キスに関するあれこれ

高須竜児、逢坂大河、出会ってから4ヶ月目

「おーい、大河。入るぞ-」

蝉がみんみんうるさい、夏休みのある日。豪華なマンションの1フロアを丸々占める部屋の扉を開けて、のそりと1人の男が入ってくる。年の頃なら17,8。目のあたりに嫌に鋭い光を宿した男は、あたりに気を使いながら部屋の様子をうかがっている。まるで見つかるのを恐れているような風情だが、一方で

「おーい、大河!起きてるかぁ」

と、声を上げるさまは、逆に『早く見つけてくれ。出来れば遠くで』、といった風。そう、まるで北海道の山に登る人々がヒグマを避けるために大きな鈴を鳴らして歩くように。『会いたくないけれど、もし会うのならなるべく遠くでこちらに気づいてくれ。出会いがしらだけは困る』とでも言いたげな様子。まるっきりヒグマを恐れているような体のこの男は、泥棒でも空き巣でもない。大橋高校2年C組、高須竜児。目つき以外はどこへ出しても恥ずかしくない良い子である。そしてもちろん、恐れているのはヒグマではない。

虎である。

「おーい!朝だぞう。朝飯できてるぞう……って、あいつマジで寝てるのかよ。もう9時だぞ。いくら夏休みだからって寝過ぎだろう。あの馬鹿寝すぎで頭が痛くなったりしないのか」

あの馬鹿呼ばわりされているその人は、大橋高校2年C組、逢坂大河。人呼んで「手乗りタイガー」。小学生サイズの可愛い体にフランス人形のごとき美貌と虎のような獰猛さを秘めた少女であり、竜児のお隣さんである。

「おーい、大河!どこだー?」

街ですれ違えば10人のうち9人が目をそらすと言われるこの強面の男が少女の部屋に忍び込んでいるのは、寝ているのをいいことに簀巻きにして危ない連中に売り飛ばそうとしてる……わけではない。ましてや自分で何かしてやろうと考えているわけでもない。心配なのだ。

知り合って4ヶ月。手乗りタイガーの二つ名で全校生徒から恐れられている超絶美少女は、どんだドジだった。歩けば転び、ご飯を食べればポロポロおとし、ジュースを飲めばこぼす。せっかくいいおべべを来ているのにどんどん汚す、シミにする。見ているだけで気が狂いそうになるドジっぷりに、何の因果か竜児が面倒を見ることになってしまったのだ。

結果、大河は竜児におんぶに抱っこ。毎日三食を竜児の手料理でまかなわれている。にもかかわらず、あろうことか竜児を犬呼ばわりし、主人気取りときたもんだ。だが、ご飯の流れを見れば誰が誰を飼っているのか、言うまでもない。

とにかく、ドジで生意気で生活力皆無なくせに腹時計の正確な大河が食卓に現れないのだ。食器をかたづけられないのも癪に障るがそれ以上に、体でもこわしたのではないかと心配でしかたがない。結局、母親が預かっていた合い鍵で起こしに入ってここに至る。

「おおい、大河?風呂か?」

と、一際大きな声で聞いてみるのは、もちろんうっかり風呂場に近づいて鉢合わせし、「このエロ犬!」と殴る、蹴る、なじる、の変死コンボを食らわないための用心である。だが、どうやら朝からおしゃれにシャワー中でもないらしい。

となると。子虎が潜んでいそうなところといえば、あとは一箇所しかない。

「大河、お前本当に寝ているのかよ」

寝室である。あの、大きな部屋で、大河は天蓋付きの豪奢なベッドに小さな体を横たえて、今だ夢のなかをさまよっているのだ。あるいは熱にでもうなされてなければいいが。と、手に負えないドジっ子を見舞いうる災厄と病気の数々を数え上げながら、ノックし、声を掛けておそるおそるドアを開く。

「たい……が?」

居た。真っ白なシーツの海の中央。寝るとき専用のお下げヘアで、ガーゼを重ねたようなふわふわネグリジェスタイルの子虎が居た。高熱にうなされるでもなく、悪寒に震えるでもなく、謎の痛みに苦悶するでもなく、タオルケットにくるまってすやすやと惰眠をむさぼっている。

