条件

高須竜児の日記より

2009年11月x日 晴れ

大河に頼んでもう一度挨拶に行くことにする。結婚は反対されたが、俺も大河もそれは今だけの事だと思っている。だったら早い内にもう一度行って、きちんと大河の両親と仲良くなった方がいい。その方が、2人とも安心するだろうし、俺たちも気が楽になる。

2009年11月x日 晴れ

大失敗。まさかこんな事になるとは思いもしなかった。折角挨拶に行ったのに、却ってぎくしゃくしてしまったかもしれない。

◇ ◇ ◇ ◇

「あんたの顔の凶悪さは十分理解していたつもりだけど、まさかあれほどとはね。想定外だったわ」

すっかり空気の冷たくなった欅並木を並んで歩きながら、大河が笑いを押し殺した表情で竜児を見上げる。ダッフルコートに竜児とおそろいのマフラー。星を散らしたような瞳に悪意はないものの、久々に面白いショーを見せて貰ったと言わんばかりの顔をしている。

見下ろす竜児は井戸の底を覗き込む幽鬼のような顔。呪ってやろうと思っているのではない、憮然としているのだ。
「他人事みたいに言うなよ。結局挨拶どころじゃなかったじゃねぇか」

「そうね、あの展開はさすがに予想できなかったわ」
苦笑いで前を向く大河。

昨日、大河の家に二度目の挨拶に行ったまでは良かった。きちんと挨拶をし、家に上げて貰った。テーブルに着いてから『結婚の事は、2人で考え直しました。ちゃんと進学して就職して改めてお願いに上がります』と、切り出すイメージトレーニングも何回も繰り返していた。

だが、何というか。間の悪いことと言うものは、得てして来て欲しくないときにおきるものらしい。「そうだ、竜児!弟見てよ!この前は見てないもんね!」と、大河が切り出したのがまずかった。いや、大河が悪いのではない。大河なりにアットホームな気分を演出したかったのだろう。誰が悪いわけでもない、運が悪かった。

「そうだな、あの展開は……考えつかなかったな」

欅並木を覆う青空を見上げて竜児は嘆息。考えつかなかったのは事前のイメージトレーニングが足らなかったからなのかもしれない。自分達の2人のことばかり考えて、周りのことが目に入って無かったせいかもしれない。大河も困った様に笑いながら呟く。

「あんなに泣くなんてねぇ」

そう、泣いたのだ。大河の弟が。父親は違うとは言え、トラの母親が生んだ、将来ひょっとしたら猛虎に育つかもしれない生後8ヶ月の男の子。それまで機嫌良くおもちゃで遊んでいた子供が、のそりと子供部屋に入ってきた竜児と目があった瞬間に大声で泣き始めたのだ。

初めこそ、あらあらあらといった感じであやしていた大河の母親も、いっこうに泣き止まない長男に次第に焦りの色を濃くしていく。空気を読んで竜児はリビングに退散したものの、泣き止まない。父親からは引き留められたものの、子供部屋から聞こえる「君が帰るまで泣くのを止めない!」という痛烈なメッセージに負けて、ろくすっぽ話をしないうちに竜児は大河の家を辞さざるをえなかった。
「あのあとどのくらい泣いてたんだ?」

