クリーム・ソーダ

「竜児、あのさ、私たち本当に、け、結婚するんだよね」

ゴールデンウィークもまもなく終了の5月のある日。2合作った昼飯のチャーハンがきれいに婚約者に平らげられたことに気をよくして、鼻歌交じりに食器を洗っていた高須竜児は、思わず皿を取り落としそうになった。

レーザービームであたりをなぎ払うがごとく振り返りつつ

「何いきなり言いだすんだお前、皿…」

あげた声は尻すぼみになる。振り返ったその先の居間には、テーブルの向かいに婚約者が…逢坂大河が…ちょこんと正座して、少しうつむき加減で不安げにこちらを見上げている。さっきまで旺盛な食欲を誇示していたとは微塵も感じさせない。

高校三年生の竜児は、母親の泰子と二人で暮らしている。父親とは会ったことはない。まだ見ぬ父親は19年前16歳だった泰子を妊娠させると、そのまま消えてしまった。周囲から中絶しろと迫られた泰子はおなかの中の赤ちゃん…竜児…を守るために一人で家出し、たった一人で竜児を育ててきた。

その二人がつつましく暮らしていたぼろアパートに、去年ほとんど転がり込むように乱入してきたのが、竜児の同級生の逢坂大河だった。傲岸不遜、傍若無人のくせに甘ったれで泣き虫だった大河は瞬く間に高須家の半居候として迎え入れられ、バタバタとした季節を過ごすうちに竜児と惹かれあうようになり、とうとう結婚の約束をするにいたった。それが2月のことである。

「わかった、3分…」

待て、という言葉を竜児は飲み込む。

目の前にはすすぎを待つ皿とフライパンとスプーン。3分もあればきれいに拭き終わって水きりラックに並べることができる。だが、大河の不安げな表情がぐらぐらと頭を揺さぶる。以前にはなかったことだ。大黒柱として働く泰子になり替わり、高須家の家事を一手に取り仕切ってきた誇り高き主婦(?)である竜司は、かつてなら洗いものの途中でキッチンを離れるなど決してしなかった。が、そんな竜児のプライドもいまや風前の灯。思いつめた顔をする大河のもとに、キッチンと居間の境を飛び越えて一刻も早く駆けつけてやりたいという衝動が沸き起こる。

きれい好きのプライドと婚約者の不安げな顔の間でゆれる18歳の初夏。

そう、竜児は18歳になった。18歳になったら結婚しよう、というのが雪の聖バレンタインの日に贈ったプロポーズの言葉だった。だが、18歳の誕生日が来ても入籍はしていない。約束が反故になったわけではない。延期になっただけだ。

「うん」

わかった、と大河が返事をするのを聞いて、水仕事を続ける。

泰子の18年にわたる家出が幕を引いたことで、竜児の家庭環境は8割方問題が解決した。いまだに父親の件は泰子に聞いておらず母子家庭のままだが、それは問題ではない。泰子はオーナーの意向で昼の仕事になったし、泰子の両親から竜児の学費も必要なだけ出ることになった。これについては泰子が異を唱えたが、1秒後には竜児の祖父である精児が却下した。「育ち盛りの一人娘が急にいなくなったので、蓄えなら十分ある」らしい。竜児はたった一人の孫へ学資を援助したいと願う祖父と祖母のあたたかい気持ちを、ありがたく受け取ることにした。

問題は大河のほうだが、これは傲岸不遜、わがまま女王の手乗りタイガーこと大河が、耐えがたきを耐え、母親の家で暮らすことにして、鋭意改善中だ。プライドの高い大河が、一度は自分を捨てた母親と、その母親を自分から連れ去った男の家で暮らすのは相当抵抗があるはずだ。が、春休み明けに再び竜児の前に姿をあらわした大河は、その点について一言も愚痴をもらさない。竜児に余計な心配をかけたくないのかもしれない。が、むしろ泰子と高須の家の関係を必死で修復した竜児を見て思うところがあったのだろう。少なくとも今回の努力は無駄にならないし、しないという決意があるらしい。

そういうことなのだ。母親と関係修復をはじめたばかりなのだ。その大河が、「来月、竜児と結婚するから」と母親に言って、はいそうですかと通るわけがない。竜児が当初見落としていたことだが、未成年の結婚には親の同意が必要なのだ。その点は竜児も大河も話し合って合意の上で、「結婚は近い将来に延期」としている。具体的な日程は決めていないが、竜児は高校を卒業したら進学するにせよ就職するにせよ、双方の親の許しを得て入籍だけでもしたいと思っている。大河の意向ははっきり聞いていないが、卒業したらいっしょに住みたいとほのめかしていたので、同じ気持ちだろう。母親のほうには小出しに竜児の話をしており、二人が交際中なのはすでに知っているはずだ。8月ごろには結婚の意思があると母親に話せるように持っていきたい、と大河の口から聞いたときにはその計画性の高さに、これが俺の知っているドジっ子タイガーかと、竜児はたっぷり30秒間口が利けなかった。

だから、結婚は既定路線なのだ。

それをなぜいまさら改めて問い直すのか。無意識の動きですすぎを終え、丁寧に食器と調理器の水を切りながら考えた。わからない。昼飯の時には元気だったはずだ。あの後、何か大河を不安にさせるようなことを言っただろうか。タオルで手をぬぐい、エプロンをはずしながら考える。思い当たる節はない。いまや家族を持ったことで何かと週末も忙しい大河とも、週一で初々しいデートを重ねている。寂しくはさせているかもしれないが、ほったらかしにしているとは言えないはずだ。

「高っちゃん、群馬行きなよ、群馬。タイガー連れて行きなよ」

と、進級して別クラスになっても仲のいい春田から猛プッシュを受けた群馬は無理としても、ゴールデン・ウィーク前半は竜児が腕によりをかけた弁当を持って近所の山まで日帰りのハイキングに行った。玄関を出て帰ってくるまで二人ともニコニコしっぱなしであった。今日は久々に高須家に遊びに来た。竜児と大河は幸せの絶頂のはずである。なのに、なぜ。