「ちぇっ、結局寝坊かよ。あほらし。ほら、大河!起きろ」

エコロジーを鼻で笑うがごとく全力稼働中のエアコンを切ると、竜児はベッドに近づき、

「大河!大河!飯食わねぇのか?インコちゃんにやっちまうぞ」

乱暴な声をかけるのだが、昨日の晩夜更かしでもしたのか、大河はいたっておだやかな表情で就寝中。

「ちくしょう。いい気なもんだぜ」

独りごちながら顔を覗き込んだ竜児は、ふとその寝顔につりこまれる。普段から竜児の事をボロカスに言い、暴力三昧でおまけにドジで馬鹿な憎たらしい女だが、こんな穏やかな寝顔を見ると、つい、憎い気持ちも消えてしまう。

いつもそうだ。図々しくも竜児の家で昼寝を決め込むことの多い大河だが、そのあどけない寝顔を見る度に、日頃受けている暴虐の数々もついつい許してしまうのだ。別にこの女が好きなわけじゃないし、それどころかちゃんとした片想いの相手は居るのだが。

「おい大河。ほんとに寝てるのかよ」

なんという無防備さ。大河は寝坊したときなど、竜児が合い鍵で起こしに来ると知っている。それどころが、起こしに来い、寝坊したら竜児のせいだとまで言い張る始末。この女にだって生意気にも好きな男が居るのだが、それでいて他の男に起こしに来いとは、いったいどういう了見なのか。

正真正銘馬鹿なのか、お花畑で育ったように純真なのか(ない。それはない)、それとも貞操観念がないのか、犬っころごときが人間様に手を出すはずがないと思っているのか。たぶん最後だろう。

「まったくよう。いいのか?俺だって男だぞ」

ベッドに腰掛け大河の横顔に声を掛ける。そんな無防備な格好を見せられたら、自分だって何かの拍子にうっかり何をするかわからないではないか。

「おーい、起きろ!いいかげんにしろよ。片付かないんだよ。折角朝飯作ったのに冷えちまったろう」

本当に世話が焼ける。

「おい、大河。起きてくれ。起きないと襲うぞ。襲っちまうぞ。俺だって男だぞ」

起きない。あーもう、と髪をかきむしる。馬鹿にされているのか?いやいや、もちろん知ってるとも。馬鹿にされているのだ。絶対安全な男だと。手を出す度胸などない奴だと。そうじゃない、俺は誠実なだけだと大声で叫びたい。鉄の誠実さで己の煩悩を押さえ込んで日々を生きてるだけだと世界中の人々に知らしめたい。大河、お前も人の数に入れてやるから、知れ。知ってくれ。

「ったくよう。知らねぇぞ。そんな無防備で寝てたらキスしちまうぞ。唇奪うぞ。舌入れるぞ」

ぼそっと吐いたセリフはもちろん本気ではない。言ってみただけ。そもそも生まれてこのかたキスなんかしたことない。ましてや寝ている少女相手になど、考えたこともない。だがそんな言い訳は、ぱかっと開いたまぶたの前にはもちろん通用しない。

「何を入れるですって」

午前9時13分。手乗りタイガー、起床。

「こたえによっては殺すわよ」

殺す元気があるなら早起きしろ。竜児は天涯を見上げて溜息をつく。

◇ ◇ ◇ ◇

高須竜児、逢坂大河、婚約から3ヶ月目

「ようし、チャーハン一丁あがりだ。大河、コップ運んでくれよ。大河、大河!って、寝てるのかよ!」

寝ていた。5月ももうすぐ終わる、とある日曜日。久しぶりに高須家に遊びにきた大河は、さんざん竜児とおしゃべりに興じた後、おなかがすいたと騒ぎ出し、飯を作ってやったら寝ていた。なんだこれは、と婚約者じゃなくても言いたくなる有様である。

「ま、こいつでも疲れるんだろうな」

と、チャーハンをちゃぶ台に置いた竜児は大河の傍らにどっかりと腰を下ろす。

今年の2月、半ば駆け落ち同然に互いの親から逃げ出した二人は、雪のバレンタインデーの夜に初めて胸の内を打ち明けあい、そのまま婚約まで交わしてしまった。激情に流された、というわけではない。ザクザクと胸を切り刻まれるような日々の中で、気がつけば、二人にとってお互いの無い生活など考えられなくなっていた。二人、一緒にいられればそれだけで幸せ。そう考えたのだ。