「丸々3時間泣いてたわ」
「3時間…赤ん坊ってそんなに泣けるのか?」

というか、己の顔は3時間人間を泣かせるほどきついのか。心臓をえぐるような事実を突きつけられて竜児は動揺する。そういえば少し疲れが残っているように見える大河は

「私も知らなかったわよ。今まであんなに泣いたこと無いんだもん」

と、呟いてマフラーに顔を埋める。
◇ ◇ ◇ ◇

2010年3月x日 曇り

まだ春と言うには肌寒い。

大学合格の報告をかねて、大河の家に行くことにする。前回の失敗があるので、今度は子供部屋に入らないように気を付ける。顔さえ見せなければ、大河の弟も泣かないだろう。

◇ ◇ ◇ ◇

「まったく……想定外だったぜ」

「まぁ、あんたばっかりが悪い分けじゃないわよ。最初に言っとかなかった私も悪いのよね」

玄関先で溜息をつく竜児を、大河が慰める。奧では弟君の絶叫にあたふたする夫婦の声が聞こえる。

「泣き声、力強くなったな」

「喜んでいいのかな」

竜児を見上げて苦笑いする大河。黒のセーターが小柄な大河の愛らしさを強調していて、思わず抱き寄せたくなる。が、時と場所を考えてがまん。

「気がつかなかったなぁ」

大河の顔を見つめて竜児は溜息をつく。赤ちゃんは1歳にもなると自分の足で歩いてくる。そんなこと思いもよらなかった。

◇ ◇ ◇ ◇
2010年4月x日 雨

今日からゴールデンウィーク。

大河の弟が昼寝をしている時間を見計らって挨拶に行く。今日に限って起きていた。泣かれて退散。

◇ ◇ ◇ ◇
2010年7月x日 晴。この夏一番の猛暑。

「子供部屋で私が弟を見ておくから大丈夫」と、大河に言われて再度挨拶に行く。しかし、弟君がジュースをこぼしそうになって、慌てた大河がころんだ隙にリビングまで駆け込まれてしまった。俺の顔を見て、あとは絶叫。

もう、走ることができるとは心強い。と思うことにする。

◇ ◇ ◇ ◇
2011年3月x日 快晴

大学の春休みは意外に短い。
「もう2歳だし、だいぶ落ち着いたから顔を見ても大丈夫だと思う」と、大河に言われて挨拶に行く。弟君号泣。

かなり落ち込んだ。

◇ ◇ ◇ ◇
2011年5月x日 快晴

そう言えば、最近は鯉のぼりを見ない。

大河が俺を家に呼ぶのを嫌がってる。
◇ ◇ ◇ ◇

「嫌ってわけじゃないのよ」

竜児の通うキャンパスの木陰のベンチに座って、大河が説明する。2人の通う大学の教養部が割と近いこともあって、授業が2コマほどあく時にはこうして大河が遊びに来ることがある。竜児のほうは1コマ空けばラッキーな程度なので、平日はもっぱら大河のほうからの通いデートになる。
「やっぱ呼びにくいか」

同じくベンチに並んで腰掛けた竜児が苦い笑顔を浮かべる。さわやかな5月の風が吹くキャンパス。白いすっきりしたワンピースにつば広帽子というお嬢様風の出で立ちの大河は、否が応でも年頃の学生達の目を引きつける。そして、例外なく横に座った竜児をみて目をそらす。

「なんていうか。また泣いちゃうじゃない」
「もうだいぶ大きくなったろう。泣かないんじゃないか?」
「そうかしら。て、みんなあんたから目をそらしてるわよ。あんたの顔って20歳になっても目をそらしたいくらい怖いじゃない。うちの弟、まだ2歳よ」
竜児はぐうの音も出ない。祖父の精児に強く進められて大学では運動部に入ることにした。入ったのが合気道部というのが竜児らしい。とはいえ、それはそれ、竜児は竜児。不必要に熱心にトレーニングに励み、わずか一年の間に、それなりにたくましい体つきになっている。元々の顔つきもあってかなり威圧的な雰囲気が出てきた。性格は相変わらずだが。

「ねぇ、竜児。あんたも言ってくれたじゃない。誰も私達を引き裂こうとしてるわけじゃないのよ。もう、うちの親もあんたの事は認めてるんだし、いいんじゃない?」
「そうはいかねぇ」

と、ここで竜児は持ち前の融通のきかなさを発揮。風薫る五月の空の下、くどいことを言い出す。

「第一に、お前の両親とちゃんと話したのって、結婚を却下されたときだけだぞ。ここでなあなあにはしたくねぇ。それにお前の弟ってことは俺の弟になるんじゃねぇか。兄弟なんだから仲良くしないと」
「うわぁ、あんたそのうざい性格早くなおしてよ」

