『ヴィンランド・サガ』14話。戦士がもたらす信仰と、虐殺がもたらす救い

2期に入ってから驚かされるエピソードがポツポツと現れてきました。ストーリーの中で中庸から外れたところにいる人間を描くのがうまい原作者の力量によるものでしょう。14話はストーリーに加えて美術が凄まじく、心が揺さぶられるような回でした。

クヌート王子を護送するアシェラッド一行は雪に阻まれ、近隣の村への襲撃を余儀なくされます。一行が連れて行く牧師は海賊たちの話の中でトルフィンの父親、トールズの戦いとその言葉を聞きます。一方、近隣の村の少女アンは出来心から盗みを働いてしまったため、信仰が心の重荷になっていました。

今回は食料に窮したアシュラッド隊が、村を襲います。雪に閉ざされた村は襲撃を察知することも、他に救援を頼むこともできず、されるがままに略奪されます。

襲い奪うものと、襲われ奪われるもの。

この両者の中のキリスト教徒二人の心象に光を当てた回でした。アンの物語は単体として十分に衝撃的で、視るものに苦い思いを残す上質のストーリです。しかし、その対比として牧師をおいたことが一層ストーリーを印象強くしています。

海賊たちからろくな扱いを受けていない牧師ですが、彼はトールズの戦い(名前は聞いていない)とその最後の言葉を聞きました。

「本当に強い兵士に剣はいらない」

トールズは素手で数十人を叩きのめしますが、己の命を失っても一人も殺していません。これが牧師の心を揺さぶります。

一方、その本当に強い戦士から殺されずに生き延びた海賊たちは、近隣の村を襲い、機密保持のために全員を殺します。偶然その場にいなかったアンは無残にも家族をすべて失いますが、皮肉なことに自分を苛んでいた信心深い環境が消えてしまったのでした。

自分が死ぬことになっても海賊を殺すことを拒んだトールズと、信仰故に自分の盗みを悔い苦しみ続けたアン。この二人が、ひとつの海賊団を挟んで知らず向き合っているという構造は、実にあっぱれです。

正しくなければならないと信じることは、強くない人には苦痛なのかもしれません。私はキリスト教に詳しくはありません。しかし、よく聞く受難という考えは、多くの強くない人々に苦しくも正しい道を説く上での考え方かもしれません。

そんなことを考えたエピソードでした。

『グランベルム』

2019年夏アニメ『グランベルム』が最終回を迎えました。以下、ネタバレ感想です。

当初、三話どころか二話で視聴をやめてしまっていましたが、その後録画していたエピソードを見るうちにどっぷりハマり込んでしまった作品です。第一話から最終回を貫くストーリー、2周めに意味が変わるそれぞれのシーンと、私の大好物が2つも揃っているわけですが、それに加えてテーマそのものも心を打つ作品でした。

全話見終わってわかるのは、この作品がひたすら新月・エルネスタ・深海の苦悩を描く作品だったということです。当初その苦悩はあらかた伏せられており、ただ、魔法使いになって魔法のない世界を作りたいという願いが提示されます。やがてその理由が中盤で、仲の良かった幼なじみとの激しい対決として描かれ、終盤では満月への悔恨が彼女を苛むことになります。

「何でも自由にできるような力を、人は持ってはいけない」

そう考えた新月にとって、アンナの魔力への執着は魔力が許されないものであることの象徴です。アンナへの優しさから対決を先延ばしにした結果、アンナは取り返しのできない領域へと踏み入れてしまい、結果的に新月がその命を奪うことになります。

去っていった寧々たちの母親、久遠を忘れてしまう四翠、アンナがいなかったことになっているフーゴー家。そして、新月の孤独が満月を創りだしてしまったという事実。

新月を繰り返し叩きのめす出来事のうちいくつかは、水晶によればマギアコナトスが新月に与えた試練です(事実かどうかは不明)。そして満月の事実を知ってついに新月の決意が揺らぎ始めてからが本当の見どころでした。

新月から「グランベルムから身を引け」と当初忠告された満月は、「何も持っていない自分にとって、魔法を操れるグランベルムはとても楽しい」という、危なっかしい言葉を返します。まるで悪落ちの前兆のようなセリフで、視聴者はここでミスリードされてしまいます。が、後半彼女の出自が明らかになることで、「何も持っていない」が謙遜でも何でもないことが明らかになりました。

一方、「クールでかっこいいのに意外にポンコツ」的なシーンが差し込まれていた新月も、アンナに関する回想を重ねるうちに、本当に魔力以外に長所がない少女であることがわかってきます。

何もない二人が向き合った十一話、空っぽの自分を嫌がっていた満月は、魔力など無くても世界は美しく、この美しい世界を見ることができただけで素晴らしいと語ります。だから、この美しい世界を台無しにする魔力はあってはいけない、と。

満月への深い罪の意識は、新月の決意を揺さぶります。魔力が世界でただ一人の魔女、ザ・ウィッチになれば、自分のそばにいてくれる心優しい満月を生き続けさせることができます。その、これ以上ないほどの正当化を、満月は繰り返し、ダメだと諭しました。

