Sundays, October 2/4

10月2回目の日曜日、大河は泰子の出勤の直前に現れた。

「やっちゃん、おはよう」
「大河ちゃん、おはよう。今日もかわいい!」

いつもどおりの挨拶を交わした後、

「今日はどこにお出かけするの?」
「んーん。今日は出かけない。二人でおうちに居る」
「そうなんだ。じゃぁ、ゆっくりしてってね」

と、言い残して泰子は出かけていった。

相変わらず、年頃の一人息子と他所様の嫁入り前の娘さんを二人っきりにする事に、こっちがあきれるほど鷹揚だ。社会的には無責任の域に達しているが、泰子のことだから「いっそ間違いでも起こして、さっさと竜児が責任をとればいい」位のことは考えていそうで恐ろしい。そうなったら、泰子は二人の面倒を自分で見ると言い出すだろう。それじゃだめだ。自分達の目指す未来はそんな形じゃない。

大河は勉強道具を持ってきていた。

「竜児、宿題教えて」
「いいぞ、俺がお前に教えることが、まだあるかどうかは知らないけどな」
「何それ。カンフー映画か何か?」
「いや、そんなんじゃないけど」
「何かの冗談かとおもっちゃった」
「何だよ、俺がいつも冗談言ってるみたいじゃねぇか」
「あんたがまじめなこと言ってくれたこと、有ったかしら」

テーブルの上に広げたノートから顔を上げて大河が笑う。

そうだ、自分達にほしいのはこういう笑顔だ。と、竜児は思う。

遊園地やテレビで無理に笑うのではなく、二人で一緒に居て自然に笑う。そういう時間が、今はできるだけほしい。先週与えられた無力感は今も竜児を苛んでいる。が、落ち込んでばかりいられない。これからどうするか真剣に考えるために、今はこうして大河と二人で笑って、早く立ち直ろう。

「竜児、この問題だけど、解き方これであってる?」

大河が半分まで進めた問題を見せる。

「見せてみろ…ああ、それでいいはずだぞ」
「じゃ、続けてみるね」
「あ、違うかも。わりぃ、違う方法だわ」
「何それ、ひどい。私の時間を返して!」
「返してって、30秒くらいじゃねぇか」
「かわいそうな私の30秒。どうしてくれるのよ」

宿題を教えてほしい、と言う割には、自分一人で解けそうな問題を大河はいろいろと竜児に聞いてきた。解き方をたずねると言うより、自分が考えている方法を竜児がどう思っているかたずねるように。二人で問題を解くのを楽しんでいるようにも思える。せっかくの切り札「兄貴ノート」も、今日は出番が無い。

宿題はたちまち片付き、余勢をかって受験勉強に突入。大河が持ってきた文系向けの数学の問題集を二人でどんどんやっつけていく。

二人で問題を解くことが楽しかった。

一人で数学の問題を解くより、二人で考えを出し合って解くほうが楽しかった。一人で解ける問題でも、お互いがその問題をどう思っているか話し合うことが楽しかった。大河はきっとそれを教えたくて宿題を持ってきたのだ。などと考えるのは、いくらなんでもうがちすぎだろう。それでも、竜児はこうして二人で数学の問題を解くことの楽しさが、人生のほかの問題にもつながればいいのに、と思ってしまう。

「さて、今日はおしまい。ご協力ありがとうございまーす」

大きく伸びをしながら大河が言う。

「竜児は何かわからないとこないの?英語なら私でも教えて上げられるかも」

「わからないとこ?ああ、あるぞ。仮定法ってなんだよあれ。わけわからねぇ」

「何よ、今ごろそんなこと言ってるわけ?教えてあげるから参考書持ってきなさいよ」

大河がぷっと膨れる。

「って、お前。いきなりなんでそんな怖い顔するんだよ」
「あんただって数学教えているときは鬼みたいな顔してるわよ」
「これは骨格がそうなってるんだ」
「だったらせめて優しい心で教えてよ。私あんたの横で震えながら聞いていたわよ」
「うそつけ!」