「お前が単純すぎるんだよ」

◇ ◇ ◇ ◇

2011年5月x日 快晴

ゴールデンウィーク最終日。

大河の両親に挨拶に行く。弟君に一目で泣かれた。

◇ ◇ ◇ ◇

2011年8月x日 雨 じっとりと暑い。

大河の両親に挨拶に行く。いきなり泣かれた。

◇ ◇ ◇ ◇

2011年10月x日 曇り

大河の両親に挨拶に行く。大泣きされて退散する。

「猿の惑星」をレンタルした。史上最初に猿が話した言葉が「ダメだ」。今の俺の気分だ。まぁ、意味が違うか。

◇ ◇ ◇ ◇

2012年2月x日 雪

玄関で「こんにちは」と挨拶したら奧で泣き始めた。声を覚えられたらしい。

◇ ◇ ◇ ◇

三年に進級して二月ほど経った頃。竜児も大河もキャンパスが変わって、少し遠くなった。今日は久々に大河が遊びに来ている。

「竜児、残念なお知らせがあるわ」

「それは残念だな」

幾分投げやりな返事に、なによ、と大河は頬をふくらます。話を聞いてくれても良さそうじゃないと思っているのだろう。だが、竜児としてはここ数日の話の流れからして、これが弟君の話だろうというのはだいたい予想が付く。あとはどのくらい残念かだ。

「まぁいいわ。ともかく、ここ何ヶ月かおかしいなと思ってたんだけどさ、昨日はっきりしたのよ。うちの弟、『高須』って言っただけで泣き出すわ」
「なんだよそれ!」

思わず大声を出す竜児に、殺風景な学食で休憩していた連中が振り向き、次に目をそらす。軽く傷つく竜児の事は放って置いて、大河が続ける。
「うちのパパとママがさ、『そろそろ高須君が来る時期じゃないのか』って話してたのよ。そしたら弟大泣き」

「お前の親父さんとお袋さんに待ち構えられているってのもどう受け取ったらいいかわからねぇが、弟君の方は、首を括りたくなる話だな」
「今度自殺なんかしようとしたら殺すって言ったでしょ。弟は、あれよねぇ」

ジョウケンハンシャと、大河は竜児をまっすぐ見つめながら言う。

食事の前にベルを鳴らすと、ベルを鳴らすだけで犬がよだれを流すようになる。梅干しを見ると唾が出る。訓練次第で頭の働きなしで体が反応するようになる。高須と言うと子供が泣く。いつの間にか顔、声に続き、名前まで覚えられてしまった。普通顔と名前を覚えてもらえれば友達になれると思うのだが。現代社会は何かが間違っていると思う。竜児が密かに尊敬している、あの穏やかな元国連大使も悲しむことだろう。

だが落ち込む竜児の正面で大河はふっと唇をゆるめて優しい笑顔。頬に桜色が差す。

「だけどさ、おかげで一歩前進したのよ」

なんだ?と聞き返す竜児に、大河はくすぐったそうな表情。

「昨日の晩から、パパとママはあんたの事を『竜児君』って呼んでるわ。そっちだとぎりぎり泣かないみたい。弟を泣かさないように話すには、それしか方法が無いから」
「おう」
これには竜児もびっくり。あの心持ち冷ややかなお袋さんが自分の事を下の名前で呼んでいるとは。感慨深げに目を泳がす竜児に、大河が微笑む。

「だからさ、弟の事は少し気長に考えて。毎回泣かれるのも何だし、しばらく時間置いてみてよ」
◇ ◇ ◇ ◇

2012年8月x日 雷雨

しばらく家に来るなといっていた大河が、急に来いと言い出した。なにか裏がありそうだが、聞けば怒るかもしれないし、とにかく訪ねることにする。

◇ ◇ ◇ ◇

2012年8月x日 晴れ

立秋。

弟君に大泣きされた。

◇ ◇ ◇ ◇

「大河、方針を変えよう」

祖父の家に2人で遊びに行った帰り道で、竜児が話を切り出した。夏休みもそろそろ終わりがはっきり見えてきたが、相変わらず暑い。強烈な西日の中、涼しげなワンピースに白いつば広の帽子の大河が、帽子の下から顔を覗かせて竜児に聞く。