この女は、時々竜児に黙って独りで不安を抱え込むことがある。嫌な予感がする。

テーブルをはさんで大河の前に座る。こぶし4個分足を開き、背筋を伸ばして正座すると、

「ああ、俺たちは結婚する。」

改めて宣言する。頬のあたりに少し熱を感じる。一方の大河は竜児のはっきりとした答えを聞いても

「うん」

と元気のない相槌を打つだけで、やはり不安そうにうつむいた。竜児の胸に黒雲がさっと広がる。何があった。なぜそんな顔をする。母親にやはり反対されているのか。心配するな、2年や3年俺は待ってやるぞ。それとも。

「…」

ごくり、と音が聞こえる勢いで竜児はつばを飲み込んだ。ほかに好きな男でもできたのか。

思い当たる節なら、ない。大河は一途な女だ。あれほど北村の名前を連呼していた大河が竜児を好きだと言ったことには初めこそ戸惑った。しかし、2回目のデートの最中、下を向きっぱなしの大河から、出会ったときからの気持ちの移り変わりを詳しく聞かされて、一切の疑問は晴れた。要するに大河も竜児も想い人がいながら、知らず知らずの内にお互いを大切な人として気持ちを育てていたのだ。断じて浮気などではない。だから、大河が自分を裏切るなど、爪の先ほども疑ってはいない。

だが、である。

大河に浮気心はなくても。

ひょっとして猛烈なアプローチを受けているのではないか。

婚約してからこっち、竜児を悩ますのは、大河に交際を求めるライバルが現れるのではないかという妄想である。そもそも大河は息を呑むほどの美少女なのだ。プロのモデルの川嶋亜美こそ参加しなかったが、昨年の校内美人コンテストでは堂々の優勝、おまけに熱狂的な一部格闘技ファンから神のようにあがめられている。事実、入学当時には行列ができかねないほどの勢いで交際申し込みがあったと聞く。それが止んだのは、手乗りタイガーの二つ名を頂戴するにいたった理不尽な怒りっぽさと、それを裏打ちする、体つきからは想像できない獰猛さなのだ。

竜児と付き合い始めて角の取れてしまった大河は、ひょっとすると単なる超絶美少女なのではないか、実は自分の知らないところで熱い交際申し込みを大量に受け取っているのではないか。つら構えのまずさに関しては人後に落ちない自信のある竜児は、こういう実につまらないことで悶々と眠れない夜を過ごすことがある。

大河を信じないわけではない。しかし、しかしだ。押しの強い美少年のプッシュが続いたならば……

「何か、あったのか」

どうしよう。そういう気持ちを飲み込んで、ようやく一言。

「ううん。何もないよ。何もないけど」

そういって、一度竜児を見上げるが、また視線を落とす。

「ひょっとして、俺と結婚することが嫌なのか」

と、内心の恐怖を抑えながら、聞きたくないことを聞いてみる。大河は驚いたように

「違う、違う!そんなんじゃない。竜児とは本当に結婚したいよ。ほんとだよ。そうじゃなくて…そんなことじゃなくて…」

と、否定するのだが、結局は言葉を濁す。とりあえず、最近とみにかわいさが増してきた、と婚約者の色眼鏡で内心絶賛している女王虎様に見限られたわけではないらしい。ほっとする。が、しかし。そうなると何を悩んでいるのだ。やはり

「反対、されてるのか」

母親に。しかし大河は違う、とこれも首を振る。お手上げだった。ひょっとして

「金が心配なのか」

と聞いてみた。高卒でろくな収入のない二人が本当に二人で生きていくなら、確かに不安があっても不思議ではない。いや、むしろ不安に感じるべきだろう。特に大河は金持ちの家で育った。2DKのアパートで育った竜児とは貧乏に対する耐性が違うはずだ。しかしその心配も

「そんなんじゃない、竜児と一緒なら、私貧乏でも平気だから」

と、うれしいことを言ってくれる。思わず目頭が熱くなるのを我慢しながら、竜児は考え込んでしまった。じゃ、何が心配なんだろうか。竜児の胸の中の疑問符は増えに増え、いまや子供を産み始めて鼠算式に増えている。なんだかわからないけど、元気を出せよ。などという気休めは、この愛らしくも気難しい手乗りタイガーには時として危険だ。そんなことは重々承知している。ここにきて、チェックメイト。打つ手無し。かけることば無し。
たっぷり一分ほど、だまって大河をみつめていた。竜児の胸の内を読んだか、大河がおずおずと視線を上げる。こういう表情の大河は本当にかわいい。

「あのね、竜児は私のこと、どう思っている?」

そんなこと。まだわからないのか、この脳みそ拳骨バカ女。と頭の中に浮かぶ前に

「好きだ。お前が居ないと気が狂いそうになることがある」

と、言い切っていた。胸の中の想いがほとばしるように口を衝いて出た。言い切ったあと、胸から頭へと猛烈に血が上ってくるのを感じる。高須竜児18歳。婚約中とはいえ、ようやく念願の彼女ができたばかり。デートの最中手をつなぐだけでもがちがちに緊張する青春真っ只中である。しかし、臆するには及ばない。見よ。正面の大河も見る見る間にミルク色の頬を真っ赤に染め、ちょこんと正座したまま居心地悪そうに、もじもじし始めた。不安をたたえていたバラ色の唇は緩んで微笑を浮かべ、左右へ揺らすまなざしは挙動不審。

「わ、私もね、竜児のこと大好きだよ。デートのあと、さよならするのが、つらいの」

などと言う。いや、俺はあの「さよなら」で毎回死にそうになっているのだが、とついつい、つらさ自慢をしそうになる自分をおさえて、その先を待つ。浮かんだ幸せそうな笑みはすぐに姿を消し、