時間をかけてゆっくりと、何度も「魔力をなくして」と諭す満月のストーリーは、ちょっと忘れられないほど心に染みこむものです。

最終話、魔力を消した新月は水晶の予言通り、誰もが自分を知らない世界の中で孤独な日々を過ごすことになります。ラストシーンで彼女の前に転校生が現れますが、それはきっと満月ではないでしょう。しかし、何も持っていない満月がクラスメイトに優しくしたように、新月もきっと転校生に優しくすることでしょう。

グランベルムは魔力以外に何も持っていない少女が、苦しみながらも魔力のない世界の美しさに気づき、力強くそれを受け入れる作品でした。素晴らしい作品を作ってくれたスタッフに感謝します。

『荒ぶる季節の乙女どもよ』4話

この作品でいいな、と思うのは

「本と向き合う」

という事を正面切って描いていることです。そう思っていたら今回はそういう回でした。

迷走する和沙や悩む百百子は

「本は自分が知らない感情に名前を付けてくれる」
「経験していないことを本から学ぶことができる」

とアドバイスを受けてその視野を広げようとしています。一方の本郷先輩は自分が本を書くためにはリアルを経験しなければならないと考えています。これは真っ向から対立する考え方です。和沙や百百子が相談する相手を持っているのに対して、本郷先輩がやや孤高を決め込んでいることが彼女の視野を狭めているのかもしれません。

本郷先輩は一度落ち着けば、ミロ先生が自分と同様

「なりたい自分」

と本来の姿の間の葛藤を抱えていた人だとわかるはずです。先入観や優位に立ちたいという気持ちを捨てれば、人生の先輩である先生から得難いアドバイスを得られるはずなのですが、まだ無理なようですね。

荒ぶる季節の乙女どもよ。

2019年夏アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」を3話まで観ました。

幼なじみへの切ない思いを胸に抱えたまま、年頃を迎えて突然性に振り回されとまどう小野寺和紗。彼女のストーリーを軸として、同じ文芸部に所属する少女たちの揺れる心を描いた群像劇です。

まだ3話ですが、ここまで見た感想は

「抜群に構成と脚本がうまい」

につきます。

まず文芸部という舞台設定が見事です。一時期流行した「活動内容不明の部活」ではなく、彼女らが属する文芸部は全員が部長の指導のもと純文学と真剣に向き合っています。題材に純文学を持ってきているのは見事です。21世紀日本において残念ながら純文学は力を失っていますが、それ故にカースト社会化するクラスに居所を見いだせない少女たちに、小さく静かな居場所を提供できています。一方で、純文学は否が応でも彼女たちを性愛の世界に引き入れます。目をそらせば、それは文学と正面から向き合うことへの拒絶であり、真面目で純粋であるがゆえにこの掃き溜めに流れてきた彼女たち自身と矛盾が生じます。

この作品では実のところ、個々の部員の性との向き合い方がてんでバラバラにになっており、それ故に文芸部という比較的縛りのきつい部活のもたらすまとまりが、作品に対してうまい統一感を出しています。

部室での活動を除けば、彼女たちは本当にバラバラです。

自分の一番よい時期である少女時代が終わることを以て「死」と受け止め、その前にセックスを知りたいと考える菅原新菜。

創作物を文学に昇華させるためには、リアリティを知らなければならず、それ故誰でもいいからセックスを経験したいと考える本郷ひと葉。

持ち前の潔癖で部活を牽引してきたものの、ここに来て自分の孤高が後輩たちの居場所を奪いかねないことに気づき、拒絶してきた「男に好かれる化粧」を意識し始める曾根崎り香。

そして幼なじみへの恋心をついに自覚するも、その先にあるセックスを受け入れられずに迷走する小野寺和紗。

新菜とひと葉が、実際にはセックスよりも重要な事を心の中にもっており、

「そのために必要ならセックスを経験したい(あるいは経験しなければならない)」

と考えているのに対して、和紗はセックスそのものに対して強い羞恥と恐れを持っています。その拒絶の強さは、り香に近いと言っていいでしょう。り香は潔癖故に『セックス』という言葉そのものに耐え切れず、『えすいばつ』という代用語を賞賛しています。

幼なじみの自慰の目撃、恋心の自覚、幼なじみのおかずとの直面、まだ変わらぬ彼の一面への喜び、そして行き違いからくる失意。和紗のストーリーは部員の誰よりも大振幅であり、ここまでの話を貫く楽しいドタバタになっています。

一方で、彼女こそは「読書を好む少女」に対して我々が勝手に投影するイメージの権化です。和紗は優しく、善良で純粋な少女です。幼なじみを心から大事に思っており、距離が離れたことに心を痛めています。純粋な少女のイデアといってもよい登場人部の目の前に、自慰の最中の男性生殖器を持ってくれば、爆発的な反応が起きるに決まっています。