「方針って?」
「弟君の事だ」

大河は随分竜児を呼ぶことに積極的で、またすぐにでも来いという。だが、このままでは同じ事の繰り返しで、埒があかない。しかも、弟君は竜児の声や名前だけで泣き出すという変な条件反射を獲得してしまった。もともと大河の両親にちゃんと挨拶をするのが目的だったはずだが、公共事業のようにだらだらと遅延する内に、いつのまにか弟君攻略が目的になりつつある。確かに「将を射んとせばまず馬を射よ」と言いはするが。
「人間相手にこんな事をするのはどうかって思っちまうけど、仕方ない。条件反射を別の条件反射で塗りつぶすんだ」

「どうするの?」

いぶかしげに問いかける大河に、竜児は前の方を睨み付けながら、

「これからお前とデートするときには、必ず子供が喜びそうな食べ物を持って行く」
「あんた、うちの弟を食べ物で釣る気?」
おう、お前もチャーハンで釣ったからな、とはさすがに言えない。言えないが、

「釣るっていうか、そもそもお邪魔するのに手ぶらだった俺も悪いんだ。学生だからって甘えてた。だから、これからはちゃんと手土産を持って行く。でも、今は行くことすら出来ない。だから大河、こっから先はお前の任務だ」

「任務って何よ」
「弟君は俺の名前とイメージを結びつけてる。だから大河、お前が弟君に俺からだって言ってお菓子をあげるんだ」
「つまり…えーと、竜児の名前を聞くとおいしいものを食べられる、って条件付けるわけ?」
「そうだ。そのときに『ほーら、高須のお兄ちゃんが持ってきてくれたよー、おいしいよー』って、言うんだ。そうしたら、弟君の中で俺の名前とお菓子が結びつく」
「あんた変な顔してる」
ぷっと吹き出す大河に竜児は不機嫌な顔。

「笑ってる場合かよ」

「でもさ、竜児。もし、弟の中でお菓子とあんたの顔が違う風に結びついたらどうなるのよ。お菓子を見ると泣く子になるの?」
「……そうならないことを祈ろうぜ」
竜児は暑さにあえぐように呟く。

◇ ◇ ◇ ◇

2012年8月x日 晴れ

大河に説明して小さなチョコを渡した。俺の名前を出したら泣いたらしいが、とりあえずチョコを食べて機嫌を直したらしい。

◇ ◇ ◇ ◇

2012年11月x日 雨 寒い。

最近は弟君は俺の名前を聞いても泣かなくなったらしい。大河は喜んでいるが、お袋さんは俺の事をムシバラス呼ばわりしているらしい。軽く落ち込む。次からは麦チョコを少しだけ、ティッシュに包んで渡すことにする。

◇ ◇ ◇ ◇

2013年2月x日 晴れ 風が冷たい

前の国連大使のニュースが流れたときに弟君が目を輝かしていたらしい。どうやら名前の印象は完全に好転したようだ。

泰子が風邪をひいた。寝相が良くないと思う。

◇ ◇ ◇ ◇

2013年3月x日 晴れ

桜の開花宣言が出た。

明日、大河の家に挨拶に行く。四年になる前になんとか一度家に上がりたい。

◇ ◇ ◇ ◇

「ご無沙汰しています」

玄関でしっかり挨拶した竜児に返ってきたのは、奥の部屋で聞こえる泣き声ではなくて、大河の父親の暖かい笑顔だった。

「やぁ、竜児君。久しぶりだね。あがんなさい」

「はい」
声が感動で震えそうになるのを必死でこらえる。婚約者の父親が下の名前で呼んでくれた!