「だけど、そうじゃなくてね。竜児は私のこと、どう思っているのかなって」

振り出しに戻った。

竜児は黙り込み、細めた目にぎらりと切るような光を浮かべる。ええい煮え切らない女だ、これだから女はだめだ。婚約など解消してやる。北村にでも拾ってもらえ。と、思っているわけではない。困っているのだ。ちなみに土下座されたって土下寝されたって北村どころか世界中の誰にも大河を渡すつもりはない。

このまままでは埒があかないので

「どう思っているって、どういうことだ」

掘り下げてみる。

「あのさ。結婚したら夫婦じゃない」

と、大河が話しにくそうに言葉を搾り出すのを、

「おう」

と、相槌を打ってやる。あたりまえのことだが、ここは言葉を飲んで黙って聞いてやる。大河はちらちらと困ったようにこちらを見ながら

「そしたらいっしょに暮らすじゃない」

と、続ける。何を言いたいのだこいつは。胸からあふれた疑問符は頭の中まで侵食し、疑問符超過で爆発しそうだ。爆発をとどめているのはただひとつ、大河の不安そうな表情だ。この女の不安を解消するまでは、脳みその爆発ごときで死ぬわけにはいかない。早く言え。言ってしまえ。そして俺にお前の不安を解消させてくれ。ゴー・アヘッド。メイク・マイ・デイ。

「その、竜児は、私のこと魅力的だって…思ってるのかな」

なにをあたりまえのことを、と思わず声をあげた。ああああ、と頭をかきむしる。

「何度も言ってるけどな、俺はお前が好きなんだよ。ぞっこんなんだよ。お前が横にいるだけで幸せなんだ俺は。お前の笑顔を見るだけでとろけそうなんだよ。お前が泣きそうな顔すると胸が裂けそうなんだよ俺は。つか、これだけ言わせてまだ足りないのかよ。どんだけわがままなんだよ。お前は魅力的かって?魅力的に決まって」

って…あれ?

と、竜児は思わず口を閉じた。大河は浴びせられる愛の言葉に顔を真っ赤にしながらも、相変わらず竜児のほうを、怖いものでも見るように見上げている。事実、今の竜児は不動明王の如き顔だがそれは置いといて。あの、ひょっとして、大河よ、人みな道を譲る手乗りタイガーよ。生徒会長に殴り込みをかけた凶状持ちよ、俺の婚約者よ、バラの唇の少女よ、

「大河、魅力ってひょっとして」

つらそうな顔をしている大河を前に、言葉が続かない。

心やさしく人一倍相手の気持ちを気遣う竜児は、特に他人の身体的特徴をあれこれ言うようなことが嫌いだ。じゃぁ、竜児はいま、いったい自分の心の中に浮かんだぼんやりしたイメージをどうあらわせばよいのだろう。

思い起こせば1年前のちょうど今ごろだった。清純姫系美少女と世間では認識されている、その性悪チワワが現れたのは。今でこそ川嶋亜美は竜児と大河の大切な友達だ(大河にとっては喧嘩友達でもある)が、現れたころには大河の導火線にむやみに近寄る火遊び常習犯であり、竜児の頭痛の種だった。思いつくだけでも、大河の前で竜児にいちゃつくは、この部屋でほとんどのしかからんばかりに迫ってくるわ。
水泳で挑発してくるわ。

水泳といえば水着を買いにいったっけ。大河は水着を買うのを嫌がったっけ。わたしもイソフラボンほしいとか言ったっけ。と、竜児は見えている結論を心の中で先延ばしにするために、無限連想ゲームをはじめた。いやだ、その話題には触れたくない。

だって大河が傷つくじゃないか。

「お前は、魅力的だ」

言い切った。本気だ。何の嘘もない。約一箇所、哀れなところがあるのは知っている。だが、それが竜児の愛を損ねたことなど真実一度もない。だからそれは

「でもね、あのね、私って、哀れなところがあるじゃない」

やっぱりそこかーっ!苦しげに顔をしかめる大河に、狂おしく目を光らせながら竜児が言い放つ。

「胸のサイズが何だ。お前は十分以上に魅力的だ。俺がそんなことを気にしていると思っているのか?というか、俺はむしろお前みたいなやつが俺みたいなチンピラ面の男と並んで歩いてくれているほうがよっぽと慈悲深いと思っているぞ。そんなに俺を信じていないのか?」

大河の不安を払ってやろうと思って口から出てきた言葉だが、だんだん怒りの口調になってきた。今日一日で何回大河のすばらしさを口にしたろう。真昼間だぞ。やっぱりおかしいだろう。ぐずぐず言いすぎだろう。お前一体どうして、と聞きかけて竜児は口をつぐむ。

大河が体を震わせている。うつむいたまま、何かを耐えるように肩を怒らせてそれとわかるように体を振るわせている。思わず、身構えた。しまった。きつく言い過ぎたか。婚約以来殴る蹴るの暴行は受けなくなったとはいえ、それはそれ。虎は虎。ひょっとしてボタンを押し間違えたか。眠れる虎を起こしてしまったかと息を呑む竜児の顔は見ずに、大河は右手の手のひらを見せてストップ!のサイン。

「ごめん、竜児。足が痺れた」

どっとため息が漏れた。

あ、あ、あ、う、う、う、あぁぁぁ、と脚を崩した大河が情けない顔をめまぐるしく変えながら苦しんでいる間に、竜児は立ち上がってお茶と、お菓子の用意をする。こういうとき、手際のよすぎるのも問題だ。お茶とお菓子を出されても、

