高須竜児最期の日

「ブレンドコーヒーお待たせいたひぃぃぃぃぃっ!」
「おうっ!?」

松の内も開けた最初の土曜日。

大橋商店街に面した喫茶店「須藤コーヒー・スタンドバー」に、ウェイトレスの悲鳴が響く。危うくコーヒーを客にぶちまけそうになったのだ。悲鳴に店の客が振り向くが、すぐに目をそらせたのは、コーヒーをかけられそうになった男が物騒きわまりない目つきでウェイトレスを睨み付けているからだ。

だが、男は『ねぇちゃん、クリーニング代10万円払えや。体でもいいぜ』と、思っているのではない。心臓が止まるほど驚いているのだ。ちなみにコーヒーはかかっていない。

「し、失礼しました!」

真っ青な顔で奧に下がるウェイトレスに男は溜息をつく。切り裂くようにつり上がったまぶたの中で、大きくぎらぎら光る白目。その中央でぎゅっと小さく縮まって狂気の光を振りまく黒目。絵に描いたようなプロフェッショナル仕様の反社会的三白眼を揺らめかせて憮然とコーヒーを呑む男の名前は高須竜児。怖い系の人でもなんでもない。それどころか、恐ろしいほどの威圧感を振りまく彼は社会人ですらない。高校三年生。まもなく大学受験を迎える身である。

「ったく。なんでいつもいつもコーヒーこぼしそうになるんだよ」

と、彼が独りごちるのも無理はない。竜児の知らぬ事ではあるが、「時折訪れる切れまくった目つきの高校生君への接客」は、なじみ客の間でスドバと呼ばれるこの店の知られざる新人いじめ、もとい、名物行事である。注文を取るのは先輩アルバイト、コーヒーを持って行くのは新人、というフォーメーションのもと、「わー怖い!きゃぁっ!」というイベントが何度も飽きずに繰り返されている。

実のところ竜児は怖くないいどころか、不良ですらない。母親思い、友達思いの心優しい成績優秀、品行方正な男子高校生なのだ。一言で言えばよい子である。竜児が大橋商店街界隈でもっとも目撃されているのは、ゲーセンでもたばこの自動販売機の前でもなく、スーパーマーケットだったりする。ちなみに特売日やタイムセールスを狙っていけばかなりの確率で遭遇できる。だからこそ、行きつけの喫茶店で知らぬ間にいじられていたりするのだ。

その竜児、今日は人待ち顔でコーヒーを飲んでいる。年上のお姉さんの態度に軽く落ち込みながら溜息をついてコーヒーをすすること5分。待ち人はようやく来た。

「高須君、ごめん。呼び出したのにまたせちゃったね」
「おう、気にするな。それより珍しいな。櫛枝が呼び出すなんて」

現れたのは真冬だというのにひまわりのように明るい笑顔を振りまく少女。名前を櫛枝実乃梨という。竜児と同じ学校に通うソフトボール少女であり、竜児と同じく受験生で、今年体育大学への進学に挑戦する。去年の今頃は山のようなバイトをこなして学費を準備していたが、さすがに最近は控えているらしい。最近入った情報では両親が折れてOKを出したので体育大学の学費もかなり家から出るとか。そう言うわけで、未だ空は明るいが今日の実乃梨は勤労少女ではない。

コートを脱いで竜児の向かいのソファに腰掛け、若干ビクビクしながら注文を取りに来たお姉さんに紅茶を頼むと、実乃梨は「高須君は最近どう?」などと世間話を振ってきた。どうもこうもない。勉強漬けである。一年前、同じクラスの逢坂大河に劇的なプロポーズを行ってその場でOKをもらった竜児は、是が非でも大学に進んでちゃんとした会社に就職しなければならないと意気込んでいる。もともと成績のいい竜児だが、将来の粘着気質もあって、ことごとく弱点をなくそうと必死で勉強をしているところだ。

「そっか、高須君頑張ってるんだね」
「櫛枝はどうだ?」

竜児、実乃梨、大河の3人は2年生のとき同じクラスだった。その後進学コースに進んだ竜児や大河と違い、実乃梨は体育大学進学希望と言うことでクラスはバラバラになっている。そういうわけで、なかなか顔を合わすこともない。