通されたリビングは、以前来たときとあまり変わらないように思える。広々として安っぽさがかけらも無いのは2人の収入を想像すると、あたりまえだろう。まぁ、高須泰子さんの家が見劣りするのは当然だが、別に恥じることもない。

大河の母親はキッチンの中から「いま料理で手が離せないの、ごめんなさいね」と素っ気なく声を掛けてきた。なにしろこちらは母親の手元から大河を2度連れて逃げているのだから、そう簡単に心を許してくれるとも思っては居ないが、あれから何年も経つ。それだけにここに来るのに時間がかかりすぎたな、と痛感する。

まぁ、座ってと椅子を勧められる。父親は奥の方にも声を掛けるのだが、

「大河も来なさい」

「うん、そっちに行きたいんだけど」
ちょっと困った様な声が返ってくる。苦笑する父親の顔をみて竜児も振り向き、唐突にならないようゆっくり部屋を覗き込んでみると

「おう」

蝉が一匹、大河にしがみついていた。こざっぱりした部屋着の大河に、がっしりと子供がしがみついている。身長差から見ると、仲のいい姉弟にしか見えないが、よく考えてみると2人は姉弟だ。まぁ、年の差17歳の姉弟なのだが。ぱっと見たところ7歳くらいしか違ってないように思える。

どうやら弟君は突然の客の来訪に困ってお姉ちゃんに甘えているらしい。姉弟仲のよいことは素直に喜ばしい。一方で「そいつは俺の女だ」と思わないこともない。両親の前だから間違っても口には出来ないが。

弟君が、そっと竜児を見る。目があった。

「おう、久しぶり。覚えてるかい?」

ポケットからいつも大河に渡していたおひねりを取り出して差し出す。しかし竜児の精一杯の笑顔が怖かったのだろう、ちいさく「ひっ」と声を上げて大河の薄い胸に顔を埋める。

嫉妬やら、屈辱やらで複雑な顔になる竜児のうしろから、父親が「ほら、挨拶して」と促すが、弟君は大河にしがみついたまま。しがみつかれた大河も困った顔で、「今日、ダメみたい」と苦笑い。

もっとも、この日大河の弟は最後まで泣かなかった。空腹に負けて夕食の席についた時には竜児の顔を見ないようにしていた。それでも、泣かなかった。竜児はついに鉄壁の要塞を打通したのだ。それがどれほど竜児にとって意味のあることなのかは、大河の母親が時折見せる、何かをかみ殺すような複雑な顔を見ればわかる。

弟君は4月から幼稚園の年少組らしい。

「幼稚園じゃ、何があっても泣かないでしょうね。当然よ、真の恐怖を知ってるんだから」

とは、上機嫌だった大河の飛ばした軽口。

◇ ◇ ◇ ◇

2013年5月x日 晴れ

大河の家に遊びに行く。弟君は相変わらず挨拶をしてくれない。だが、大河の後ろで恥ずかしそうに笑っていた。

◇ ◇ ◇ ◇

2013年8月x日 雷雨

大河の家に遊びに行く。弟君にお菓子を手渡せた。

◇ ◇ ◇ ◇

2013年10月x日 朝から断続的に雨。

台風が直撃。すごい風だった。

明日、大河の家に遊びに行く。

◇ ◇ ◇ ◇

「じゃ、これで失礼します。お母さん、おいしい料理、ごちそうさまでした」

「気を付けてね」
頭を下げる竜児に、大河の母親が困った様に笑う。困ろうがどうしようが、竜児の勝ちだ。根っこでは竜児を嫌っていないらしい彼女にとって、何年間も素っ気ない態度を続けるのは至難の業だったのだろう。ここ半年で、竜児は完全にこの家のリビングに溶け込んだ。相変わらず弟君は話をしてくれないが。

父親に送られて玄関で靴を履く竜児に大河が奧から声を掛ける。

「竜児ちょっとタンマ!………ほら、早くして!」

大河に後ろからせかされて、来年年長組に上がる弟君が玄関にやってくる。表情は、知らない人に子供が良く見せる照れ笑い。彼にとって竜児は知らない人ではないが、なにしろこの照れ笑いを獲得するのに3年半かかった。