笑いながら勉強机から参考書を持ってくる。引ったくるように奪って大河が文法のページを開く。

「いい?ちゃんと聞いててよね。文法なんて簡単なんだから」
「はいはい」

文法と例文の暗記が竜児にできないはずは無いと力説する大河の横で、竜児はいつのまにか大河の小さな手を追っかけている。きれいな爪がついたほっそりした指が、参考書の上を踊るのに、しばし心を奪われる。バレンタインデーの頃は、この手が自分の手をすり抜けて消えていくのではないかと恐れていた。その恐れが愛だと気付くまで、ほんの少し時間がかかった。

「ちょっと、竜児!聞いてんの?」

いきなり後頭部をガンと殴られた。

「いってーな。何すんだよ」
「そっちこそ何してんのよ。さっきからニヤニヤしながら私の手ばっかり見ちゃってさ。まさか私の手でエロイ妄想繰り広げてたんじゃないでしょうね。ひょっとして手フェチ?やだ怖い」
「怖い顔するなって言ったのはおまえだろ!それに俺は手フェチじゃない!」
「どうかしら。竜児はタオルとか風呂敷とか普通の高校生が目もくれないものにお熱だから、エロイ趣味だってどれだけ変態なのかわかったものじゃないわ。この手フェチ犬!私の手を視線で犯すのはやめてよね」

そういって恨めしげな顔を作って、自分の両手のひらを竜児から遠ざける。機嫌が良くなってきた竜児が冗談を飛ばす。

「心配するな、俺は手フェチじゃない。あえて言えばお前フェチだ」
「へ?」

恨めしげな顔が一瞬で赤らむ。

「何よ」

と、顔をそらしながら、続けて

「変なこと言わないでよ。あーあ。せっかく英語教えてあげようと思ったのに竜児がエロイからぜんぜん進まないわ。ねぇ、私おなかすいちゃった、竜児チャーハン!」

と、出し抜けにチャーハン攻撃を開始する。時計を見ると11時半。ちょうどいい時間だ。

「はいはいわかりました。じゃ、飯の用意するから片付けて待っててくれ」

苦笑しながらそう言うと、英語の参考書を取り上げて机に戻す。

チャーハンぐらい気楽な料理は無い。たまねぎと卵と、ベーコン、それに気分と冷蔵庫の中身と相談して適当な野菜をぶち込むだけ。出汁はいつも冷蔵庫に作り置きがある。緊急事態が起きても直ちに腹を膨らまることができる料理、それがチャーハンだ。

だが今日は少し事情が違う。いとしの大河様たっての願いとあらば、男竜児、腕によりをかけてやらいでか。特別に美味いチャーハンを作ってやるつもりだ。

「大河、今日は海老チャーハンだぞ。ぷりぷりの海老に腰を抜かすな」

誰に向けるとも無くニヤリと悪辣な笑いを浮かべた竜児に、いつのまにか横に立っていた大河が声をかける。

「いらない」
「なに?!」

思わず斬るような視線で大河をにらみつける。俺の飯が食えないのか、と、思っているのだ。さっきは食べたいと言ったくせに。

「海老はいらない。ごめん、この前言っておけばよかった。私チャーハンが食べたい。竜児が私に初めて作ってくれたチャーハンが食べたい」

黒いサマーセータにデニムのパンツ。昼なお暗い安アパートのキッチンに似つかわしくないほど愛らしい大河が、心持首をかしげてちょっとだけ弱々しい微笑みを浮かべて竜児を見上げている。

ほんの少し、二人は見詰め合う。

「ごめん、いまさらMOTTAINAIよね。わかった。海老チャーハンでいい。じゃない。私海老チャーハン食べたい」
「待て」

と、今度は竜児が制する。

「今日の俺は50%やさしさ増量中だ、作ってやろうじゃねぇか、あのチャーハンを。ありゃあ確か、カブを入れてたな。有るぞ、冷蔵庫に」
「え、でも」
「いいんだよ。お前からわがままをとったら何が残るんだ。聞いてやるよ、そのわがまま」