「私は勉強もしてるけど、トレーニングのほうが時間が長いかな」
「受験勉強のときもトレーニングか。まったくお前は頑張るよな」

竜児の言葉に、実乃梨が笑顔を返す。

実は去年の今頃、竜児は実乃梨に振られたばかりで呼吸すら辛いような毎日を送っていた。1年生の頃から実乃梨のことを好きだった竜児は、2年生のクリスマス・イブに告白を押しとどめられる形で振られ、結局その後完全に2人の間は「なしよ」になったのだ。今は2人とも落ち着いていて、だからこうして喫茶店で話をすることも出来る。

外は寒い風が吹いているが、店の中は適度に暖房がきいていて快適だ。2人の話も随分弾んだ。

「で、何の用なんだ?話って」

竜児がそう切り出したのは10分ほどおしゃべりした後だった。たいした話じゃないけど、と学校で実乃梨に呼び止められたのが下校の時だった。ちょっと2人で話がしたいと。

水を向けられた実乃梨は「いけない、忘れてた」と首をすくめて笑い、すっと姿勢を正した。

「あのさ、少しまじめな話なんだけど」

微笑みは消え、竜児を射抜くような視線で見つめる。キラキラした瞳に見据えられて竜児はおもわず息を呑み、つられて姿勢を正す。

「なんだ。改まって」
「あのさ。本当にまじめな話だから正直にこたえて欲しいんだけど」
「おう」
「高須君、私の事。まだ引きずってる?」

間があった。真剣に竜児を見つめる実乃梨を見つめ返す。一体何を切り出そうとしているのか竜児にはわからない。わからないが、答だけはわかっていた。

「俺は、引きずってねぇ」

はっきりと、そう言えた。今は大河だけを愛している。そう思う気持ちに一点の曇りもない。バレンタインデーの放課後、実は実乃梨も竜児の事を好きだったと知らされた。知ってなお、未練らしきものは不思議と浮かばなかったし、その時、それまで聞かされなかった心の内を話してもらって、本当に実乃梨の事には決着が付いた。

「そっか」

と、竜児の答を聞いた実乃梨は緊張を解く。

「私も引きずってない。今の気持ちはあのときと同じ。自分の夢にまっすぐ向かってる」
「おう、俺はそういうお前を応援してるぜ」
「ありがとう」

微笑んでこたえた竜児に実乃梨が、かつて彼の心を融かし尽くしたひまわりの笑顔を向ける。竜児はこの笑顔が好きで恋に落ちたと言っていい。実乃梨の前で胸が怪しくざわめかなくなった今でも、この笑顔は好きだ。その竜児の目の前で、

「で、高須君。君を男と見込んで頼みがあるんだが……『漢』と書いて『おとこ』と読む心意気で、ひとつ聞いちゃくれないかね」

がらりと実乃梨の口調が変わる。そもそも櫛枝実乃梨はこういう女の子だった。つかみ所の無い陽気さで、がっちりと竜児のハートを掴んでいた。いつも意味不明の言葉を口走る実乃梨が普通に話してくれるようになって、まだ1年も経っていない。

「な、なんだよ」

いきなり前のめりになってにぃっと笑いながら迫る実乃梨に竜児が気圧される。思わず照れ隠しにコーヒーを含む竜児は

「あのさ、大河が昨日ぽろっと口を滑らせたんだけどさ、私宛のラブラブレターがたくさんあるんだって?」

盛大にむせた。

むせながら、全身の血管が開くのがわかる。体温がかっと上昇する。見なくても、自分の顔が赤いだろう事が想像できる。

「ほうほうほう。その反応。どうやらネタはガセじゃなかったらしいね」

実乃梨が嬉しそうに笑う。そう、ネタはマジだ。竜児の手元には、櫛枝実乃梨あての、出せなかったラブレター、うっかり書いた詩集、ドライブの時に演奏する曲目リスト、同オリジナル編集MDなどが、段ボールひと箱残っている。それを知っているのは大河だけだ。ゴールデンウィークの頃、竜児はこの箱を捨てようとした。我ながら未練がましいと思ったから。だが、大河に止められたのだ。折角だし捨てるな、取っておけと。

