2019年夏アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」を3話まで観ました。
幼なじみへの切ない思いを胸に抱えたまま、年頃を迎えて突然性に振り回されとまどう小野寺和紗。彼女のストーリーを軸として、同じ文芸部に所属する少女たちの揺れる心を描いた群像劇です。
まだ3話ですが、ここまで見た感想は
「抜群に構成と脚本がうまい」
につきます。
まず文芸部という舞台設定が見事です。一時期流行した「活動内容不明の部活」ではなく、彼女らが属する文芸部は全員が部長の指導のもと純文学と真剣に向き合っています。題材に純文学を持ってきているのは見事です。21世紀日本において残念ながら純文学は力を失っていますが、それ故にカースト社会化するクラスに居所を見いだせない少女たちに、小さく静かな居場所を提供できています。一方で、純文学は否が応でも彼女たちを性愛の世界に引き入れます。目をそらせば、それは文学と正面から向き合うことへの拒絶であり、真面目で純粋であるがゆえにこの掃き溜めに流れてきた彼女たち自身と矛盾が生じます。
この作品では実のところ、個々の部員の性との向き合い方がてんでバラバラにになっており、それ故に文芸部という比較的縛りのきつい部活のもたらすまとまりが、作品に対してうまい統一感を出しています。
部室での活動を除けば、彼女たちは本当にバラバラです。
自分の一番よい時期である少女時代が終わることを以て「死」と受け止め、その前にセックスを知りたいと考える菅原新菜。
創作物を文学に昇華させるためには、リアリティを知らなければならず、それ故誰でもいいからセックスを経験したいと考える本郷ひと葉。
持ち前の潔癖で部活を牽引してきたものの、ここに来て自分の孤高が後輩たちの居場所を奪いかねないことに気づき、拒絶してきた「男に好かれる化粧」を意識し始める曾根崎り香。
そして幼なじみへの恋心をついに自覚するも、その先にあるセックスを受け入れられずに迷走する小野寺和紗。
新菜とひと葉が、実際にはセックスよりも重要な事を心の中にもっており、
「そのために必要ならセックスを経験したい(あるいは経験しなければならない)」
と考えているのに対して、和紗はセックスそのものに対して強い羞恥と恐れを持っています。その拒絶の強さは、り香に近いと言っていいでしょう。り香は潔癖故に『セックス』という言葉そのものに耐え切れず、『えすいばつ』という代用語を賞賛しています。
幼なじみの自慰の目撃、恋心の自覚、幼なじみのおかずとの直面、まだ変わらぬ彼の一面への喜び、そして行き違いからくる失意。和紗のストーリーは部員の誰よりも大振幅であり、ここまでの話を貫く楽しいドタバタになっています。
一方で、彼女こそは「読書を好む少女」に対して我々が勝手に投影するイメージの権化です。和紗は優しく、善良で純粋な少女です。幼なじみを心から大事に思っており、距離が離れたことに心を痛めています。純粋な少女のイデアといってもよい登場人部の目の前に、自慰の最中の男性生殖器を持ってくれば、爆発的な反応が起きるに決まっています。
そして、これは根拠の薄いいつもの深読みですが、どうも和紗の問題に対してはすでに出口が提示されているように思えます。
和紗と泉はすでに両想いであり、セックスに対する年頃の少年少女が抱く強い気持ちが、二人の間の壁になっています。ところが、3話で話が進展します。進退窮まった和紗はやけくそになって、両親にセックスの話を聞こうとしますが、舌足らずだったために両親は和紗が生まれた時の話をしはじめます。これは爆笑シーンなのですが、落ち着いてみれば、和紗が本当に考えるべきことを両親は和紗に話しているように思えます。
二人が結婚してセックスをした結果和紗が生まれました。生物学的にはそれだけのことです。が、二人は「和紗を授かったことはこの上もなく幸せなことだ」とはっきり言っています。和紗は自分の質問が誤解されたことだけを受け止めて落胆していましたが、彼女が真剣に考えれば、二人の言葉から
「セックスはその先の幸せと連続したものだ」
と気づくことでしょう。それは、『えすいばつ』などと言い換えて忌避しなければならない類のものではありません。もしそれに気づけば、純文学を嗜むことによって養われた感性は、二人の関係を即物的ではない、もっと祝福されるべきものに押し上げるかもしれません。
セックスが視聴者のためのお色気ネタとして消費される現在のアニメ界において、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は、セックスと向き合わなければならない少女たちの戸惑いを正面から描いた、稀有な作品です。今後の展開が楽しみです。