竜児が楽しそうに笑いながら、手早く調理道具を並べる。

「海老がMOTTAINAI」
「そっちかよ!海老の心配はするな。結構いい海老だから食わせてやれないのは残念だが、俺と泰子で明日の朝おいしくいただくぜ」
「なによ、それ。海老食べさせてくれないの?どうしよう、海老チャーハン食べたくなっちゃった。って、だいたい私わがままなんか言ったこと無いじゃない」

あはははは!と竜児がキッチンの蛍光灯に向かって爆笑する。

「今年聞いた一番面白い冗談だ。残念だったな。来年の4月1日までとっておけば、町じゅうを笑いの渦に巻き込めたぜ」
「ひどいこと言っちゃって。ねぇ、竜児。私、海老チャーハンも食べたい」

パーカーの裾をつかんで引っ張る大河に、竜児がぷっと噴き出して

「どんだけわがままなんだよ。いいだろう。それは俺への挑戦と見たぜ。カブチャーハンと海老チャーハン、どっちも作ってやる。首を洗って待ってな」

まな板を洗いながら楽しそうに言う。気分が乗ってきた。

「やった!じゃ、私ここで見てるね」

嬉しそうに見上げる大河の視線を感じつつ、

「おう、調理の手さばきまで見たいとは。舌だけじゃなく目まで肥えた客だぜ」

竜児が笑う。

水を切ったまな板に、第一の犠牲者、たまねぎを置く。

「その前にだ」

竜児は手をぬぐってエプロンをはずす。

「油だの水だの飛ぶからな、ほら、バンザイしてみろ」
「ばんざーい」

サマーセーターの上からエプロンを着せてやる、おとなしくしている大河の髪をエプロンの後ろのひもから取り出す。

「竜児はエプロンいいの?」
「大丈夫だ。油なんざ怖くねぇ。俺は今、かつて無い挑戦に燃えているぜ」

と、心底嬉しそうに包丁を手にする。

「ふーん、竜児は料理萌えだもんね」
「いま、なんか違う意味で言わなかったか」

二人とも、笑いながら軽口を叩き合う。大河の目の前でたまねぎ、にんじん、カブ、ベーコン、あさつきが瞬く間にみじん切りにされていく。

「お前に作ってやった奴はあまりものだけで作ったな」
「そうだっけ、すごくおいしかったよ」

大河がにこにこする。

「お前、腹すかせてたもんなぁ」

竜児が微笑む。

野菜を刻んでいる最中に暖め始めたフライパンが、ベストのタイミングで白い煙を上げる。放り込んだたまねぎとベーコンがいい音を立てる。火が通っていい具合になったところで、いったん容器に保存。

今度は少し多めに油を入れて、薄く煙が出るのを待ちつつ卵を溶く。溶いた卵を油に流す。じゅっ!と音を上げて膨らみ始める卵をさっと油と絡め、固まる前に冷えたご飯を半分投入。

固まっていたご飯は竜児のお玉さばきの前にたちまち屈服し、おとなしく卵と絡まって金色に染まっていく。荒事は苦手なくせに家事に使う筋肉ばかり妙にたくましい竜児が、こればっかりは大河も苦笑するほど凶悪な笑みを浮かべて鍋を振り、ご飯を返す。