とはいえ、誰が引っ張り出して読むわけでもない。今は押し入れの奧で眠っている。おそらくはそのまま、何十年もあけられずに時を過ごすはずだったのだ。それを実乃梨に漏らすとは、一体大河はどう言うつもりなのか。

「お前……いや、大体大河はなんでお前にばらしてんだよ」

目がつり上がっているのは、照れ隠しに怒って見せているのだが、残念ながら不良も目をそらす竜児の凶眼は実乃梨には通じない。はじめっから竜児におびえないところも、竜児のハートを引きつけた実乃梨のチャームポイントだった。だからこうして竜児の突き刺すような視線を真っ向から浴びながらも

「高っちゃーん。こえーよ、怒んないでよ。これ、春田君のまね。似てた?」
「似てねぇよ。てか、話をそらすな」
「まぁまぁ、大河はうっかり口を滑らせただけだから。慌ててたよ。あとで大河をしかったりしたら絶交だぜ」

にっこり笑いながら釘を刺すことを忘れない。

「怒るなって言っても……普通怒るだろう。こんなこと漏らしやがって」
「高須君はまじめだから怒るのもわかるけどね。お互い引きずってないことだし、実害はねえべさ」
「そうだけどよ」

そうだけど、やはり腹はおさまらない。以前好きだった相手に秘めたラブレターがあると知られる。いったいどんな羞恥プレイなんだ。あのドジ虎め、あとでとっちめてやる。と、小さな婚約者を思い浮かべながら竜児はテーブルの下で拳を握る。本当に喧嘩になったらとっちめられるのは暴力で劣る竜児だろうが。

視線を落としてコーヒーカップを相手にぶつぶつと文句を言う竜児に、実乃梨は相変わらず脳天気な笑顔を浴びせかける。

「そこで高須君、前振りはいいとして、ここからが本当のお願いなんだが」
「……なんだよ」
「ものは相談だが、というか、一生のお願いだ。おいらにその手紙読ませちゃくれないかい?」
「おうっ!?」

思わずのけぞる。背中がソファの背もたれにぶつかってワンバウンドするほどのけぞった。もう、赤面などと言う生易しいものではない。顔から本当に火が出そうだ。その竜児に追い込みを駆けるように、実乃梨が顔をずいと近づけてくる。笑顔がかすかに狂気をはらんでいる。

「ね、読ませてよ。私宛に書いたんでしょ?」
「ま、待て。櫛枝。あれは、その……」
「高須君、みみっちいことは言いっこなしだ」
「いや、ダメだ。あれは、そ、そうだ。プライベートなものだ」
「でも、おいら宛に書いたんだべ?おいらのものでもあるよな」
「ねぇよ!」

思わず大声を出した竜児に、またもや店内の人が振り返り、そして目をそらす。目をそらしたいくらい、竜児の表情は逼迫していた。あえて言葉にすれば、顔つきが裏返っている。しかし、いつもなら傷つくそんなシチュエーションにも、竜児はかまっていられない。今や実乃梨は完全にソファから立ち上がり、テーブルに手を突いて竜児に向かって乗り出している。

「なぁ高須君。聞いてくれよ。君だから話すけど、この不詳櫛枝、生まれてこの方ラブレターってものをもらったことがないんだ。あるのは滑り込みで勝ち得た名誉の負傷だけなんだよ」
「そ、そうか。意外だな。お前はモテるのかと思っていたが」
「いやぁ、嬉しいこといっちゃってくれるねぇ。でも残念。おいらみたいなオッペケペーに目を掛けてくれた優しい男の子は高須君だけだったよ」
「おう。これでも俺は見る目があるからな」
「うんうん、聞いてる聞いてる。大河がいつも『竜児の見る目は確かだ』って言ってたからね。高須君はおいらのどこが気に入ったのかい?肩?腿?ひょっとしてバラかい?だとしたらダイエット戦士としては複雑な心境だぜ」
「バカ言え。そりゃ肉屋の話だ」
「おっとコレは失礼。ジョークが効き過ぎた。おいらは高須君が女の子を肉付きで選ぶような男の子だとはこれっぽっちも思ってないぜ」
「あたりまえだ」

