っていそうだと描いているのがこの作品です。

彼の司会の手際の良さは関係者三人に順番に発言させただけで問題を解決させたことにあり、これは明らかに『愚者のエンドロール』でほかならぬ里志が絶賛した『女帝』入須冬実をなぞらえたものです。彼女は同作品で奉太郎をコテンパンにのしており、里志が女帝なみの力量で会議をまわして問題解決したとなると、これ以上のファンサービスは無いように思えます。

が、昨日の事、帰宅途中にぼんやりと古典部の事を考えながら歩いていてこれまで気が付いていなかったあることに思い当たりました。この作品は古典部シリーズという作品の方向が変わっていく流れの中にあるようです。

私は常々、米澤穂信は閉塞感や全能感の喪失を描く作家だと書いています。デビュー当時からの代表的作品である古典部シリーズも例外ではありません。『氷菓』は集団からの無言の空気の中で声を上げることもできなかった男の青春を暴きつつ、奉太郎のバラ色ではない青春を肯定する話でした。『愚者のエンドロール』では奉太郎が抱いた「ひょっとして自分は特別なのか」という自負が叩き潰される話です。『クドリャフカの順番』では奉太郎を除く古典部の面々が自分の能力の限界をいやと言うほど思い知らされる話です(奉太郎が打ちのめされる未来もほのめかされている)。

そして高校1年生の終わりを締めくくる短編『遠まわりする雛』では、千反田さんが奉太郎に彼女が生きる世界がいかに閉塞しているかを語って聞かせます。

しかしながらこの作品を読んで、遅まきながら「二年生になってからの古典部は別の方向に向かっているのではないか」と思うようになりました。

いうまでもなく、最新短編集『いまさら翼といわれても』は、古典部の面々が歩き出す、あるいは歩き出さねばならない話が収録されています。

収録されている作品のうち『私たちの伝説の一冊』は、『クドリャフカの順番』で自分の力のなさを嫌と言うほど噛み締めた摩耶花が、同じく自分の力のなさを噛み締めていた河内先輩と話し合い、歩み始める話です。

『長い休日』は奉太郎がかつて関わった古い事件を思い起こしつつ、その彼の「休日」をやがて誰かが終わらせてくれるだろうという姉の言葉を思い出す話です。

表題作『いまさら翼といわれても』は、陣出に残って地域のために生きようと心に決めていた千反田さんが、籠の扉をあけられて戸惑う話です。この作品は都市労働者の目から見ると自由を獲得したという話にすぎません。が、シリーズ中で明かされた彼女の意志や人柄を考えれば重い読後感にならざるを得ません。

『長い休日』『いまさら翼といわれても』は『私たちの伝説の一冊』ほど強く前向きな作品ではありません。しかしながら奉太郎は誰かがその休日を終わらせる手前でぼんやりと立っているところであり、千反田さんは開け放たれた扉の前で戸惑っているところです。二人が互いに手を伸ばせばそれぞれの閉塞はそこで終わる。と、大変手前味噌な妄想を禁じえません。

そして里志です。負けず嫌いな自分が嫌いで、だけど奉太郎が見せた能力への羨望とコンプレックスを捨てきれなかった彼は、本作品では総務部でその手際を絶賛されています。

一年生のときはさんざんその限界と閉塞を描かれた四人でしたが、二年になってからはゆっくりと彼ら彼女らの世界が広がっていくように思えます。

第一作公開から20年経過してなお、彼ら彼女らの高校生活は半ばです。あと10年位で結末を見ることが出来るといいなぁと思いつつ、どうやら少し明るい方向に向かっているようでほっとしています。

アニメ『リコリス・リコイル』アラン機関のバランス

匂うなぁ。漂白された、除菌された、健康的で不健全な、嘘の匂いだ。バランスをとらなくっちゃぁなぁ!