「ありがとう」

というのが精一杯の大河は、痺れを克服するのにもう5分を要した。その間、竜児は手持無沙汰を耐えるしかなかった。

◇ ◇ ◇ ◇

痺れも収まり、お茶を飲んでようやく人心地ついた大河は、珍しくお菓子には手をつけず、湯飲みを両手で大事そうに包んだまま、話しにくそうにしている。

「竜児が私のことをす、す、好きだっていう言葉は信じてる。嘘だなんて思ってない」

ちらり、とこちらを目だけで見上げる。

「私のことを、魅力的だって言ってくれるのもうれしい。嘘だなんて思わない。でもね、」

そのね、とつなげる。竜児は黙って聞いている。

「心と体は違うのかも、って思っちゃうの」

なんだよそれ、と思ったのは一瞬。心の中に嫌な考えが浮かぶ。慌ててそれを追い払う。

「その、結婚したらね。ふ、夫婦のね。いいいい営みってのがあるじゃない」
「お、おう」

テーブルをはさんで、二人とも顔を赤らめるのは何回目か。夜になったらさぞかしぐったり疲れているだろう。

「そのときに、いくら竜児が私を愛してくれていても、その、いくら竜児の心が私を愛してくれていても、そのね、あのね…」

これ以上言わせるのは、いくらなんでもかわいそうだ。見ていられない。追い払った嫌な考えを呼び戻して、渋面のまま大河の言葉を継ぐ。

「俺の体が役に立たないかもしれない、って思うのか。お前の体が魅力的じゃないから」

うん、と大河が心配げに頷く。おいおいおい、勘弁してくれよと、竜児は天を、いや2DKの天井を仰ぐ。

あのアップダウンの激しかったバレンタインデーの夜に、自分は大河に幸せな未来を見せてやると竜の子の名にかけて誓った。その誓いに嘘はない。毎日を全力で生き、それが大河の幸せにつながるならと、どんな面倒なことでも臆せず立ち向かう意思は今も健在だし将来にわたって維持する気満々なのだ。だが、大河の身体的コンプレックスとなると、話は別だ。そもそもガールフレンドすらはじめての竜児に、婚約者の体の悩みは荷が重い。

だいたい、自分の心を100%奪い取った女に男の生理の話などしたくないのだ。だが、この場に及んでは仕方ない気もする。四面楚歌。もう、どうにでもなれという気分になる。さようなら、俺のささやかなプライド。

「心配するな、詳しいことは話したくないが、その点には微塵の心配もない」

ほんと?と、心細げに大河が見上げる。嘘偽りなし、と自分の性的健全性を自白させられた閻魔の表情で頷く。大河は消え入りそうな声で

「じゃぁ、あの、キ、キス、してくれる?」

え?

「待て」

いきなり話題を変えられたので混乱する。いや、変えられたのか?変えられたよな。うん、変えられた。

「キスしてくれないの?」
「今か」
「うん」

大河は亜美のチワワ目も裸足で逃げ出す、すがりつくような必死のまなざし。今、ここで下手な断り方をしたら、大河は失意で死ぬんじゃないかと思ってしまう。

「ま、真っ昼間だぞ!」
「それが理由?」
「そ、そうだ!」
「嘘」

つぶやく声は涙声。

「私が、魅力的じゃないから…キスしてくれないんでしょ」

ちがーうと危うく大声で叫ぶ所だった。断じて、そんな、理由ではない。

「そんなわけないじゃないか」

な、な、バカなこと言うのは止せよ。と、なだめるが、

「じゃ、なぜデートしてもキスしてくれないのよ!」

と、こちらに向けた瞳は、すでに溢れそうに潤んでいる。そう、二人は婚約者なのに、これまでキスした回数はたった3回。1回目はプロポーズ当日。2回目はその翌日。その後別れがあり、再会してひと月たつが、その間、竜児が大河にキスしたのはただの1度だ。

「私がちびで哀れ乳だから…」

とぽろぽろ涙を流し始めた大河を前に、竜児は再び天を、いや天井を仰ぎ見て嘆息する。違うんだ、大河。違うんだ。大河が足を崩したときに竜児も胡座に変えている。その胡座のままぐっと頭を下げる。

「すまん、大河。俺のせいでお前に変な誤解をさせてしまったみたいだ」

くすん、と鼻をすすりながら

「誤解?」

と竜児に聞く。

◇ ◇ ◇ ◇

ファーストキスのこと、覚えているか。うん、忘れないよ。びっくりしちゃった。

お茶をすすって、半ばやけくそ気味に腹を括った竜児は、ゆっくりとバレンタインデーの晩、駆け落ち同然に二人で逃げ出したときに思ったことを大河に語り始めた。さすがに目を合わせるのは面映い。

「俺、お前にキスした後、わめき始めたろう」
「うん。私、あんたが身投げするのかと思ってびんたしちゃった」

あのデンプシー・ロールのどこが「びんた☆」だよ、という言葉は飲み込んで

「あの時、おれ、気が狂いそうになってたんだよ」
「……」

なんで?という表情で大河は黙ったまま首をかしげる。

「俺、その、キスってあんなにすごいものだなんて思ってなくて。なんていうか、頭も心臓も焼き切れるくらい激しいのに、そのまま蕩けてしまいそうにやさしくて」

今度は大河が顔を赤らめて目をそらす番だ。ざまぁみろ。照れろ照れろ。俺にだけこんな恥ずかしい想いをさせて済むと思うなよ。

「だからさ、やばいって思ったんだよ。もう一度その場でキスしたかったけど、そんなことしたら、もう何も考えられなくなってしまう。逃げなきゃならないのに。てか、お前わかってたんじゃないの?次の晩、えらくいたぶられた気がするぞ」