死ぬほど乾いた喉に仰け反ったままコーヒーを流し込む。味なんかわからない。熱いかさめているのかすらわからない。そもそも、これは現実だろうか。たちの悪い夢じゃないのか。いや夢であってほしい。そう、きっと今にも目が覚めるだろう。しかし、願いむなしく現実の喫茶店の一角で、相変わらず実乃梨は満面の少々狂った笑みを浮かべて竜児に迫っている。

「櫛枝、とにかく座れよ」
「いけねぇ。ちょっと興奮しすぎた。鼻血が出るかも」
「出すなよ」
「鼻血はともかく高須君、私はまだラブレターって奴をもらったことがない」
「おう」
「このままじゃ、男の子に恋文ひとつもらえないまま高校生活が終わりそうな勢いだ。それともなにかい?高須君は、一度は思いを寄せた女の子にそんな寂しい思いをさせて平気なのかい?そんなことで国連大使が勤まるのかい?」
「わけわかんねぇよ。大体、矛盾してないか?」
「矛盾?なにが?」

首をかしげる実乃梨を睨み付けるように竜児が見据える。睨んでいるのではない、必死なのだ。

「おまえ、あのヘアピン『私はそれを受け取らない』って受け取らなかったじゃねぇか。あれだけぴしゃりとけじめをつけといて、今更……その……ラブレター読ませろって、何だよ」

後半は小声になる。さすがに人の多いところで自分の口からラブレターなど言えない。それ以上に、選んだ話題が繊細だというのもある。1年前、竜児はクリスマス・イブに実乃梨に渡そうとしてかわいらしいヘアピンを買っていた。だが、それを実乃梨に渡すチャンスはなかった。ヘアピンは迷走し、実乃梨の髪を飾った後、雪山で崖から落ちて、それからしばらくあれやこれやで竜児の心は毎日崖から転がり落ちるほどはちゃめちゃに乱れたものだった。

結局、すべてが収まるべき所に向かって突然動いた2月のあの日、実乃梨は改めてそのヘアピンを拒んだのだ。竜児はその時の実乃梨の決然とした視線を忘れられない。夢に向かって歩く。それ以外の余事は忘れる。それが何だ、ラブレターを読ませろだと?

「矛盾ねぇ。ふむ。そう言われると矛盾しているようだが」
「ほらみろ」
「してないよ」
「何でだよ!してるだろ!」

冬の柔らかい光が窓からさし、店内は穏やかな色に包まれている。なのに竜児の周辺だけは空間が歪んだように異常事態真っ只中だ。そういえば1年前の今頃、竜児は大河と、同じくクラスメイトであった川嶋亜美を相手にこの喫茶店で気まずい思いをしている。ひょっとしたら時期と場所が決定的に悪い大橋商店街のグランド・クロスなのかもしれない。

憤る竜児を放り出したまま、実乃梨は満面の笑みで勝手なことを言う。

「あのときは、まだ高須君のこと少し引きずってたもん。あれはもらえなかったよ。でも、もう引きずってないからラブレターを読んでも大丈夫さ」
「じゃぁ、あのヘアピン……」
「高須君にはさ」

と、竜児の言葉を遮り、ひまわりの笑顔が続ける。

「あれを私に渡す理由がもうないよね」
「……ねぇよ」

竜児はそう答えざるをえない。顔を背けたのは1年前の恋の疵がつらいからではなくて、言い合いに負けたのが悔しいから。そのくらい、あのヘアピンを渡す理由がなくなってしまっていた。

「聞けば高須君、ラブレターどころか詩集もあるって言うじゃないか」
「あ、ある」
「私用に編集したMDもあるとか」
「お、おう。あるぞ」
「見せて。読ませて。聞かせて」

ほとんど無意識に、竜児は席を立っていた。そのままでは自分のコーヒー代をかつての想い人に押しつけてしまうとか何とか、そんなことが全部吹き飛んでいた。いたたまれない。というか、ここにいたら死ぬ。警察は死因を『羞恥』と発表するだろう。