4話。間島のセリフ

絶好調の『リコリス・リコイル』は7話が放送されました。個人的に6話での間島の描き方は好きになれないのですが、それはともかく世間はこの番組の事で大盛り上がりです。

女の子がイチャイチャする展開が目白押しのこの番組ですが、とうとうおっさんがイチャイチャするシーンまで登場し、視聴者の脳髄はめちゃくちゃです。一方、展開は極めて危うい方向に進んでいます。

ここまでではっきりしたことのうち、アラン機関についてわかっていることを書きます。

  • アラン機関は多くの人の才能を後押しして世間から賞賛されている
  • しかし機関が花開かせたい千束の能力は殺人
  • そのために間島を雇って次々に殺人を犯させている

めちゃめちゃです。1話のニュースで「人の善意」を体現しているかのように報道されていたアラン機関ですが、千束の殺人の能力を開花させるために、数えきれないほど多くの人を犠牲にしています。到底「人の善意」などと呼べる話ではありません。

私は4話でシンジが千束を類まれな殺しの天才とミカの前で評し、世界に届けなければならないと言った時からずっとこれが気にかかっていました。冒頭の間島のセリフは、このシンジのシーンの直後です。

「バランス」は間島の口癖です。冒頭に引用したように初登場の最初のセリフがこれでした。6話では何度も口にしてロボ太をイラつかせます。正直、特に意味のない口癖だと思っていました。ところが、7話のラストがこれです。

7話ラスト。チャームとバランス。

7話のラストで間島もフクロウのチャームを持っていることが明らかになります。つまり、アラン機関は単なる手ごまとして彼を使っているのではなく、その才能を発揮することを期待しているということになります。では何の才能でしょうか。これまで彼はテロリストとして描かれていました。テロリストの才能でしょうか。

そうじゃないように見えるのです。手すりの上にあり得ないバランスで立っているスマホ。ここでもバランスです。手の中のチャームとあり得ないバランス。彼の才能はバランスをとることかもしれません。

そう考えると、6話でロボ太に姫蒲さんが言った「うまく彼の中の興味のバランスをとってください」という言葉も単なる脚本上のギャグではなく、アラン機関が間島のバランスの才能を意識して使っていることを暗示しているのかもしれません。

同性愛とコントの洪水で忘れそうになりますが、1話冒頭でさらっと描かれたリコリスによる治安維持は病的です。実は狂っているのはリコリスが維持している安全で、正しいのは間島のバランス意識なのでしょうか。やっていることは狂人のそれですが。

アラン機関の目的は何なのでしょうか。アラン機関の目的が「埋もれている才能を発掘して世に出すこと」だとすると、何がアラン機関に間島の殺人を許させているのでしょうか。ランダムな大量殺人は埋もれいている人材を死に至らしめることだってあるでしょう。

単なる妄想ですが、アラン機関が「多くの才能を世に出すには、多様性が必要だ」と考えている可能性はあります。そうだとすると、リコリスを使って「悪い人たち」を無条件に刈り込んでいる日本社会は多様性を危機に追いやっており、アラン機関の目的と真っ向から対立している可能性があります。この筋書きは背景に社会ダーウィニズムが浮かび上がってきますので、かじ取りを間違うと大炎上になりかねません。ま、私の予想に過ぎませんが。

この作品のスタッフがストーリーをどう料理するのか、とても楽しみにしています。

アニメ『リコリス・リコイル』3話まで完璧な展開

アニメ『リコリス・リコイル』を視聴しています。

女子高生が主人公の近未来アクションです。正直この設定には

「またか」

という気持ちが強いのですが、1話でしてやられました。めちゃくちゃ面白いです。

話は喫茶リコリコに井ノ上たきなが合流する1話、ちさととたきなで護衛したウォールナットがリコリコに合流する2話、そしてたきながDAへの気持ちにいったんけりを付ける3話が放送されており、どうやらここまでで起承転結の起のようです。