その後なんやかんやで大河は竜児のもとを去り、そして戻ってきて一か月半たつ。幸い、もう誰も二人を引き裂こうとはしていない。あとは時間が過ぎ去って、二人がみんなに祝福されて結婚する日を待つだけだ。

だが、竜児と大河ではほんのすこし境遇が違う。半居候だった大河が来なくなって、確かに竜児はさみしい思いをしている。だが辛いことと言えばそれだけ。一方で、大河は一度は自分を置いて去って行った母親と同居している。おまけにその再婚相手も一緒だし、さらに生まれたての弟の面倒まで母親と看ている。

「赤ちゃんって毎晩何度も泣いちゃって大変なのよ」

と、大河は笑ったことがある。眼の下にくまを作って。竜児と一緒に暮らすという目的のために大河は一日一日を全力で生きているのだ。チャーハンが冷えるくらいで腹を立てるのも偏狭すぎるだろう。とはいえ暖かいうちに起こさないと、このいつも腹ぺこの愛すべき婚約者は逆にむくれるかもしれない。どうしたものか。

「大河ぁ。昼飯だぞぉ。お前の好きなチャーハンだぞぅ」

起きない。

お気に入りの座布団を二つ折りにして枕にし、畳の上に転がった大河はすやすやと寝息を立てている。投げ出された腕の先の小さな手のひらは軽く開いた形で、それがモミジの葉のよう。今でも学校に行けば『手乗りタイガー』の伝説は健在である。こんな姿を想像できる奴がいったい何人いるやら。

日当たりの悪いぼろアパートにも、窓の外からさわやかな風が流れ込んでくる五月のある日。久々に見たふわふわコットンをまとった大河は、勝手知ったる他人の居間でこの上もなく幸せそうな寝顔で横たわっている。

我知らずため息が漏れる。今、目の前にだらしなくも愛らしく転がっている少女が自分の婚約者だというのが急に信じられなくなる。こんな幸せなことがあっていいものだろうか。実のところ、これまで何度も竜児は自分の頬をつねっている。ひょっとして夢なのかと。だが、まだ夢が覚めたことは一度もない。ひところは朝目が覚めてから家を出るまでびくびくしていたものだが、大河は毎朝竜児の家の前でにこにこもじもじしながらちゃんと待っていた。

これが仮に夢だとしても、どうやら一生続く夢らしい。と、最近は竜児も心配するのをやめている。とはいえ、心配するのをやめても、容易に信じられるようになるかというと別だ。時折、去年までさんざん世話を焼かされた逢坂大河が自分の婚約者だというのが冗談に思えてくる。

とりあえず、そよ風に吹かれて顔にかかった髪を払ってやりながら

「大河」

再び小さく声をかけてみるが、やはり起きない。我に返っておかしくなる。小さく声をかけたのでは起きるはずがない。しかし、大きな声を出すとひと時の安眠に身を任せている婚約者を起こしてしまう。己の心配しているジレンマのばかばかしさに笑みが漏れるのをとめられない。

「おーい」

顔を近づけてみるが、やはり起きる気配がない。大河から昇ってくる暖かい空気がふわりと顔を包む。あまい香りに包まれ、頭がくらくらする。唐突に頭に浮かんだアイデアに跳ねたのは心臓。キスしてみようか。

自分のツラを冷静に考えれば、寝ている婚約者にキスなどちゃんちゃらおかしい。が、一方で竜児は恋の魔力というやつを骨の髄まで思い知らされている。大河が帰ってきたのが4月の登校初日だから、付き合いだしてまだ実質1か月半。なのに、二人の世界にはいってしまうとどんな歯の浮くようなセリフでも口をついてしまうのだ。そして大河もそんなセリフを耳元でささやかれる度に頬を染め笑顔をとろかして喜んでくれる。逆もまた然り。暴虐の女王がはにかみながら吐くセリフは、何度でも、何度でも、繰り返し竜児を骨抜きにする。