しかし

「おおっとう。見くびってもらっちゃ困るぜ。高須君、君はおいらの目を盗んでベースを離れることが出来るとでも思ってたのかい?だとしたら関東ベスト4の強肩もなめられたものだぜ」

逃げようとした竜児の手首は、がっちりと実乃梨に掴まれてしまっている。素振りで鍛えられた実乃梨の手のひらはごつごつとしていて、とても振り切って逃げられそうにない。かつての想い人の顔つきは、捕食者のそれだった。

◇ ◇ ◇ ◇

「竜児、ほんとにゴメン」
「お前、さっきからそればっかだぞ」

ちゃぶ台に向かって居心地悪そうにちょこんと正座する大河にお茶を出し、竜児はその隣にちゃぶ台を背にして座って天井を見上げる。普段行儀のよい竜児らしからぬ姿だが、これからかつての想い人がラブレターの詰まった箱を取りに来るとあっては、竜児とてペースは乱れる。

結局あのあと……昨日だが……竜児は豪腕投手の気迫に押されてスドバのソファに縫い付けられたまま嫌な汗をかくこと1時間。とうとう根負けして手紙を見せることを了承してしまった。ちなみに、実乃梨によれば大河のほうは口が滑ったときの尋問で、あっさり「竜児がいいなら」と言ってしまったらしい。道理で昨日の大河は朝から落ち着きがなかった。

スドバで完封勝利した実乃梨はそのまま大河に電話をかけて翌日……つまり今日……の午後に竜児の家に来るようセットした。どうやら、彼の豪腕少女は善は急げと段ボール箱を担いで帰るつもりのようだ。が、さすがに婚約者の居る男の子の家に独りで上がり込む訳にはいかないと、当の婚約者を呼び出したわけだ。

上がり込まないという選択肢はないらしい。

ついさっき、早めに来た大河に昼飯を食わせたばかりなのだが、どうやら自分の口が呼び起こした事件に珍しくもかなりへこんでいたらしい。出会った頃は竜児の外傷だの心の傷だのには気を遣ってくれなかったのに、変われば変わるものだ。昼飯前に『食欲無いから、大盛りじゃなくていい』と言って竜児を慌てさせた大河だったが、『やっぱりおなかがすいてきた』と食事中に(!)言い出して竜児の分を半分平らげてしまった。

それほど深刻でもないようで一安心である。

とはいえ、おなかが落ち着くとやはり後悔におそわれるらしく、それが先ほどの会話へと続く。

「あのさ」
「なんだ?」

後ろ向きにちゃぶ台に肘を突いていた竜児が、声をかけられて大河を見る。大河は湯飲みを両手で持ったまま前に突き出すようにちゃぶ台に突っ伏している。

「あんたが手紙を捨てるって言い出したとき、私『せっかくだからとっときなよ』って止めたじゃない」
「おう」
「あれってさ、『とっとけばいいじゃない』じゃなくてさ、とっといてほしかったんだ、私」
「何でだよ」

前を向いていた大河がちゃぶ台に伏せたまま竜児に顔を向ける。顔の片方をぺたんと台に当てたまま、照れたようなくすぐったそうな表情を浮かべている。頬は桜色。瞳は竜児の向こうをみているよう。

「だって、思い出なんだもん」
「お前の?」
「そ」

大河は同じ姿勢のまま視線をそらせて、それでもバラのつぼみのような唇には笑みを浮かべたまま。

「あんたにとっては災難だったろうけどさ、あの夜は私の大切な思い出。だって、竜児に初めて優しくされた日だもん」
「やさしくした覚えはねぇけどな」

苦笑する竜児に大河もほほえんで

「そうね。きっとあんたは私にぶん殴られないようにっていろいろ考えてたんでしょうね。でもさ、竜児はおなかすかして倒れた私を放り出さずにベッドに寝かせてくれた。チャーハン食べさせてくれて、『ラブレターのどこが恥だ』って勇気づけてくれた。思い出なのよ。あの日のことは全部大切な思い出。ベッドもちゃぶ台もチャーハンも、破れたふすまも、あんたが私の封筒で作った花びらも、あんたがみのりんに書いたラブレターも」