料理をする竜児の姿は堂に入っている。

「料理してる竜児は、何度見ても惚れ惚れするわ」

皮肉無しに、大河が感心する。

「惚れ直したか」

と、竜児がニヤリ。

「うん」

と、大河は嬉しそう。

流れるような手つきでチャーハンを作る竜児を見ながら、すこし小さな声で大河がつぶやく。

「私、竜児のチャーハン覚えたいな。できるかな」
「できるさ」
「でも、私ドジだし」
「俺が教えてやる」

具が放り込まれ、オイスターソースをはじめとする調味料と混ぜられていく。

「私、覚えが悪いよ」
「何度でも教えてやる。料理は繰り返しだ。繰り返せば、誰でも作れるようになる」
「竜児みたいに手早く作れない」

最後に香りつけのしょうゆとごま油を垂らしてひと混ぜ。

「ゆっくり作ればいい」

いい香りが立ちのぼってきたところで、ガチャンと火を消しながら

「俺、大河の作ったチャーハン食いたいよ」

大河のほうを見ずに、竜児が言う。

出来上がったチャーハンを器によそう。

「じゃぁ、私頑張る」

大河が頬を赤らめる。

優しい笑顔でちょっとだけ大河をみて、竜児が

「よっしゃ、一丁あがり。先に食っててくれ。海老チャーハン作るからよ」

チャーハンと中華スープをテーブルに運ぶ。

「いっしょに食べる。私待ってるから」
「馬鹿言うな。作り立てが一番美味いんだぞ。まだわからねぇのか」

鬼のような形相で大河を睨み付けるのだが、

「竜児と食べるのが一番おいしいのよ。知らないでしょ」
「知らねぇよ」

と、苦笑い。

「つーか、俺の苦労を無駄にするな。ほら、暖かいうちに食え」
「やだ!いっしょに食べる。冷えないうちに海老チャーハンも作って!」
「こいつは…」

竜児は首を振って笑うしかない。

仕方が無い。本日は優しさ増量中だ。鍋に火を入れて油を引きなおす。食卓のチャーハンに目もくれずに竜児の姿をにこにこしながら見ている大河の前で、二つ目のチャーハンが瞬く間に作られていく。

◇ ◇ ◇ ◇

「「いただきます」」

ほんのちょっと冷えてしまった「大河スペシャル」、通称「残り物チャーハン」は、少し位冷えても、例によって何処に出しても恥ずかしくない出来上がり。あたりまえだ。なにしろ夜中の2時に殴りこんできた校内最高ランク危険生物を手なずけた実績に裏打ちされている。

「これこれ、この味よ」

大河が嬉しそうに目を細める。

「おう、我ながら美味いぜ。もう少ししょうゆの香りを強くしたほうがよかったかな」

手を伸ばして竜児がしょうゆさしをとる。

「どうかしら。好みの範囲じゃない?私はこれくらいが好き」

もりもりと食べながら大河が言う。瞬く間に半分平らげたところで、はっと何かに気付いた顔をする。

「ねえ竜児、海老チャーハンちょうだい」
「何だよお前。せっかく作ったのに残すなよ。おかわりは全部食ってからだ」
「違うわよ。頼まれたって残さないわよ。ここにね、半分海老チャーハン入れてもらったら、最初のと食べ比べできるじゃない」
「まったくお前はよう」

と、溜息をつきながら、竜児は大河の食べッぷりに上々の笑顔。まだ暖かい海老チャーハンをよそってやる。

「ほれ、食え」

スプーンいっぱいにすくった海老チャーハンを食べた大河が目を丸くして、首を振る。

「おいしい。幸せ~!」

身をよじって涙を浮かべんばかりの大河に、竜児も微笑む。

「ちょっと俺にも食わせろ。味見じゃ食った気がしねぇ」

まだ「大河スペシャル」を食べている途中の竜児が大河の皿から海老チャーハンをすくう。

「あーっ!何すんのよ、私の海老チャーハン!」

泣きそうな顔をする大河を

「泣くな泣くな、あとでおかわり増やしてやる」
「ほんとね、ほんとね。約束破ったら殺すわよ」
「ああ、増やす増やす。食事中に物騒な事言うんじゃありません」

と、なだめながら一口。

「おう、美味ぇ」
「でしょう?!」

さっきの泣きそうな顔は何処へやら、大河が笑う。

「不思議よね、海老が入っただけなのに」
「にんじんも入ってるけどな。調味料の配分を少し変えてやるんだよ。そうすると香りや味がぐっと変わる。似たような料理を出すときにはこれで退屈しないですむ」
「へぇ。料理って食べるのも楽しいけど、作るのも楽しそうね」
「おお、面白いぞ」