もっと顔を近づけてみる。どこにキスしてやろうか。触れるだけで手がとろけそうなほど柔らかい頬か。愛らしいおでこか。小さくてかわいらしい鼻か………でも、やはり磁石のように竜児を吸いつけるのは、薔薇の蕾の唇。

「おーい、大河。どうなっても知らないぞ」

小声で警告して、どうなっても知らないのは自分のほうだと、吹き出しそうになる。去年の四月ごろだったか、ひとんちで図々しくも夜まで寝っ転がっていたのを起こそうとして、寝ぼけた大河に壁際まで吹っ飛ばされたことがある。

まあいい。壁際まで吹っ飛ばされかもしれないとわかっていても、目の前の大河は抗しがたい魅力を放っている。体温を感じるほど顔を近付け、一呼吸。ちょんと、唇に唇を押しつける。そしてもう一度、今度はきちんとキス。

起き上がる。自分の顔が燃えるように熱いのは無理な姿勢を続けたから………だけではない。心臓は収拾が付かないほど暴れ回っており、軽い罪悪感に眩暈を感じる。ああそうだとも。これは罪だ。悪だ。その証拠に、手を染めてしまったが最後、やめられそうに無いじゃないか。

唇を奪われたとも知らずに安らかに寝息を立てる眠り姫に、そしてもう一度。

「大河、起きろよ」

この世の物とも思えないほど柔らかな唇に我が唇を重ねる。駆け巡る多幸感。震えるような高揚。このまま小さな体を強く抱きしめたいという衝動が体を貫く。かすかに、大河の唇が竜児にこたえるように吸い返してきたのは、たぶん錯覚ではない。

「ん…」

その唇の動きに竜児も吸い返してやって

「……ん?」

ようやく起きたらしい大河から顔を離す。

「竜児……」

ぼんやりした表情をしている。短い昼寝だったはずだが、眠りが深かったのだろうか。というか、まぁ、こいつの眠りが深いのはよく知っている。ぼうっとこちらを見ているのは、ひょっとしてまだ半分眠っているのか。微笑みかけてやる。あいかわらずぼんやりとこちらを見ている。そして突然目をぱっちり開くと、両手の指で唇を押さえた。

「おう、起きたか」

優しく声をかけてやるのだが、目の前に仰向けに寝たまま、大河は見る見る赤くなるばかり。そして目を丸くしたままごろんと横に転がって竜児に背を向けた。照れているらしい。

「なによ」

と、不機嫌そうな声を出してみせるが、覗き込むと目をつぶって口を押さえたまま、漏れる笑顔を我慢できないといった表情をしている。

「チャーハン出来たぞ」

声を掛けると目を開け、そしてちらりと横目で竜児を見る。目があって、顔を隠すために今度は竜児のほうに反転。そっちに逃げ場はないのだが。逃げ場がないことに気づいたか、手で顔を覆った。

「竜児ったら。キスしたでしょ」
「お、おう。お前があんまり起きないから」
「ひどい」
「怒ったか」
「怒るに決まってるじゃない………たんま………怒ってないかも。やっぱり怒ってる」
「どっちだよ」

苦笑い。婚約者殿においては、寝てる間に唇を奪われたのが随分と腹立たしい様子。というのを、演出したいらしい。

「怒ってるわよ」
「機嫌直せ。飯食おう」
「そんなこと言ったって……お腹はすいたけど。竜児は……機嫌なおしてほしいのかしら?」
「おう」
「じゃぁ……」
「なんだ」
「……もういっかいキスしてくれたら機嫌直す」

そう言って照れながら、花が開くように笑顔を浮かべる。そしてこちらに小さな両手を伸ばしてくる。きっとこんな大河に抗えるようになる日は来ないだろう。そう思いながら、竜児は今一度唇を寄せる。

◇ ◇ ◇ ◇

高須竜児、高須大河、結婚から3年目

「よし、完璧」

蓋をあけたフライパンの中の目玉焼きは、二つとも見事なピンク色。卵が焼ける甘い香りが強くなって、ウキウキ気分を盛り立てる。朝一番から冴えわたる自分の家事の腕に気分は上々。(馬鹿野郎、のぞき窓が蓋についてるんだから出来て当然だ)という声が頭の隅で聞こえるが、無視無視。