そういうと、照れくさくて耐え切れなくなったのか、顔を前に戻す。

「だからさ、こんなことになったの、ほんとに悪いと思ってる。だけど、わかってよ」

そうささやくように言う大河に、きつい言葉を返すことのできる竜児でもない。

「心配するな。怒ってなんか無いって」
「ほんと?」
「おう」
「ぜんぜん?」
「……おう」

くすくすと大河が笑いながら体を起こす。

「竜児は嘘つけないね」
「今怒ってないのは本当だぞ。昨日ちょっと頭にきただけだ」

ほんの少しムキになって語調を強める竜児を、笑顔の大河が見上げる。ちょっとの間黙ったまま視線を交差させたあと、ふと竜児も降参したように笑顔になる。そして少し身じろぎしたのが合図だったように、大河がまぶたをゆっくりと閉じて……

◇ ◇ ◇ ◇

「私ってバカよね。どうしてこんな優しい男の子に殴り込みかけたりしたんだろう」
「お前がバカやらかさなかったら、俺はお前を知らずに終わってたけどな」

2DKのぼろい借家。大河は卓袱台に向かったまま。竜児は卓袱台に背を向けたまま、ちょっと無理に体を伸ばしてついばむようなキスの合間。ささやくように言葉を交わす。

「私が殴り込まなかったら、竜児はみのりんと付き合ってたんじゃないかな」
「冷静に考えてありえねぇ」
「そう?」
「言い出せないまま終わってたろう。そもそも、今となっちゃお前以外の女と付き合ってる俺なんか、想像すらできねぇ」
「もう」

お世辞なんか言ってもダメなんだから、とでも言いたげに微笑む大河の、奇跡のように柔らかい唇をふさいで小柄な体を抱き寄せる。

「……竜児、だめ。みのりんが来ちゃう……」
「……まだ大丈夫だ」

そう言ってまた唇を奪う。

何度繰り返しても、竜児はキスに慣れない。いや、大河の唇に慣れないというべきか。最初のキスからそろそろ1年だが、未だに大河の唇は、触れる度に竜児の脳髄を焼き尽くそうとする。閉じたまぶたの裏に黄金色の火花が飛ぶ。腕の中で生々しく体温を伝える体に心臓が跳ね、全身を熱い血液が駆け巡るのがわかる。

実乃梨がもうすぐ来るのはわかっている。こんな事をしていてはいけないのもわかっている。でも、わかっていても竜児は止めることが出来ない。

大河を腕の中に抱きしめてキスを交わす度に、竜児は自分の中の留金が外されていくのを感じている。この女は大事にしなければならない、守らなければならないと強く思う一方で、一番遠ざけておかなければならない敵は自分の中にある情欲なのだ。それを知った上で、それでも大河に触れずにはいられなかった。そして触れる度に、仕草や態度に出さなくても、その情欲を固く閉じ込めている留金は外されていくのだ。

二人は婚約しているのだから、いずれは肌を重ねる日がくる。しかし、竜児はその留金が全部はずれる日が思っているより早く訪れるのではないかとずっと恐れていた。自制心の終わりという形で。二人共十分に合意ができていればいい。でも、もし竜児だけが我慢できなくなったら……。

そんな気持ちを知ってか知らずか、大河の方は何の迷いもなく竜児の腕の中に体を預け、その度にまるでまだどこにも消えていないことを確認するように抱きしめ返してくる。

「……竜児……あのね……私ね……あんたが……」
竜児の腕の中、上気した顔で、それでもしっかりと竜児の瞳の奥を覗き込むような目で大河が何かを伝えようとする。だが、強く抱きしめあいながら体温を高めていく2人の頭を、絶妙なタイミングで冷やす救世主が現れた。