というのは、竜児の祖父の家にとまった晩、竜児が畳の上に引いた「俺とお前の国境線」越しに大河様が投げてくださった、いたぶりの甘い言葉を指している。

「そのときは、そう思ってたよ。竜児は私のことを思って我慢してくれてるんだって、でも」

どうしてその後もだめなの?という疑問は実にごもっとも。ごもっともとは思うのだが竜児には竜児の理由がある。

「その、今でも怖ぇんだよ。お前とキスすると。なんと言うか、気持ちよすぎて」

ええと、大河ってどんな肌の色だっけ。そう思ってしまうほど、大河は顔に血を昇らせて真っ赤になってうつむいている。竜児は言葉を継ぐ。

「悪いとは思ってる。もっとお前にキスしてやりたいし。俺もキスしたいし。その。お前のこと好きだから。でも、やっぱ怖ぇってのがある。キスしてると、夢中になって、お前に溺れちまって、お前をめちゃめちゃにしてしまいそうな気がする。怖ぇんだよ」

すまねぇ、とつぶやく竜児も大河同様うつむいて。目なんかあわせられない。しんと静まった2DKの静寂の中で、大河が身を硬くしたままぽつりと言う。

「い、いいよ。めちゃめちゃにして」

うっ、と喉がつっかえたまま、竜児は目をむく。脳みそは爆沸状態。頭の中が大河のイメージでいっぱいになる。思考の自由が利かない。初めて部屋に入ったとき、ベッドの上で二度寝していた大河。他人んちに来て図々しくも夜中まで畳の上で眠りこけていた大河。夜、竜児一人に水着を見せた大河。大河が巻いてくれたマフラーの甘い匂い。ミルクを溶かしたような頬、ばら色の唇、豊かな髪、びっくりするほど細い腰、つかめば折れてしまいそうな手首。なんだって?めちゃめちゃにしていいって?だめだだめだだめだ。

「だって、私、竜児のフィ、フィアンセだもん」

よく言えました、じゃねぇ。だめだーっ! 必死の想いで肺の底の空気まで吐ききり、新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。酸素だ、酸素を頭によこせ。俺の体がこの女をめちゃめちゃにする前に頭をはっきりさせてくれ。しかし大河は目を瞑って必死の表情。

「竜児にだったら、何されてもいいよ」
「だめだっ」

ほとんど叫ぶように言い放った。大河がびっくりした顔でこちらを見ている。

「大河、もうひとつお前に謝んなきゃいけないことがある。俺が勝手に決めたことだ。卒業するまで、お前を抱かない」

搾り出すように言ったその言葉が部屋の隅々に染み渡る、無言の間があった。ようやく、大河が小さな声で

「どうして」

と、聞く。

「お前に、泰子の二の舞をさせたくない」

言った。できれば言いたくなかった。竜児としても複雑な心情なのだ。つい3ヶ月前、いろいろごたごたしたときに、この件で泰子を傷つけた。何だかんだと丸くは収まっているが、それでも泰子は自分をこんなに早く産まなければ、やはりもっと楽な人生だったのだろうと思う。

「竜児。あんた、まだそんな…」
「違う!」

と、今度は竜児が手で「待て」のサイン。

「俺は生まれて来たのが間違いなんて思ってねぇ。金輪際そんなことは思わねぇ。そうじゃなくて、俺はお前が、その、俺の子供を産むなら俺がちゃんと養えるようになってからとか…」

喉が渇く。口の中がからからだ。あえぐように言葉を切る。一方の大河はもう限界まで顔を赤くして声まで裏返して

「じゃ、じゃぁ、ひひひ避妊すれば大丈夫だと思うよ」

などとのたまう。だーかーらー、と竜児も今や吐血せんばかりの表情。

「わかってくれよ、俺はきっとお前を抱けば、もうまっしぐらだよ。落ちていくよ。前後見境なくなっちまうよ。わかるんだよ。だから、な、察してくれよ。俺だって苦しいんだよ。あーっ畜生」

錯乱したかのように頭をかきむしる竜児をじっと見つめたあと、大河はうつむきながらしばらくの沈黙。外で聞こえる町の音が遠い世界のそれのよう。窓からは心地よい風。

「そんなに。そんなに大事にしてくれてるんだね」

くすりと大河が微笑む。

「わかってくれよ」

お前より大事なものなんてこの世にねえよ。と、うなだれる竜児はすでにぐったりと疲れきって。それを見ながら大河は

「ばっかみたい、私そんなに弱い女じゃないのに」

と、口ばっかり強がりで、うつむきがちのその笑みは、とても幸せそう。

「わかった、竜児。ごめんね、わがまま言って」
「お、おう、わかってくれたか。俺のほうも勝手にあれこれ考えて心配」

させたな。って、お前何してる。竜児の心をとろかすような笑顔ではにかみながら立ち上がると、ふわふわスカートを翻して方向転換。大河はテーブルを回りこんで竜児の右にちょこんと正座。そんなことするとまた痺れますよ、と言うまもなく、とん、と頭を竜児の腕に預けてきた。当然ながら、細いからだも心もち押し付け気味で。当の竜児は牢に居るはずの囚人が自分の隣に居るのを見つけた獄吏の表情で

「……なんのつもりだ」

というのが精いっぱい。いったい何の話を聞いていたのか。心臓は8ビート。そんな竜児にささやくように

「……練習」

大河が応える。

「何の」

ため息をつくような声で

「……スキンシップ」

竜児の顔を見上げた大河は、羞恥に頬を染めながら、くすくすと悪戯っぽく笑う。顔を隠すように竜児の腕にこすりつけると

「だって竜児が早く慣れてくれないと、キスしてもらえないもん」

と。そして小さな声で

「大好き」

と、そえる。しばし横目で見つめた後

「俺も好きだ」

とささやく竜児の声が聞こえているのやらいないのやら。

「竜児は優しいから好き。いっしょに居ると苦しくないから好き。」

お前だって、優しい奴じゃないか。

「でも、独りで全部抱えこんでいるみたいで、時々、急に不安になっちゃう」

と、言ったのは独り言か。小さな体が寄りかかった腕をゆっくり後ろに回し、肩を抱いてやる。

「……」

小さな声にならない吐息がすぐ傍で漏れるを聞く。

全部抱え込んでいた優しい奴は、お前の方じゃないか。知り合って、馴れ合って、泣いて、転げまわって、今はこうして二人で体を寄せ合っている。しみじみ幸せだと思う。
体を引き寄せられた大河が、