二人で食べたほうがおいしい、と大河は言った。その通りだと竜児は思う。

二人で作ったら、もっと楽しいかもしれない。

二人で暮らせば、もっと楽しいに違いない。

でも、そのゴールはまだ見えない。

◇ ◇ ◇ ◇

「竜児、私眠くなっちゃった」

大河が言い出したのは、洗い物の終わった竜児とお茶を飲んでいるときだ。チャーハン1合半と、デザートに買っておいた杏仁豆腐まで平らげたのだ。そりゃ、眠くもなりはするだろう。

「なんだ、ご飯のすぐ後に寝ると牛になるぞ」
「そうよね、牛になるのは困るんだけど」

と、大河は本当に眠そうに言葉を継ぐ

「ちょっと寝不足で」
「勉強でもがんばってんのか」

立ち上がって泰子の座布団を大河の脇に置いてやる。勉強じゃないくらい、わかっている。

「勉強じゃないんだけど…ホントにわからない?」

パフっと、即席枕に倒れこみながら、大河。

「いや、見当はつく」

束ねた髪を胸にあお向けに寝る大河を、あぐらを書いた竜児が見守る。竜児を見つめる大河の瞳を、重そうなまぶたがゆっくりと隠していく。

よく見た光景といえばよく見た光景。去年、高須家に入り浸っていた頃は、ひとんちの飯をたらふく食った後に傍若無人に寝ていたものだ。あの涎をたらした幸せそうな寝顔を見るのも久しぶりか。

「ねぇ、竜児」
「おう」

ほとんど閉じていたまぶたを開いて大河が話し掛ける。

「わがまま聞いてくれるって言ったよね」
「こんどはなんだ」

竜児が微笑をもらし、

「竜児のベッドに連れてって」

凍りついた。

◇ ◇ ◇ ◇

「お前…」

頭に血が上った竜児は、真っ赤な顔で大河を見下ろしている。突然の成り行きに心臓が早鐘を打つ。

「変な意味で言ってるんじゃない…おかしなことだってのは、わかってる…」

竜児の狼狽など何処吹く風で、大河は本当に眠そうにしている。瞳の重さと戦っている様子がわかる。

「ここよりよく眠れそうに思うんだ…傷ついた乙女心を可愛そうだと思うならさ…お願い」

大河にそう言われて抗える竜児でもない。大きく溜息をついて頭をかきながら、

「わかったよ、ほら、立て」

と、降参。そんな竜児を他所に大河はかわいらしい手を両方とも開いて竜児の方に伸ばす

「なんだよ」
「だっこ」

目だけ眠そうなまま、可笑しそうに笑う。

「わがまま聞いてくれるって言った」

そんなことまで聞くとは言ってない気がするのだが、竜児はもう一度大きく溜息。

「はいはい、わかりましたよ」

首を差し出してやると、大河の腕が絡みついてくる。至近距離に近づいた大河の顔や髪から甘い香りが立ち上り、竜児を苛む。次はどうするんだろう、と考えて右手を大河の体の下に差し入れようと思うが、隙間が無い。少し考える。首をもち上げると、ぶら下がるように大河が起き上がってきて、手を入れる隙間ができた。

「膝、曲げろ」

ちいさな衣擦れの音をたてて、大河がおとなしく膝を曲げる。デニムのパンツの膝に左手を差し込む。大河の体を両手に感じながら、そのまま持ち上げる。

「あぁ」

夢見るような笑顔の大河が、小さな声を漏らす。

ゆっくりと立ち上がる。薄暗い2DKの安アパート。小柄な大河を腕に、いわゆる、お姫様だっこ。

「竜児。私、幸せ。夢みたい」

頬を赤らめて、とろけるような笑顔で。

「こんなことで幸せになれるのか。いつでもしてやるよ」
「ほんと?うれしい」

大河を腕に抱えるのは、2度目だったか。最初は深夜の襲撃事件で大河が空腹に倒れたとき。いや、もう1回あった。あのときは原因不明の腹痛に苦しむ大河に、竜児も生きた心地がしなかった。生きた心地がしなかったといえば、雪山もそうだった。あのときはもう、抱えるとか何とかを越えて、本当に死に物狂いだった。今は違う。自分でも驚くほど優しい幸せを感じる。