『ピンポーン』と。

慌てて離れて思わず顔を見合わす。そして同時に声を殺して笑う。

「私、ひょっとしてみのりんに助けられた?」
「バカ言ってろ」

笑顔で睨み付けて竜児が立ち上がり、『櫛枝か?』と声を掛けながら玄関に向かった。

◇ ◇ ◇ ◇

「やあやあ高須君。本日はお招きに預かり恐悦至極」
「招いてねぇよ。お前が押しかけてきたんだろ。あがれ。大河来てるぞ」

大河とのキスで火照った顔を見られたくなくて、わざとぶっきらぼうに言うと、さっと振り向いてすたすた奧へと引っ込む。

「おお、大河、大河、あんたはどうして大河なのさ。チャーハンの匂いがするな。さては2人でラブラブご飯タイムだったかい?邪魔しちゃってわるいねぇ」

みのりーん、と部屋から手を振る大河の顔が赤いのは、半分ぐらい図星だからだろう。

「ほほう。ここが高須君ちか」
「お前来るの初めてだったな」
「近所に来たことはあるんだけどね」
「そうなのか?」
「大河んちに何度もあがったべさ」
「言われてみればそうだ。ん?修学旅行の準備の時、お前覗いてなかったか?」
「こまけーことはいいんだよ。てか、高須君。話をそらすなよ」

ちっ、と大河譲りの舌打ちを飛ばしながら竜児が苦笑する。そして部屋に戻ると、ノートやら手紙やらの入ったボール箱を持ってきた。どうせなら長引かせるよりとっとと済ませた方がいい。ちなみに例のヘアピンも箱にいれていたのだが、今朝の内に取り出し済みである。

「ほら、これだ」

どさりと、実乃梨の前に置く。大河と一瞬(しゃーねーな)と視線を交わした後、立ち上がって「お茶入れるわ」とキッチンに向かう。

「こ、これが噂の……」

と、ニヤニヤ笑いを抑えきれない実乃梨に、

「ねぇみのりん、どうしても読むの」

大河が弱々しく聞く。やはり、竜児に悪いと思っているのだ。

「大河が高須君の事に申し訳ないって思う気持ちもわかるけどさ。私の乙女心も止められないのよ。かつて私の事を好きになってくれた男の子がいて、その人が書いた手紙が出されないままある。知らなければそのままだったけど、知ったからには読みたいよ。だって、こんなロマンチックなこと一生に一度あるかないかだもん」

こたえる実乃梨は茶化しなし。静かな言葉が、本心だと告げている。大河はそれでも気落ちしたように下を眺めるばかり。

「大丈夫。大河、これ読んで『やっぱり高須君がいい』なんて言わないよ」
「みのりん……」
「まぁ、逃した魚が大きかったのは確かみたいだなっす」

そう笑うと、

「おうおう、高須君。すまないねぇ、お茶まで煎れてもらって」
「少しでもすまないと思うなら今でも遅くない。あきらめろ」
「やだ」
「そうかよ」

お茶を出す竜児と言葉を交わす。大河と卓袱台の角を挟んで座った竜児は、もう何を言っても無駄といった顔で肘を突いている。 そしてその竜児に向かってパンと手を合わせた実乃梨が目をつぶって頭を下げる。

「高須君、大河、ごめん。そしてわがまま聞いてくれてありがとう。非常識なことしてるってのはわかってるんだ。でもさ、どうしても、どうしても我慢できないんだ。私、高校時代、女の子らしい出来事なんかほとんどなかったからさ」

かつては竜児のなかで、そのキラキラした笑顔、ぴょんぴょん跳ねるような動き、振り向くたびに動く髪、甘い声などによって「ザ・女の子」として神格化されていたのは実乃梨その人なのだが、今更何をいってもはじまらない。持ってけ泥棒、と思うだけである。大河も何も言えずに眉毛をハの字にして竜児を見上げるだけだ。

「櫛枝。もういいよ」
「そっか。ありがとう」

そういった実乃梨の微笑みが、場を少し暖かくする。

「じゃ、仁義も通したし、さっそく読ませてもらうか」
「はぁ?………お、おい!待てっ!」

しばし固まった後、雷に打たれたように、ほとんど一挙動で竜児が飛び上がった。今聞いた言葉が信じられないという表情で実乃梨を見下ろしている。大河は何が起きているのか分からないように目を丸くして竜児と実乃梨を交互に見ている。