そして、これは根拠の薄いいつもの深読みですが、どうも和紗の問題に対してはすでに出口が提示されているように思えます。

和紗と泉はすでに両想いであり、セックスに対する年頃の少年少女が抱く強い気持ちが、二人の間の壁になっています。ところが、3話で話が進展します。進退窮まった和紗はやけくそになって、両親にセックスの話を聞こうとしますが、舌足らずだったために両親は和紗が生まれた時の話をしはじめます。これは爆笑シーンなのですが、落ち着いてみれば、和紗が本当に考えるべきことを両親は和紗に話しているように思えます。

二人が結婚してセックスをした結果和紗が生まれました。生物学的にはそれだけのことです。が、二人は「和紗を授かったことはこの上もなく幸せなことだ」とはっきり言っています。和紗は自分の質問が誤解されたことだけを受け止めて落胆していましたが、彼女が真剣に考えれば、二人の言葉から

「セックスはその先の幸せと連続したものだ」

と気づくことでしょう。それは、『えすいばつ』などと言い換えて忌避しなければならない類のものではありません。もしそれに気づけば、純文学を嗜むことによって養われた感性は、二人の関係を即物的ではない、もっと祝福されるべきものに押し上げるかもしれません。

セックスが視聴者のためのお色気ネタとして消費される現在のアニメ界において、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は、セックスと向き合わなければならない少女たちの戸惑いを正面から描いた、稀有な作品です。今後の展開が楽しみです。

受け止めきれない

今週、京都アニメーションの第一スタジオが放火され、30人以上の方がなくなるという大惨事が起きました。

そのことをどう受け止めるか、まだ自分の心の整理がついていません。このブログには京都アニメーションの作品のことをいくつも書いています。そもそもこのブログを始めたのは、米澤穂信の『氷菓』が京都アニメーションによってアニメ化されるというニュースを受けてのことでした。放送が始まる何ヶ月も前から指折り数えるようにブログを書き、放送が始まってからは翌朝5時に起きて録画を見る、そして感想を書くことの繰り返しでした。

それ以前、『鈴宮ハルヒの憂鬱』は見たことがあったものの、それほど京都アニメーションという会社を意識してはいませんでした。しかしながら、『氷菓』という作品は、前評判で聞いていたとおり、原作に対する深い理解と真摯な態度がひとこま、ひとこまから伝わってくるような、丁寧で美しい作品でした。

そしてまた、『響け、ユーフォニアム』も、丁寧で美しい作品でした。劇場で見た『リズと青い鳥』も同じです。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、喜劇風味の『たまこまーけっと』ですらそうでした。

いずれの作品も、絵が美しいだけでなく、登場する人物の心情がスタッフによってよく理解され、そしてセリフだけではなくアニメーションとして表現されている作品です。これらは京都アニメーションの作品に多かれ少なかれ広く共通する特徴と言えます。

なんだか、ここまで書いて嫌になってきました。まるで追悼文じゃないですか。誰も、京アニがこれで終わるなんて公式発表はしていません。それでも、ニュースや社長の談話から伝わってくる話は、いずれも天を仰ぎたくなるようなものばかりです。

京都アニメーションが作った作品はいずれも素晴らしいものです。それらに関わった人々が、炎と煙に巻かれて理不尽に命を落としていったということを、どうしても受け入れられません。作品にクレジットを残した人も、残さなかった人も、こんな人生の終わり方をしていいはずがなかったのです。

呆然とした日を送りつつも、自分が京アニから、亡くなった方々から受け取ったものが、自分の予想を遥かに超えて大きかったのだな、と噛み締めています。

せめて、自分の日常くらいは早く取り戻さなければと考えています。

『手品先輩』

ギャグ風味のアニメ『手品先輩』第一話を見ました。良い所のたくさんある楽しいアニメです。

全般的にギャグとお色気で押してくるのですが、何より先輩の「手品が好き!」という気持ちがあちこちににじみ出ていて楽しいです。面と向かって知らない人と話すと嘔吐するほどの上がり症なのに、ハットをかぶってニッコリ笑顔を作る先輩は、見ていて優しい気持ちになります。

先輩役の本渡楓さんの好演も注目すべき点です。この方は、宮野真守さんを向こうに回してゾンビランドサガの初回をたった二人で支えきる偉業を成し遂げた人ですが、この番組でも人の話を聞かずにあたふたしっぱなしの先輩をよく演じています。

残念な点をあげるなら、お色気分です。お色気なしで十分楽しい上に、お色気パートに人を惹きつけるものがありません。むしろ無い方が爽やかな番組になりそうです。

作品としての『ゾンビランドサガ』を振り返る

『ゾンビランドサガ』の最終回から2週間経ちました。ようやく落ち着いてものを考えられるようになってきた(ほんとか?)ので、ここで作品としての『ゾンビランドサガ』について振り返ってみます。

この作品に関しては最終話の思わせぶりなCパートのおかげで「2期確実」みたいな声もありますが、ここでは「全12話で完結した作品」として見ることにします。つまり、作品を作った人々は12話で過不足無く『ゾンビランドサガ』という世界を視聴者に伝えたと考えて作品を俯瞰してみます。

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