「りゅーじーぃ、ご飯よーっ!」

火を消し、目玉焼きを皿に盛って食卓に運ぶ。返事がない。寝ているようだ。

「ねぇ竜児ぃ、りゅーじー!パパー!ダーリーン!あなたー!おとうさーん!ご飯よー!」

野郎、まだ起きないか。鰺の開きに続き、ご飯と味噌汁を食卓に運んで準備完了。エプロンを脱いでくるくる丸めながら寝室に突撃をかける。今時珍しい1DKだから、食卓から寝室まで襲撃はあっという間だ。ベッドにダイブを決めてやろうかと考えて、危うく思いとどまり

「りゅーーーじーーーー!」

いまだ夢から覚めない夫を揺する。

「おうぅっ!……おう、朝か……あと10分寝かせてくれ」

いつもながら、あんたの寝姿には感服するわね。と大河は思う。夜、ベッドに眠る時と朝起きた時に姿勢が同じというのが理解できない。どうして朝、目がさめる時に気を付けなの?大丈夫?寝ている間死んでない?

「残念でした、竜児、今日はいつもより10分遅いわよ。もう愚図愚図している時間はないわ」
「ああ?……そうか、寝かしててくれたのか……サンキュー」

ようやくベッドから起き上った竜児が眠そうに大河を見る。ここに映画のカメラがあったら、すごいホラー映画を撮れるんじゃないかしら。と、大河は考える。『ゾンビの目覚め』ってタイトルで。開けたままの目に生気がないってのがすごい。

「あんた昨日何時に帰ってきたの?」
「1時だ。寝たのは2時か」
「まったくもう。いつまで残業続くのよ?」
「おう、来月は終わるはずだぞ」
「ほら、早く立った立った。先月も先々月も『来月』って言ってたわよ。大丈夫なの?あんたの部署」
「面目ねぇ。さすがに人事が騒いでるらしい。今週末から土日両方休めるぞ」
「ほんと?やった!て、ほら!しゃきっとして」

のそのそ歩いている背中をぱん!と平手でどやしてやる。竜児、起きなさい!

「おうっ!っっってーー。お前……心臓が止まりかけたぞ。俺を殺す気かよ」

振り返ってぎろりと睨む。そうそう、あんたはそういう危険物取扱免許が必要な顔じゃないとだめなのよ。と大河は笑う。ようやく目が覚めたみたいね。でも、今ちょっと聞き捨てならないことを言ったわよ。

「なによ。『私を置いて先に死なない』って約束じゃない」
「『俺を殺さない』って約束も追加しようぜ」
「考えとくわ。さ、顔洗って」
「おう」

朝は忙しいんだからボヤボヤしているひまなんかない。冷えたオレンジジュースと温かいお茶を用意して食卓で竜児を待つ。

「ああ、やっと目が覚めたぜ。今日も朝飯がうまそうだ」
「へへん。どうよ、この目玉焼きのピンク色」
「おう。100点だな」
「あら、今日は採点が甘いわね」
「今朝は重箱の隅をつつくより、日々の幸せをしみじみかみしめたい気分だな」

あらいやだ。今日は雨かしら。お洗濯の日なのに、などと軽口が飛び出す。ご飯に味噌汁、目玉焼きに鰺の開き。どうだろう。新婚三年目で部屋は小さいとは言え、二人で食べる朝食は十分幸せと言えないだろうか。我ながら味もなかなかのもの。そんなことを考えながらご飯を食べて、お茶をすすりながら竜児と二人でニュースを見る。

「ねぇ、もう歯を磨いてトイレ行かないと間に合わないわよ」
「おう、わかってる」

ニュースが天気予報にかわる。今日は一日いいお天気らしい。天気予報を見終わったら食器を下げて、テーブルを拭いて。お茶碗を洗い終わる頃には竜児がちょうどネクタイを締め終わる。これが二人のいつもの朝。

「ねぇ、竜児。この前のおじいちゃんの話だけど」
「いっしょに住まねぇかって話か」
「うん」

先々週、竜児と二人で高須の祖父と祖母の家に遊びに行ったとき、一緒に住まないかと言われたのだ。家が広すぎて寂しいなどと笑っていた。竜児と大河にはあと100年くらい言えそうにはないセリフだ。