「竜児」

と、小さな声でつぶやく。

「おう」

なんだ、と応えてやる。かすれるような、だけど幸せそうな声で

「なんでもない」

と一言。もう少し抱き寄せると、押し付けていた顔を持ち上げ、上目遣いで見る。表情はちょっと予想と違って、ほんの少し挑戦的というか、女王虎の威厳みたいなものをたたえていて、それでいて優しげに淡く微笑んで。大河は時々こんな表情で竜児を見上げる。大河にも言っていないが、一番好きな表情のひとつ。

もう少し引き寄せて、顔を近づける。瞳を閉じる大河の上気した頬にキスしてやると、切なげな吐息を漏らす。少し離れて微笑を交わし、今度はばらの蕾の唇にキス。柔らかくて、はかなげで、壊してしまいそうなのが怖い。唇から流れ込むとろけるような感情に頭を焼かれる。ゆっくりと離れると、大河も閉じていた目をゆっくりと開き、夢見るようなまなざしで、唇を両手で覆い、

「キス、してもらっちゃった」

と、照れ隠しに悪戯っぽく微笑む。

「おう」

と優しく返事をしてやり、もう一度唇を寄せると、今度は大河も竜児の首に手を回してくる。

「竜児…好き…んん…声が出ちゃう」

恥らう大河に何度も唇を重ねる。大河とキスをして、はじめて「唇を吸う」ということがわかった。もっと強く結ばれたい。もっと大河を知りたい。そういう想いが竜児を駆り立てて、大河の甘い唇を何度も、何度も、吸わせる。

「ああ…」

深いため息をついて、大河の体から力が抜けていく。そのままずり落ちそうになるのを、やさしく支えてやる。

「竜児、私、フラフラだよ…あっ」

拒むひまも有らばこそ、小柄な体を両手で引き上げ、そのままくるっと180度。すとん、と落とすのはあぐらをかいた竜児の右の太もも。
ぺたん、と横座りさせられた自分を見下ろして、顔を上げるとすぐ傍には竜児の顔。いつもの並んで歩く位置関係よりぐっと近い距離にさっと頬を赤らめてうつむく。

「重いでしょ」
「いや、ぜんぜん。この方が、大河がよく見える」
「もう」

怒ったような顔を作ってみせて、大河はそのまま竜児の肩口に顔をうずめる。しがみついてきた小柄な体を強く抱きしめてやる。折れそうな体は熱く火照っていて、

「ああ…嬉しい」

と声を漏らす。

「大河」

と耳元でささやき声。

「何?」
「好きだ」

ちょっと間があって

「私も。大好き」

と顔をうずめたまま。

「竜児、あのね」
「おう」
「私もね、キスすると頭の中が真っ白になっちゃう」

微笑んでいるのだろう。

「そうか」

と、一言。だからね、と大河は続けて

「竜児も同じだってわかって、嬉しい」

最後はかすれるような、喜びを含んだ声で。ようやく顔を起こした大河と見詰め合って微笑を交わす。ガラス細工のようなあごのあたりのラインにそっと手を触れて柔らかな肌の感触を確かめる。竜児の手に目をやり、もう一度竜児の顔にまなざしを戻した大河に

「きれいだ」

と。

見る見る間に顔が赤くなって、それでも小さな声を漏らすことしかできない大河を抱き寄せて、もう一度キス。そしてキス。何度も何度も唇を重ねて。跳ね上がりっぱなしの心拍数にのぼせながら、そのまま大河へのあふれるような想いの中に溶けていきそうな自分の心にのままに、今日は今までより少しだけ勇気を出す。大河の様子を唇ではかりながら。ほんの少し舌を。

「!」

ピクリ、と腕の中の小さな体が跳ねるが、抵抗はしない。自信をつけて、そのままそっとバラの唇の間へと舌を伸ばす。小さな歯を確かめ、ノックをするように舌で軽く押す。おずおずと開く歯の間に舌をすっと差し込んでいくと、あった。口の奥のほうで、こわごわと縮まっている。大河のそれが。

大丈夫、怖くないから、というように優しく触れてやる。さぁ、出ておいで。おずおずと出てきた大河のそれは、柔らかくて、ちいさくて、熱くて。怖がりの女の子のようで。まるで大河自身のよう。やがて大河の舌も竜児の舌を確かめるように伸びてきて。重ね合わせて、絡めあって、互いの気持ちを確かめ合う。

正しいキスの仕方なのかなんて、わからない。でも、今までよりもまたひとつ、二人は近ずくことが出来た。熱いキスは、息が切れるまで続く。

「はぁ、竜児……」
「大河……」
「私、もうだめ……」

視線の定まらない大河は、本当に熱に浮かされたよう。竜児の首に回した腕からも力が抜ける。崩れ落ちそうな体を抱きしめて

「わかった、少し休め」

と優しくささやく。大河は

「うん」

と、耳元で弱々しい返事。

ゴールデン・ウィークも残すところ2日となった、さわやかなある日の午後。2DKの安アパートの一角。はたから見れば父親が娘を抱きしめているように見えなくも無いが、そんなことはどうでもいい。他人からどう見えようが、どうでもいい。今はただ、互いの体温を感じながら、そっと息を潜めて、二人抱きしめあうだけ。

◇ ◇ ◇ ◇

ずっと抱きしめあっていたくても、タイムアウトは必ず来る。それが現実。夕方になれば、他所様の嫁入り前の娘さんである大河は、自分の家に帰らなければならない。それが現実。でも大丈夫。やがて二人は結ばれるのだから。だから今は元気を出そう。から元気でもいい。そしてから元気といえば大河は、