これまでの3話を見る限り、この作品はストーリー、作画、演技いずれもハイレベルに仕上がっており、毎回楽しいですし次回が楽しみです。特にちさとがDAを去った理由については一部明かされましたがまだ不明な点があり、店長であるミカと敵であるアランの関係とともにどうやら話の本筋にかかわるようです。

さて、すでに述べた通りストーリー、作画、演技、と素晴らしいところが沢山あるのですが、ここまでで特別に印象深いのが脚本の妙です。3話までを作品の起と考えた時、そのなかでのテーマは

『たきなによるリコリコの受容』

です。DAを自分が本来居るべき場所と規定し、リコリコへの派遣を一時的な二軍落ちとしか考えていないたきな。その彼女がちさとに心を開いてリコリコに心から参加するまでが3話です。この作品の脚本がうまいな、とおもうのは

「たきなは心を開きました」

と描写するだけでなく、その心の変化をにおわせるエピソードが絶妙に配置していあるからです。

例えば、1話でちさとが銃弾を避けた際、たきなはそのシーンを目にしていません。しかし、2話でそれを後ろから目にした彼女は驚愕の表情を浮かべています。そのエピソードは2話ラストの髪留めのエピソードにコミカルにつながります。一方、たきなの銃の腕は1話のドローン撃墜で証明済みですが、射撃訓練場でさらにそれが偶然ではないことが描かれています。そして3話の終盤。ちさとはたきなのためにフキ・サクラ組に単身挑みます。その勝負に遅れて参戦したたきな。彼女がちさとごと背後のフキを打ち抜く構えを見せたことでちさとの能力を完全に信頼していることがわかります。ちさとも瞬時にその判断を見抜いて銃弾を交わし、勝負が決着します。このシーンはかつてのリーダーであるフキに銃を向けることとちさとの能力を信じることが重ねられており、たきなの決意が強く表れています。

また、1,2話でDAを追われたことへの不服の象徴だったたきなのほほの絆創膏はフキのほほにうつり、DAを(いったん?)去るというたきなの決意の象徴となったっています。うまい。

そしてなんといっても3話は帰りの列車のシーンです。ここでは

  • 行きで辞退した飴を受け取っている。
  • 「ちさとさん」から「ちさと」に呼び方が変わっている。
  • 初めて見せる笑顔。

の三連発でたきなの気持ちが前に進んだことが鮮やかに描かれています。そして

「たきなさぁ、私を狙って撃っただろ」

の一言。この一言は普段のちさとの軽さを感じさせない、ひょっとすると責めているんじゃないかと思わせるような言葉です。

ところがこのシーンでちさとはたきなに飴を渡します。

二人とも目を合わせていないにもかかわらず、ちさとはたきなを責めていませんし、たきなはちさとを受容しています。それが飴玉一つで表現されていて、何度見ても素晴らしいシーンです。

ちさととフキがいがみ合っているにもかかわらず互いを認めていることがわかったり、エリカの気持ちをヒバナが何よりも優先してやさしく寄り添ったりと細やかな描写が無理なく挿入されているのも見事です。ちさととフキの関係描写は事件の整理が同時に進行しているため説明臭ささもありません。3話冒頭でたきながボードゲーム参加を断るエピソードも、ラストのスマホのメッセージの意味を強めます。

それぞれのエピソードも、ちさととフキの素晴らしい煽りあいからのかっこいい銃撃戦へのなめらかな展開や、たきなの頑なな心が融かされている噴水前のちさとの言葉、へこまされてしゅんとなるサクラなど粒ぞろいです。そしてフキの

「二度と戻って来んじゃねぇ」

に続いて遠くから聞こえるちさとの

「置いてっちゃうぞぉ、置いてかないけど!」

の言葉が暗示する、たきなの居場所。もう、ほんと、ほめるところしかありません。

これまでのところ非常に高いレベルの作品です。今後の展開が楽しみです。

『タコピーの原罪』はどこまで聖書をなぞっているのか

『タコピーの原罪』上巻を読みました。来月には下巻発売だそうで楽しみです。以下、ネタバレがありますので上巻公開中のエピソードを読んでいない人は気を付けてください。

上巻が各地で売り切れるなど人気がしている作品ですが、内容はちょっと子供に読ませることをためらうような内容です。異能バトルといった架空の設定ではなく、子供たちの生活の上に描かれた作品であるだけに、おろし金で皮膚をはぎ取られるような気分になります。