「それがどうかしのたか」
「どうかしたのかじゃないわよ。竜児はどう思う?」
「俺は学生時代じいちゃんちから通ってたからな。一緒に住んでもいいけど。お前はどうなんだよ?」
「私?私は大歓迎よ。大勢のほうが楽しいじゃない。おばあちゃんと一緒にお料理したらいろいろ教えてもらえそうだし。お掃除はお手伝いできるから役立たずってことはないわよね?部屋はきっと十分でしょ」
「おう、このアパートより確実に広々と住めるぞ。お前が気疲れしないってのなら、俺はいいよ。通勤も楽になるしな」
「それよ。毎朝30分遅くまで寝ていられるし、帰るのも30分早くなるじゃない。あんたにも私にもいい話よね。でさ、竜児は私がおじいちゃんたちと住んでもOKなのね?」
「お前がいいならいいって言ったろ」
「そうじゃなくてさ」
「なんだよ」
「こんなお嫁さんで恥ずかしくない?」
「あほか。じいちゃんもばあちゃんもお前のこと気に入ってると思うぞ。いろいろ規格外れだけどな」
「なによ、その言い方。はいハンカチ」
「お前が言いだしたんじゃねぇか。ま、向こうが俺たちと住みたいってのは本音だろうし、泰子のこともあるしな」
「やっちゃん?」

唐突に泰子の話をされて大河の声が裏がえる。竜児は竜児であきれ顔。

「なんだ、わかってないのか?じいちゃんとばあちゃんの作戦の最終目標は泰子を家に呼び戻すことだぞ」
「どういうこと?」

靴をはく竜児に大河が聞く。なにそれ、わけわかんない、と顔に書いてある。

「自分の親と息子夫婦が同居してるんだ、泰子としちゃ、帰って来いと言われたら断れないだろ」
「私たち、餌?」
「そう言ってやるなよ。俺たちだってメリットは多いし、ばあちゃんがお前のことえらく気に入ってるってのはガチだろ。お前はどうだ。泰子と住みたくないのか?」
「住みたいわよ。決まってるじゃない」
「だろ。じいちゃんちなら今すぐ3世代住める」
「竜児、4世代」
「おう、そうだな」

竜児が大河のおなかに目をやる。ね?と、大河。あと5か月で我が家は3人家族になるでしょ。あれ?おじいちゃんちに住むなら6人家族か。

「私ママのところで産もうと思ってたんだけど」
「それさ。俺たちが今の部屋に住んでいると、初孫を最初に抱っこするのはお前のおふくろさんだろ。でも、じいちゃんちで産めば、泰子が先に抱っこできるわけだ。強烈な餌だぞ」
「餌って言わないでよ。でも、そっか。水面下でそんな陰謀が働いていたのね」
「餌って言い出したのはおまえだろ。とにかく、じいちゃんもばあちゃんも孫抱き損ねてるからな。俺たちと住むのもおれたちの子供が生まれるのも楽しみだろう。取り合いされるほど好かれていることを幸せだと考えようぜ。大河、お前がよければ週末にまたじいちゃんちに言ってちゃんとお願いしよう。引っ越しをするならお前のお腹が大きくなる前がいい」
「そうね。そうよね。そうしましょ。じゃ、竜児。いってらっしゃい」

かがんだ竜児に背伸びしてキス。毎朝やってる二人の挨拶。ニッコリ笑って、今日も元気に大河の旦那様が仕事に出ていく。

竜児を送りだしたら大河は洗たくの準備。つらつらと同居の話を考える。おじいちゃんちに住むのは本当に楽しみ。二人ともやさしくしてくれるし、おばあちゃんには竜児の知らない料理を教えてもらえそう。それに、あそこの玄関が素敵なのよね。このアパートの玄関と大違いよ。土間が広くて、板の間に高さがある。そこがいい。

だって、と大河は微笑みを漏らす。あれだけ高さがあれば、背伸びしなくてもキスできるじゃない?

(おしまい)

初出 : 2009年9月11日

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