前に押し出されてきた弟君の前に、竜児がしゃがむ。かつて無い接近に一瞬玄関が緊張に包まれるが、無事クリア。

「なんだい?」

ん、と無言で差し出されたのは折った画用紙。

「俺に?」

そう、と頷く。後ろを見ると大河はニヤニヤ笑い、父親もどういう表情をしたらいいのかわからないといった顔をしている。

受け取った画用紙を開いた竜児は、思わず

「おう」

と、大きな声。

渡されたのはクレヨンで描いた運慶・快慶作「東大寺南大門金剛力士像 阿形」。ではなくて、たぶん以前来たときににっこりほほえみかけた竜児の顔だろう。その証拠に絵の横にはたどたどしい文字で「おにいちゃん」と書いてある。「ん」の波がひとつ多いのをここで突っ込むのは野暮だ。

つり上がった目の中で大きくぎらぎらと輝く白目、ぎゅっと収縮して狂気を振りまく黒い瞳。近寄るものをすべて食い殺しそうな耳まで裂けた口。自分の顔が就学前の子供の目にどう映っているのか突きつけられて、竜児は気を失いそうになる。

そこで竜児が言葉を失ったのがあまりにおかしかったのか、リビングの奧から苦しげな声が漏れてきて、やがて爆笑に変わった。

「あーーはっはっは、ごめんなさい。ごめんなさいね!竜児君。でも、『ちゃん』は余計だわよね、おほほほ!ひーっ苦しい!」

何を言われても口答えできない状況の竜児は、苦い笑みを浮かべたまま黙って絵を見つめるしかない。畜生、覚えてろ。お前の娘は必ず俺が奪ってやる、と思っているのだ。絶対幸せにしてやるから覚えていやがれ。

「これ、お兄ちゃんを描いてくれたのか?」

うん、と頷く弟君。そうか。そうだよな。俺は似てないと思うけど、気持ちはありがたいよ。横に、おにいちゃんと書いてくれてるし、否定のしようがない……ちゃんが余計……『おにい』?…『鬼ぃ!』?……。

娘と血がつながっていることをしっかりとその口の悪さで証明している母親はおいといて、竜児は弟君に礼を言い、微笑んで頭をなでてやる。おとなしくなでられると、弟君は、はにかみ笑いを浮かべたまま大河の背中にしがみついて隠れてしまった。
「竜児君、すまないね。気を悪くしないで欲しいんだが」

「いえ、そんな」
女子供と違って、竜児と大河の父親は大人の会話。

「この絵ですが、いただいてかまいませんか?」

「ああ、かまわないよ」
「竜児、焼いて捨てたりしたら承知しないわよ」
可笑しそうにニヤニヤ笑う大河に『焼くかよ』と軽く突っ込む。こういう凶暴な顔の絵が好きそうな永遠の23歳を1人知っているから、帰ったら見せてやろう。

「じゃぁ、これで失礼します」

「ああ、気をつけて」
「竜児、またね」
リビングの奧からはまだ腹痛に耐えるようなくぐもった笑いが聞こえてくる。 だが、

「おにいちゃん、また来てね」

小さく発せられたその一言に、瞬時に場が凍り付いた。父親も大河も目を丸くして弟君を見る。声を掛けられた竜児も呆然。リビングの奧の笑い声も止まる。1秒、2秒、3秒、注目に耐えかねて弟君は奧に逃げ込むが、

「やった………………やった………やった。やったやったやったやったやったやったやったやったーーーっ!」

続いて謎の興奮状態に陥った大河は喜びに顔をくしゃくしゃにしたまま、いきなりサンダルをつっかけ、竜児を玄関から押し出す。

「竜児、送っていくわよ!いきましょ!」

「おう、なんだ?」
そのままバタンと扉を閉めて、2人は夜の住宅街へと出て行った。

◇ ◇ ◇ ◇

「あの娘ったらはしゃいじゃって」

玄関から戻ってきた夫を迎えたのは、打って変わってちょっとしらけた感じで食卓に座っている大河の母親の長い溜息。頬杖を突いて不愉快そうな顔をしているのは、たぶん演出だろう。