さて、この作品はタイトルに「原罪」と言う言葉があり、作者が聖書を題材にとって作品を描いたことをにおわせます。その観点で少し考えてみました。

第一話ではタコピーが「訳あってしばらく星に帰れない」としずかに言うシーンがあります。この言葉はタイトルの「原罪」に関連がありそうに思えます。実際、13話にはタコピーが母星にて「掟を破った」として記憶を消され追放されるシーンがあります。そう考えれば、ここでいう掟破りこそが彼の原罪であり、それゆえ母星からの旅立ちは楽園追放であることが想像されます。直接話とは関連していませんが、母星であるハッピー星にはハッピーフルーツとよばれる果物があるそうで、これはリンゴを想起させます。

楽園である母星から追放されているのであれば、当然地球での生活は彼にとって「エデンの外」の話になります。

まりなはしずかを森に呼び出し、ここで凄惨なことが起きるわけですが、タコピーによる介入があるとはいえ、まりなの親の愛をめぐる争いであるこれは「カインによるアベル殺し」を思わせます。また、死体発見の経緯もやはり「アベル殺し」を思わせます。

旧約聖書が犯罪のオンパレードであることはよく知られていますが、この作品にも自殺、殺人、窃盗(未遂)、親殺しといった救いのない話が描かれています。

上巻には7話収録されており、次回のエピソードは14話。救いのないこの話ももうすぐ終わります。一方で、13話で語られた掟の詳細はまだ伏せられており、これがどう話を転がすのか、そもそもハッピー星の使命が本当に「宇宙にハッピーを拡げる」ことなのかはまだわかりません。ヘビであり、アダムとイブであるタコピーがどうなるかもわかりません。

正直なところ、最近の漫画は風呂敷の畳み方で残念な気持ちになることが多いです。実はこの作品についても聖書からいろいろなエピソードをつまんだだけで、あまりきれいな話のまとまり方をしないのではないかと、ちょっと斜に構えています。良い意味で裏切ってほしいものです。

最後のキーパーソンになる東(あずま)君を見ながら、

(そういえば『エデンの東』もカインとアベルを下敷きにしていたなぁ)

などと考えているところです。

未来をかけたバトルと切ない恋『C』

最近、アニメの配信サービスを契約しました。録画しそこなった番組や、録画を手元で見るのが難しくなった番組を楽しめるようになってウキウキしています。

早速ノイタミナ枠で放送されたアニメ『C』を視聴しました。

特に将来に夢を持つわけでもなく、毎日を何とか生きているだけの大学生余賀公麿(よがきみまろ)は、ある日謎の男真坂木に案内されてこの世界ならざる場所である『金融街』に足を踏み入れます。金融街はプレイヤー(アントレプレナー)の未来を担保に金を貸し付け、アントレプレナーとそのパートナー(アセット)をペアとしてペア同志にバトルをさせています。金融街で得た黒い金は現実世界でも使うことが出来、公麿は、実は現実世界に金融街の金が多く流れ込んでいること、金融街が現実世界に影響を与えないよう三國壮一郎率いるムクドリギルドが暗躍していること、敗北は実際に未来を失うことになることなどを知っていきます。

放送時もその後もあまり反響が無かったように覚えている作品ですが、今見返しても抜群の面白さでした。

この物語には二つの軸があります。一つは主人公である公麿と三國壮一郎の関係です。この二人はオープニング・アニメーションで明示されているように、いずれは戦うことになります。一時は何となく三國の言うことを聴いていた公麿が、やがて決定的に価値観を違え対立していく様子がこの作品のメインの柱です。