「お、お前。『読ませてもらう』って何だよ!」
「え、だって『読ませて』っていったじゃない」
「ここでかよ!」
「そうだよ」

だーっ!と、うなるような声をあげて天井を見上げ竜児が髪をかきむしる。ラブレターを読む!ここでか?勘弁して欲しい、どんな仕打ちなんだ。もう十分気まずい思いをしている。なぜ、これ以上俺をいたぶるのか。俺がそんなに悪いことをしたかと天に問う。

「みのりん……それじゃ竜児が……」
「ねぇ、大河。おいらはなぜ高須君がこれを捨てずにとっておいたか、大河がなぜ捨てさせなかったかは聞かないよ。でも、聞かなくてもそれがきっと二人にとって特別な思いのこもったものだろうってことくらいはわかるさ。だから、これを持ち出したりできない」

勝手極まりない実乃梨の理屈に二人共声が出ない。竜児にいたっては部屋の中に仁王立ちしたまま電撃ショック死でもやらかしたかのように凍りついてる。ひょっとしたら死んだ方がマシだったかもしれない。これから始まるのは公開処刑に近い羞恥イベントなのだから。

「じゃ、早速失礼して開けさせてもらってと。おう、ノートやら手紙やらいっぱいだねぇ。このノートは…」
「おねがい、みのりん!ここで読むのだけは勘弁してあげて」
「いいや、もう誰もおいらをとめられねぇ。なんかすげぇ緊張してきた。ふるえるぞハート!燃え尽きるほどヒート!読むぜ高須君のノート!」

実乃梨が手に取ったノートを開く。竜児も大河もそのノートに目が釘付けになっている。

「おお、おお!これが噂の詩集かい。『櫛枝実乃梨嬢に捧ぐ』」
「せめて黙って読めよっ!!!」
「『君は春/君は風/君を見かける度に/僕の心はまぶしい春の丘を見る/君とすれ違う度に/僕の心は花びらが舞うのを見る』……お、おおおお!これおいらのことを書いてくれてるんだよね!『君』っておいらのことだよね!めっちゃ書き直ししてるじゃない。いったいどんだけ情熱ささげてくれたんだよ!なんか想像以上だ。感動だぜ高須君!思ってたよりずっと乙女心揺さぶってくれるぜ」

顔を真っ赤に上気させ、鳥肌を立てて、実乃梨が声をふるわせる。

勢いで書いた恥ずかしい詩を音読された竜児のほうは、ぎゃーっ!とひと声、天井に無音で叫ぶと、そのまま頭をかかえて羞恥に身をよじってバッタリと無音で倒れた。錯乱してなお、大家に気を遣っているのだ。景気が悪いというのに去年の四月から5000円家賃を値上げされた高須家は尋常じゃないほど大家に気を遣っている。

「竜児!しっかりして!」

倒れた竜児に大河が取りすがる。ちなみに値上げの原因は誰も知らぬことだが、この未来の嫁である。一方、竜児を一撃で倒した張本人は目の前の大騒ぎもすでに目に入らないのか、先を続ける。そのあげく、

「『君は夏/君は空/君の笑顔は/大輪のひまわり/君が笑えば/雨雲だって晴れ渡る』……うわーっ、来るよ来るよ。ハート直撃だよ。おいらこんな風に高須君の目に映ってたのかい?!」

鼻から一筋、血が流れて垂れる。

鼻血を垂らしたまま、ページをめくり次々と誌を朗読する実乃梨。かつて自分を好きでいてくれた男による暑苦しいほど自分への想いのこもった文章のオン・パレードに、本人も半ばトランス状態。にぃっと笑みを顔に張り付けたまま瞳孔をかっぴらいて貪るような顔で、ひたすら読み続ける。

いやー!やめてーっ!恥ずかしいーっ!ビクビクビクーーっ!と、耳を押さえて畳の上で体を痙攣させる竜児への正視に耐えない百叩き刑は、このあと実に2時間にわたって続いたという。

初出 : 2010年1月16日

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