「そんな事を言ったって、言い出したのは君だぞ」

気の強い妻のこのくらいの言動にたじろいでいては、夫は勤まらない。柔らかい笑顔を浮かべながら戸棚からウィスキーを取り出す。琥珀色の液体を注いだグラスを口に近づけると、アルコールを含んだ強い香りがふわりと顔を包む。

「あんなの冗談に決まってるじゃない」

「冗談でも、もう反対できなくなったね」
大河の母親はふっと力を抜いて遠い目。

「あーあ、大河本当に結婚しちゃうのかしら。早いと思うんだけどな。あの子美人だし、あんな岩おこしみたいな男の子じゃなくたって選び放題なのに」

「岩おこしはひどい」
「じゃぁ、お不動さん」
くくく、と笑いながら夫は呟く。

「不動明王が怖い顔をしているのは、悪しき心をくじき、弱き心の人を助けるという、仏様の強い意志の表れだそうだよ」

「なによ。あなたどっちの味方なの?」
意地を張ってふてくされた顔をしている妻を見ながら、ふと、思う。そうだ、次は竜児君とウィスキーでも呑もう。

◇ ◇ ◇ ◇

そのころ、

「やったー!やったやったやったー!」

すっかり暗くなった住宅街で大声を上げてはしゃぎながらめちゃくちゃにぶら下がってくる大河に、竜児は半切れ状態だった。

「大河、おい大河!なんなんだよ、いきなり。説明しろよ!お前何喜んでるんだよ!」

ぐいと引き離されても、大河は満面の笑み。キラキラと輝く瞳で竜児を見つめ、やがて頬を赤く染める。

「だって」

と、言葉を切り、こみ上げる喜びを呑み込むように目を閉じると、もう一度竜児を見つめて、

「ママがね、言ってたのよ。あの子が竜児と話すようになったら結婚を認めてやってもいいって」

とんでもない家庭内約束を披露してくれた。今度は竜児が大声を上げる番だ。

「はぁ?なんだよそれ!」

「『はぁ』じゃないわよ!喜びなさいよこの鈍感犬!」
満面の笑みを浮かべた大河が、目を細くして嬉しそうにガスガスとサンダル・キックを入れてくる。向こう臑に走る激痛も余所に、竜児は体中に鳥肌を立てて、

「待て、ちょっと待て。認められたんだな、俺たち結婚認められたんだな!」

「だから喜びなさいって言ってるでしょ!やったやったーっ!結婚だーっ!竜児と結婚!」
呆然と立ちすくむ竜児の右手をとって、大河はぴょんぴょん跳ねながら町内会に朗報を喧伝する。腕を上下に振る。左右に振る。あはははは!と声を出して笑う。暗くなった空の下でしばらくいいように手を振り回されていた竜児は、ようやく正気を取り戻すと、

「おう、って、何だよ。俺たちまじめなのにあんまりじゃねぇか、その条件」

と、三白眼を揺らしてみせる。しかし、かつて手乗りタイガーと呼ばれたその女は相変わらず顔を崩して目を線にしたまま。

「馬鹿ね竜児ったら。ほんとにお馬鹿さんなんだから。あんた、とっくに私の恋人として認められてたじゃない」

「え、いや、だけど」
「だから、ママの照れ隠しよ。あんたは高校生のときに、二回、私をママの前から連れて逃げたでしょ。ママはそれにちゃんと理由があるのはわかってるけど、振り上げた拳を黙っておろせる程素直じゃないのよ。怒ってないけど、怒ってないって言いたくないの。5年も経つのに、強情よねぇ」
お前の強情は母親似だな、と、竜児は呆然としながら思うが、口にはしない。口にしたらどんな目に遭うやら。