もう一つが、公麿と彼のアセットであるマシュの関係です。優柔不断で不器用な公麿とは対照的に歯切れよく有能なマシュは、当初公麿をあまりよく思っていません。しかしながら、彼の一貫した周囲へのやさしさや思慮深くあろうとする態度に感化され、次第に好意を寄せるようになります。

公麿と壮一郎の価値観の対立は「失ってしまった可能性」への怒りと、「明日に意味がない」ことへの怒りの対立と言えます。ゆえに公麿は今日のために明日を犠牲にすることを良しとせず、壮一郎は明日を顧みず今日を支えようとします。この二人は分かり合えません。一方で、作品全体がそうであるように、この二人の価値観の対立は「明日のために金を使うべきか」「今日のために金を使うべきか」の対立とも言えます。

この二人の戦いは公麿が主人公であるためそちらに肩入れしてしまいがちなのですが、実は二人の守りたい価値観をそのまま入れ替えたとしても、すんなり公麿に肩入れしてしまうことが出来ます。つまり、どちらかが悪でどちらかが善ではなく、たいていのまっとうな人には判断が下せないような価値観の衝突として描かれています。二人の根底にあるのは善悪でも計算でも論理でも倫理でもなく、固執です。このおかげで話が薄っぺらな勧善懲悪に終らずに済んでいます。絶妙の脚本でした。

公麿とマシュの関係は淡い恋物語です。そもそもマシュは自分が抱き始めたのが恋とはわかっていないような状態の上、公麿は受け入れることに躊躇がありました。そのため二人の関係が恋に昇華するのは、別れの前のほんのひと時だけでした。絶妙だったと思います。この二人の関係は本当に優しく、素敵でした。

また、マシュの存在は公麿が父親への見方を変えるカギとしても機能しており、全体的に暗くなりがちな話に温かみを添えています。

『C』は、金融用語バトルという外連味あふれるアイデアの作品である一方、「価値観の相違」「淡い恋物語」という二つの物語軸を持つ深みのある仕上がりになっています。また、我々の社会における金の意味をそれとなく端々で暴き立てている作品でもあります。

久々に良質の作品を見返すことが出来て、大変満足でした。

前向きの寂しさに彩られた『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』

『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』の放送が終了しました。昨年(2020)の10月から1クール放送された同番組は、直後の今年1月に再放送が始まり、さらに4月からNHKに場所を変えて再放送されるというまさかの3クール連続放送となりました。

これまで私はラブライブシリーズはゲームもしていませんしアニメも見ていませんでした。そもそも、あの異様に主張の大きな瞳が苦手で忌避していた、ということもあります。ただ、東條希だけはその傑出したキャラデザのおかげで辛うじてわかる、と言う状態でしたね。

言っておきますが、本当にほめていますからね。あのキャラデザは傑出しています。

さて、そういう状態でニジガクを見始めたのは実は1月からです。ほぼ前知識ゼロと言う状態で、どのくらいほぼゼロかというと1話の途中まで、

(沼津ってこんなに大きな施設があるんだ)

と思っていました。番組が違う。

さて、そういう状態でぼんやり見始めたものの優木せつ菜の『Chase!』に一発ノックアウトです。正直言って舐めてかかってました。こんなにエネルギッシュで前向きなメッセージを叩きつけてくるなんて想像もしていませんでした。この曲のシーンはアニメも秀逸で、ぼんやりと毎日を過ごしていた脩がせつ菜が歌に込めたメッセージに叩きのめされ、新しい気持ちを胸に抱く、と言う様子が実に鮮やかに描かれていました。キャラデザも例の瞳は抑え気味に描かれており、落ち着いて見ることができます。

そうやってみるみるはまってしまい、結局4月からの3回目の放送も全部見てしまいました。振り返ってみれば、この作品はせつ菜の歌だけではなく、いろいろなところまで細やかに作りこまれた作品でした。特に脚本・構成は見事で1話でアイドルをあきらめたせつ菜を3話で脩が同好会に引き込むまでの流れは緻密かつ以後の話に向けて広がるように作っており、何度見返しても高い満足度を味わうことができます。