「ああ、いい天気。竜児、私おなかすいちゃった!」

と、自分のからっぽのおなかを恥じらいもなく喧伝する。人通りもあるってのに。

「まったくお前はよう。また太るぞ」

と、ちょっと牽制。

「なによ、大丈夫だって。ママがちゃんと栄養管理してくれてるもん」

と、大きく腕を振って元気に歩く大河を見ながら、果たして大河の家族はこの大飯ぐらいのことを、どう考えているのだろうかと心配になる。恋人としてちゃんと挨拶が終わったら、そこのところを一度じっくりと、未来の義理の母に伺ってみたいものだ。などと考えていると

「ねえ竜児、何か食べようよ」

と、焦れた大河が腕をつかんで揺さぶる。

「わかったわかった。じゃ、夕飯前だからな。飲みものにしておけ。喫茶店どうだ?スドバ行くか?」
「うん、スドバ行こう!」

夕食の準備の時間とはいえ、さすがはゴールデンウィーク。商店街もいつもより人通りはまばらで、大声をあげてきゃっきゃと喜ぶ大河に眉をひそめる人も居ない。いつもどおり、バイトのお姉さんの

「スドーバックスへようこそ!」

と、今にも訴えられそうな声に迎えられて入る須藤コーヒー・スタンドバーも、余裕でテーブル席に座ることができる。

「私、クリーム・ソーダ。竜児は?」

ソファに座ってメニューを教科書のように立てて嬉しそうに聞く大河を見ながら、

「飲み物にしろって言ったろう。俺、アイスコーヒー」

と、仁王様の顔でやや説教口調。

「なによ、クリーム・ソーダだって飲み物なのよ。ちゃんとストローついてるもん」

と大河が屁理屈をこねる間に、竜児はお姉さんにクリーム・ソーダとアイス・コーヒーを注文。

ソーダとコーヒーが来るまで少しある。でも退屈なんかしない。だって二人でいるのだから。とりとめも無い話をして、話が途切れたら微笑みあって、冗談を言いあって。今は週に一度しかデートできなくても、やがてはこうして毎日いっしょに居られる。そう考えれば、寂しくなんか無い。

◇ ◇ ◇ ◇

「ところでさ、何でいきなり、あんな話はじめたんだ?」
「ん?、ああ、あれね」

大河は困ったように苦笑い。

「お前、ちょっと前まで元気に昼飯食ってたじゃねぇか」
「うん、時々ぐじぐじ考えてたんだけどさ、いつもは忘れてるの。それが竜児の水仕事する背中を見てたら、やっちゃんの事思い出しちゃって」
「泰子?」
「そ。ほら、去年のプールの頃にベローンて」
「べローンって…、ああ、あれか」

竜児は思わず片手で顔を覆う。昨年の哀れ乳事件のあと、大河が乳に興味があると勘違いした泰子が、やおらFカップ巨乳を大河に見せたことがある。そういえばあのとき、自分は台所に立っていたような覚えがある。大河自身トラウマだといってはいたが

「とんだPSTDだ」

笑うしかない。

そんなたわいない会話を交わすうちに、飲み物が届く。ようやく届けられたクリーム・ソーダを前に喜色満面の大河は、ふと悪戯を思いついたような顔。

「ね、竜児。ストロー貸して」
「え、なんだよ」
「いいから貸してよ」

と、手を伸ばす。汚すなよ。と、しぶしぶ自分のアイスコーヒーからストローを抜いて渡すと、大河はそれをクリーム・ソーダに挿し、今にも笑い出しそうな顔で

「じゃーん!」

と、自らの発明になるストロー二本挿しのソーダをテーブルの真中に押しやる。エメラルド・グリーンとクリーム・ホワイトのそれはもう、どこからどうみても恋人同士が仲良くちゅーっとやる、アレで。

「って、お前」

と、竜児は真っ赤な顔で思わずうつむく。前髪をいじりながら、

「これ、本気かよ」

と、あたりをはばかるような小声。くくく、と小鳩のように笑いながら

「本気本気」

と同じく赤面の大河はやる気満々。

「しょうがねえな、一回だけだぞ」

と、いいつつも竜児のほうもまんざらでもない。二人でちょっと視線を交わして身を乗り出すと、テーブルの真ん中のソーダを仲良くストローで吸う。口に広がる甘みは、ソーダの味か、恋の味か。間近にある大河の瞳を見つめながら、夢のように甘い時間に酔い痴れる。ゆっくりと席に腰を落として、二人とも思わず照れ笑い。

そして大河が、どう?と首をかしげるのと、台風のようなため息が傍らで起きるのが同時だった。
思わず首がねじ切れる勢いで横を向く。すぐ横の窓際のカウンターにいつの間にやらズラリと並んでいるのは、見慣れた顔、顔、顔。

「ひょーえーっ!高っちゃん、いつもタイガーとこんなあちちなの?いつもあちちなの?」
「てか、信じられないんですけど。喫茶店だよ、町の中だよ、ありえなくね?」
「うふふ、タイガーったら積極的♪」
「お前達、幸せなのは結構だが場所をわきまえろ。俺はもう暑くて死にそうだぞ」

と、脱ぎ始めた裸族の男の横で、ひときわ不機嫌そうに背中を向けていた少女が振り返る。うぜぇ、といわんばかりのその口元からは

「あら逢坂さんこんにちは。こんな昼間っから発情期お疲れ様ね」

と、滴るような毒の言葉。そして最後に控えしは。こんがり小麦色に日焼けしたその少女は、両足を開いて喫茶店の窓際にすくっと立っていた。そして目元を片手で押えて天井を仰ぎながら、