「だからね、弟があんたに口をきいたら、なんてのは冗談よ。冗談なんだけど、条件を出した以上、引っ込められないでしょ。あんたと私の結婚を認める理由を無理矢理つくっちゃったのよ『条件なんだから仕方ない』って自分に言い訳するために。ほーんと、素直じゃないんだから」

「えーっと、だから、何なんだよ」
「あーもう、1から10まで説明しないとわからないの?あんたと私の結婚は、ずっと前からうちでは暗黙の了解事項だったの。それに正式にお墨付きが出たの。もう、すねたっていじけたって反対する人は居ないの!わかった?」
「弟君のおかげでか?」
左手に持ったクレヨンの金剛力士像を見る。

「そうっ!」

大河がにっこりと笑いながら、星を散らしたような瞳で竜児を見上げる。

「ねぇ、何か言うことはないの?」

そう急に言われても。

いや、急な話じゃない。そもそも大河の家を訪れ始めたのは、自分を婚約者として認めさせ、結婚を認めて貰う為だった。確かにそうだった。あれから何年だ?そう、4年だ。4年も経っている。そして今、その願いが叶った。

竜児は立ち尽くし、前方を見る。右に目をやり、左に目をやり、たぶん「通りで騒いでる馬鹿がいるな」とでも思っているのだろう、住宅地の家々を見る。あの家の灯りひとつひとつに幸せな家族が居て、自分たちがここにいて。左手の絵を見、冷たい空から2人を柔らかく照らす月を見た。あうあう、と言葉無く口を動かし、そして、目の前で自分を見上げる女に視線を戻す。キラキラと月の光に輝く瞳を見つめる。2人の横を家路に向かうのであろう女性が歩いて行く。迷惑そうにこちらに視線を向けるが、慌てて目を背ける。

「ちょっと、竜児、ねぇったら!」

「お、おぉぉ………うぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!大河ぁぁぁーーーっ!」
いきなり心臓からわき上がってきた激情に一声吠え、やおらかがむと婚約者の細い体を抱きしめる。通り過ぎていった女性がびくっと体を震わせて、振り返らずに走って逃げていく。

「きゃははは!竜児ーーーっ!」

乱暴に抱え上げられた大河は、それでも目を細めて大きな口を開け、歓声を上げて竜児の頭を抱きしめる。竜児、竜児と恋人の名前を呼びながら大声で笑う。竜児も同じ。大河、大河、結婚だ!と。どう見ても危ない精神状態の2人は、そうやってしばらく大声で静かな住宅街に叫び続けていた。

◇ ◇ ◇ ◇

夜中、スタンドの電気だけを点けて日記を前に今日のこと…正確にはもう昨日のことを振り返る。

泰子は弟君の似顔絵に腰をくねらせて興奮しながら、竜児と大河がまた一歩前に進んだことを泣いて喜んでくれた。

北村祐作は、傍から見たら単なる滑稽劇のような話をうんうんと30分あまりも聞いた後、電話の向こうで「よっかったな、お前達」と心から祝福してくれた。

興奮は風呂から上がっても冷めず、ようやく落ち着いてきたのは1時過ぎで、泰子はとっくに夢の中。今、竜児は一人でこれまでの事を噛みしめている。携帯のディスプレイには、さっき大河から届いたメールが『眠れないよ』と。

これからもいろいろなことが起きるだろう。何より、本当に結婚の申し込みをするのは就職して、生活が安定してからだし、結婚の準備を考えると貯金も必要だろう。2人で生きていくために何が必要か、考えなければならないことはたくさんある。

だけど今日は大きな意味のある一日だった。

ほんの少し残っていたもやもやがすべて吹っ切れた日だった。だからこの重要な一日を忘れないよう、竜児は乱暴で大きな字で日記に今の気持ちを記すことにした。

『やったぜ!』

(お・し・ま・い)

初出 : 2009年12月14日

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