せつ菜に反発したかすみが自分の行いを顧みてせつ菜と同じことをしている、と気づくシーンなどその最たるものです。彼女は単にそれを反省で終わらせず、せつ菜の気持ちを汲み、そして「自分とグループ」という高い視点で見つめなおしています。ストーリー全体を通して「自分とグループ」という視点をきちんと持つことができたのはせつ菜とかすみだけであり、4話前半でせつ菜がかすみだけを呼び出して「ソロアイドル」という路線を相談したこともうなづけます。4話ではそれぞれがやりたいことを話し合いますが、それがすべて実現されていくというのも話の広がりとして楽しかったです。

さて、このように全体として楽しい話でしたが、一方で「ソロとしての自己実現」を扱っているがゆえに、私はこの物語に何とも言えないさみしさを感じてしまいました。

ラブライブ!シリーズがグループアイドルを扱っていることはそれまでアニメを見ていなかった私でも知っていることです。それをソロでやる、と言う横紙破りがこの作品を活気づけています。ソロでやることはこの作品では全肯定されており、それはストーリーでも、オープニングでも、エンディングでも歌われています。

言うまでもないことですが、この作品で語られる「一歩踏み出そう」は別れの話ではありません。それは夢に向かって一歩歩き出すことです。しかし、おそらくはメイン・ヒロインのポジションにいる歩夢自身が、前に歩き出すということは別れだと言っています。

「今は私の大好きな相手が脩ちゃんだけじゃなくなってきて、本当は私も離れていってる気がするの」(12話)

これに対するせつ菜の答えが振るっています。

「始まったのなら、貫くのみです」

彼女らしい明るくエネルギッシュなセリフです。前に向かう選択肢しかない。しかし歩夢の悩みをまったく解決していいません。それでも結局歩夢はその言葉を正面から受け取り、(たとえ別れになろうとも)前に進む決断をします。

脩のほうは歩夢と離れていくという気持ちなど別段持っていないのですが、歩夢視点だと、脩は一貫して好きなことが増え続けており、相対的に脩の中の歩夢が小さくなっているのは事実です。10話から始まったもやもやした展開は、結局この事実を「二人が前に進むことの代償」として歩夢が受け入れることでようやく解決を見ています。

最終回のクライマックス『夢がここから始まるよ』は、この番組を象徴するような、夢に向かって歩き始めることを応援する素敵な歌です。しかし、私は画面から制作者も意図していないようなものを拾い上げて勝手に一喜一憂するような人間です。そういう人間からすると、「アイドルの笑みを浮かべた歩夢が背を向けて仲間たちの下へ駆けて行き、カメラがズームアウトしてモニタの中の彼女たちが写る」というシーケンスにも別れの匂いを感じずにはいられません。

高校生のクラブ活動はモラトリアムの最たるものといっていいでしょう。仲間と集い、同じことをする。卒業が来ればばらばらになりそれぞれが違うことを始めるまでのつかの間の結束。しかし、この作品ではグループ・アイドルでありながら個性を尊重しソロ活動を認めることで、同じ同好会でありながらそれぞれが違う活動をする方向に歩んでいます。

「私たちは仲間だ」

というメッセージは繰り返し発せられますが、彼女たちがそれを強調すればするほど、彼女たちが歩む道がすでに分かれていることを感じずにはいられません。その雰囲気はエンディング曲の「NEO SKY, NEO MAP!」にも色濃く表れています。

『ラブライブ!虹が咲学園スクールアイドル同好会』は、グループが結成されて彼女たちの夢が始まる物語であるにもかかわらず、卒業式に唄う歌のような明るい未来に彩られた別離を思わせる、不思議な作品でした。