「高須君、私はこんなことをさせるために大河を君に譲ったわけじゃないのだよ」

と、突き出した携帯で写真をパシャり。あうあうあう、と言葉も出せずに凍り付いていた竜児がやっと

「撮るなよ!」

と搾り出した一言に、

「遅ぇよ!」

と、全員が突っ込む。

「いやー、高須君。さっきからこれで3枚目なんだが、キミ達ぜんぜん気付かなかったのかい?」

と問われて、竜児は大河を振り返る。大河もふるふると顔を左右に振るばかり。ぜんぜん気付かなかった。

「てか、店に入ってくるときに手を振ったんですけどぉ。二人ともガン無視だしぃ」
「あーあ、亜美ちゃんやってらんない。どうしてくれるの?この疲労感。どうしてくれるの?もうゴールデンウィークの貴重な一日を返せって感じ」
「ねぇねぇ高っちゃん、群馬行った?タイガー連れて行った?」
「なあ逢坂、泰子さんのべローンって、何だ?」

襲いくる波状攻撃に耐え切れず、重力が増大するがごとく、顔をうつむける。横目で見ると、大河も目を白黒させている。まもなく終わるゴールデンウィークの後に始まる恥辱の日々の予感に押しつぶされそうなのだろう。
しかたがない。

「大河」

と、こちらを向かせ、

「逃げろっ」

と、一声。言い終わるが早いか、大河が立ち上がって、脱兎のごとく飛び出す。竜児のほうもそれに劣らぬ早業。神速の財布さばきで1300円を抜き出してテーブルの上に置く。ほとんど飲んでいないソーダと手付かずのコーヒーに罪悪感をあぶられながら、

「お勘定、ここに置きます!」

ここまでわずか3秒。烏合の衆の友人達が反応する前に飛び出して、店の出口へ。最後に聞いたのは、この期に及んで

「走るな!」

と生徒会長風を吹かせる親友の声。店を出て、いきなりばったり、もうひとつ見知った(かわいくない)顔が現れる。

「よう、高須。大先生たち中にいる?」
「おうっ、能登。悪い。追われてるんだ!」
「追われてる?」

左右を見る。左30メートルに大河。手をふっている。事態を理解できない能登に「またな!」と声をかけて全力で走り出すと、大河もさっと左に走り出して交差点の影に隠れる。交差点にたどりついて左を見ると、10メートルほど先で大河がその場駆け足をしながら待っている。

「大河、そこでストップ!」

不思議そうな顔をする大河のところまで走り、そのままわき道に連れ込んだ。そっと頭を出して追っ手を探すが、姿はない。能登と待ち合わせなら追ってはこないだろう。そもそも、追いかけるほどのものでもないか。と、安心したところで、はーっと大きく息を吐く。
一息ついて、現実認識の波に襲われたのか、大河が頭を押えて泣きそうな顔になる。

「どうしよう。私どんな顔して学校にいけばいいの?」
「心配するな、どーんと気持ちを大きく持て」

と、頭に手を載せて元気付けてやるが、大河は恨めしそうな顔をするばかり。そんな顔をしても知るか。そもそも自業自得だ。と、凄みのある笑みを浮かべたところで携帯のバイブレーターが知らせるのはメールの着信。

「っと」
「誰?」

ま、一人しかいないだろう、と携帯を見ると、ご名答。櫛枝実乃梨から一通着信。受信して、大河に文面を見せる。

『逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ』

頭を抱えたまま情けない声を出してうずくまる大河はほっといて、竜児は添付された写真を開く。

一枚目はストローで仲良くソーダを飲んでいる写真。角度のせいで竜児の顔はほとんど見えないが、くすぐったそうに微笑みながらソーダを飲む大河は本当にかわいくて

「こりゃ、なんとしても流出は阻止しないと」

本気で大河略奪に走るやつが現れかねないな、と薄く笑いながら独りごちる。

二枚目は飲み終わった後。こちらは大河だけのアップ。頬を羞恥とよろこびでほんのり赤く染めて、ばら色の唇にはかすかな微笑み。心持ち上目遣いに竜児を見つめる瞳はあくまで優しい。まるでフランス人形に命を吹き込んだようなその写真は、お宝ゲッター櫛枝実乃梨としても会心の一枚だろう。

「大河、いつまでもしゃがんでないで歩くぞ」

と促して、ダダをこねる大河をなだめながら歩かせる。大河を帰したら、すぐに実乃梨に電話をしなければ、と竜児は思う。まず写真の流出を止める。引き換えに何を要求されるのやら。こういうときの実乃梨は、なんとなくノリのいい意地悪をしかけてきそうな気がする。バイト先のラーメン10杯くらいで勘弁してくれるだろうか。ま、貧乏なのは、とっくにばれているし手加減はしてくれるだろう。ラーメンで済むなら大河も連れて食いにいこう。

それから、オリジナルの写真をもらわなければ。メールに添付されてきた写真は縮小したものだ。これはこれで待ち受け画面に使わせてもらうが、大きいほうもぜひいただきたい。とくに2枚目。

精緻な人形のように美しい大河のあの微笑を、プリントして写真立てに入れて机に飾ろう。泰子にも自慢してやる。大河と並んで歩きながら、きちんと片付けられた机の上の彼女の写真を思い浮かべる。ふ、と笑みが漏れるのを押えきれない。

さわやかな5月のある日。まだ夕暮れというには早い時間。今日も一日幸せだ。

が、しかし。婚約者の精神的ケアを怠ったのは、痛恨のミス。

「竜児、竜児ったら!何ニヤニヤしてるのよ、このキモ犬っ!」

鈍い音を立てて大河のエルボーがわき腹に突き刺さる。

「おぅっ………つー、お前なぁっ!」

青空に覆われた街に、二人の元気な声が響き渡る。

日も、だいぶ長くなってきた。

(クリーム・ソーダ 完)

 あとがき

「とらドラ!」初SS。これまでまともなSSなんか書いたことなどないまま、読後の興奮に任せて一気に書き終えました。まだ、「『とらドラ!』にはカタルシスが足りない。ベタベタしないからみんな物足りないんだ」と思っていた頃の作品。

独立した作品として書いたのですが、評価が良かったのに気をよくして、続編となる「天気がいいからピクニックに行こう」を書くことになりました。

初出 : 2009年4月8日

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