『ゴジラ シンギュラポイント』

2021年春アニメの中でも抜群に面白いゴジラS.P.。毎回混迷を深めていく状況にはらはらしながら見入っています。

初代『ゴジラ』では水爆によって目覚めた破壊神ゴジラによる災厄が描かれます。この映画には戦争で百万人以上が死んでから10年しか経っていない日本という世相、ならびに日本人の死生観が色濃く反映されており、それ故に様々な解釈が与えられ名作と呼ばれるようになりました。この映画ではゴジラこそが災厄であり、ゴジラとどう向き合うか、ゴジラをどう退治するかがテーマです。したがって、なぜ水爆によってゴジラが目覚めたかは描かれていません。そのこと自身は作品の価値を下げませんが、SFとしては不満が残ります。

一方、ゴジラS.P.ではゴジラを『紅塵災厄の一つ』と位置付けており、紅塵災厄とどう向き合うか、どう解決するかがテーマです。なぜゴジラが 紅塵災厄から現れたのかはまだ描かれていませんが、なんにせよ(スタッフは大きな声では言わないでしょうけど)ゴジラはストーリーにおいては脇役でしかありません。

と言うことで、メイは芦原破局点をどうやって回避するのか!!ユンはゴジラと戦うのか!!が10話放送終了時点での注目点です。

さて、謎を残しつつ伏線の回収が始まったこの作品ですが、ここでざっと伏線を眺めてみると一つの仮説が出てきます。このストーリーって、芦原博士が仕組んでいるように思えませんか?

芦原博士と未来を見る計算機

現時点で芦原博士について断片的にわかっていることをざっと並べてみるとこんな感じです。

  • みさきおくの研究所の設立者であること
  • 研究所地下の骨から出る電波を送信する施設を作ったらしいこと
  • SHIVAの設立にかかわっているらしいこと
  • ほとんどの研究は認められず、研究ノートも何を書いているかわからない事
  • 時間屈折を使った超計算機を使う仮定で、未来に破局点を発見したらしいこと。

などです。最後の点を言い出したのはメイですね。

仮にメイの仮説が正しく、博士が未来の破局点を見つけたのだとしたら、根本的な疑問が浮かび上がります。

「博士は破局が起こると知ってなお、手をこまねいて見ていたのか」

この質問に対する考えうる答えは

  1. Yes, 博士は研究対象としての破局に興味はあるが、回避は二の次だった。
  2. No, 博士は破局回避の努力をした。

というものです。1.はマッドサイエンティスト的ですが、ゴジラシリーズにおいては避けて通れないスタンスです。初代ゴジラでは山根博士が「ゴジラを殺すより研究することが人類への貢献となる」と主張しており、話の重要なポイントとなっています。ゴジラS.P.においてはBBがこの立場に近いように描かれていますね。

芦原博士は写真や研究ノートを見ると実にマッドなご様子ですが、2.のスタンスだったのではないかと私は思っています。仮に2のスタンスだった時、芦原博士は何をしたのでしょうか。

タイムマシンのパラドックス

10話の冒頭、メイの回想としてリー博士とのタイムマシン論議が描かれます。回想のなかでリー博士は

「タイムマシン・パラドックスは情報を送らなければ発生しない」

と言っています。ここでいうタイムマシン・パラドックスは、博士が言うように

「タイムマシンによって得た未来の情報で過去を変えると未来も変わる。その結果、タイムマシンの無い未来に収束する」

というものです。

この論議は要するに芦原博士の超計算機を望遠鏡のように使って未来を見ても、それを利用することはできないということです。

芦原博士が超計算機を使って未来を改変しようとすると、超計算機が利用できない未来に行きつき、破局を回避できるかどうかわかりません。いっぽう、博士には計算機しか武器がありません。

ジレンマです。

芦原ノートと暗号放送とSHIVA

リー博士の

「情報を送らなければパラドックスは起きない」

という主張に対して芦原博士が到達答えを発見したのがユンです。ユンはみさきおくからの放送にディジタル・データが埋め込まれていたことを見抜いていましたが、10話でそれがMDハッシュであることを突き止めます。その結果、彼は放送されているデータのメッセージ解読にあらかた成功しますが、いっぽうで別の疑問を抱きます。

なぜ、当時存在しないアルゴリズムによる符号化ができたのか。そもそも、なぜそんなことをしたのか。

これは見ている我々には自明です。芦原博士は超計算機を使い、未来に開発されるアルゴリズムによる計算を行ったのです(後述)。そしてそんなことをしなければならなかった理由は、彼の時代に解釈できる形でそれを放送すれば、未来が書き換わって破局の回避が不確定になるからです。

芦原博士は彼の時代には雑音としての意味しかないMDハッシュを使ってデータを送る仕掛けを作りました。おそらく、彼の研究ノートが意味不明に記されているのも同じ理由です。彼は将来…破局が起きる直前に…誰かがそれを解読することを期待して難読化したのではないでしょうか。

そしてひょっとすると、SHIVA設立さえその後の未来を改変するための土台だったのかもしれません。

偶然なのかプログラムされた必然なのか

さて、現在お話は進行中です。

我々はみさきおくの研究所の警報により提携研究所に連絡が入り、代理で偶然メイが登場し、首をひねりつつ業者であるオオタキ・ファクトリーへ電話し、ユンと電話で会話をするシーンを見ました。オオタキ・ファクトリーのWEBサイトに遊び半分でアクセスしたメイが考えもなくナラタケをインストールするのを見ました。ナラタケはインストールをメイに請い、ペロ2となってメイのノートをまとめて勝手に論文サイトに投稿します。偶然論文を読んだリー博士はメイをシンガポールに招待します。そして移動中に偶然ラドンが街を襲うさまを見たメイは、洗濯物が心配になります。メイの意を汲んだペロ2はオオタキ・ファクトリーの作業用自走車両を乗っ取り、偶然にもユン達を助けます。そこから、偶然チャットするようになったユンは、芦原ノートに取り組むメイを助けます。リー博士はメイを芦原博士が残した書斎に案内し、SHIVAへの道筋をつけて退場しました。幽霊騒ぎが起きてユンが駆り出されたお屋敷は偶然にも芦原博士の屋敷でした。

これって全部偶然ですかね?もちろん、物語中では偶然です。我々は主人公とヒロインが偶然出会って偶然世界を救うお話をずいぶん見ています。

でもこれ、ぶっちゃけ芦原博士の組んだプログラムじゃないですか?

全くの妄想ですが、芦原博士は直接的な未来改変をあきらめた後、破局の直前に、それを回避しうるシナリオを探ったのではないでしょうか。そうして、超計算機によるシミュレーションを何度もまわして、もっとも破局回避の可能性の高いシナリオを作り上げたのかもしれません。そのシナリオは、

  • 地下の骨からの警報を探知したら提携研究室に連絡するという、一見無意味な指示。
  • 電波に埋め込まれたMDハッシュ。

を起点としてメイとユンをみさきおくに引き寄せ、メイが芦原ノートにたどり着き、ユンの協力を得られるようなバタフライ効果を計算したのかもしれません。SHIVAの設立も、メイの前にリー博士を連れてくるためだった可能性があります。

メイをユン、リー博士という二人の協力者に合わせたことからペロ2もだいぶ怪しいのですが、それがバタフライ効果によるものか、芦原博士が何かを仕組んだのかはちょっとわかりませんね。今のところ芦原博士からナラタケにつながる線は無いようですが。

もう一波乱ありそう

物語は終盤へと向かい、どうやらメイとユンがあと一回言葉を交わせば破局を逃れる道筋がつながりそうです。一方でインドの研究所の面々は「シバ」と呼ばれる何かを隠し持っているようで、一波乱あることは避けられないでしょう。

なんにせよ、「科学者と技術者が世界を救う」というSFど真ん中のこの作品も残すところあとわずか。ワクワクしながら放送を待ちます。