「眠気、飛んだんじゃないのか」
「ちょっと飛んだかも」

と、悪戯っぽく舌を出す。

「でもお願い。連れてって」

「おう」

腕の中の大河は、紛れも無く童話の中のお姫様に見えるのだが、悲しいかなここは2DK。ベッドまですぐそこだ。それでも、竜児が歩き始めると大河は腕の中で小さな声を上げ、くすくす笑いながら竜児を幸せそうに見ている。自然、竜児の顔もほころぶ。

「下ろすぞ」

竜児のベッドに大河を寝かすのは、これで2度目。最初は襲撃の夜だった。倒れた大河を寝かしたのがこのベッドだった。上掛けの上だが、いいだろう。大河を横たえる。

「ふふふ、私、はしたないかも」

胸の前に回した髪を鋤きながら、顔を真っ赤にして大河が笑う。襲撃当夜とはえらい違いだ。

「自覚はあるらしいな」

苦笑しながら立ち上がる竜児の右手を、さっと大河がつかむ。小さな声で、

「竜児、横にいて」

哀願口調とも、少し違う。

「おう」

ベッドサイドに座ろうかと思ったが、それはやめてベッドの横にあぐらをかく。この方が大河の顔がよく見える。

見つめあう。

顔を赤くしたり笑ったりと、だいぶ眠気は飛んだようだが、それでも横たわった大河は、こんな状況なのに妙に安心しきった顔をして、竜児のほうを見つめている。ひとり、生理現象と戦っているのが恥ずかしくなる。

「また眠くなる前に、これだけ言っとかなきゃ。私ね、一人で寝るの結構いやなんだ。怖い夢見たりするの」

そうだったのか。小さな声でゆっくりと話す大河を見つめる。怖い夢の内容は、だいたい想像がつく。

「でもね、あんたとやっちゃんが住むこの家で寝るときには、一度も怖いなんて思わなかった」
「なぜ、もっと早く言わなかったんだ」

大河の手を握る手に、ほんの少し力をこめる。

「だって、わかりやす過ぎるもん」

くすっと、大河が笑う。また、眠たそうな顔になってくる。

「あんたのマフラーを巻いて寝たこともある。すごくよく眠れた」
「道理で返してくれねぇわけだ」

苦笑い。

「このベッドは竜児の匂いがする。思った通り。あのマフラーといっしょだ。きっとよく眠れる」

言いながら、大河はまぶたの重さに負けそうになる。半分閉じたところで、目を見開くが、また、閉じていく。閉じかけて、開いて。3回繰り返した。

「もう寝ろ」

あきれた竜児が笑いながら、ささやく。

「嫌」

目をしばたかせながら、大河が言う。

「こっちのほうがよく眠れるって、お前が言うから連れてきたんだぞ」

こっけいな話だ。

「寝たら、竜児のこと見てられないじゃない」
「バカな奴」

笑うしかない。

「寝ろ」
「やーだ」

小さな、甘えた声。

「もうひとつ、わがまま聞いてくれたら寝る…」

別にお前が寝なくても困らないんだけどな、と苦笑しつつ、竜児は

「なんだ」

と、聞かずにいられない。生まれついての逢坂大河専用世話焼き体質。

「竜児もいっしょに寝て…」
「お、お前!」

突然、全身の血が沸騰する。

狼狽する竜児をよそに、大河はもう目を閉じて安らかな表情。

「ち」

寝てやがる、と独りごちたところで「んー」とむずかって大河が手を引っ張る。

「早く…」

自分の心臓の音が聞こえる。

大河と並んで寝たことなら何度もある。つきあい始める前からだ。でも、それは畳の上のごろ寝だった。あの頃は大河は世話の焼けるクラスメイトくらいにしか思っていなかった。

だが、ここはベッドだ。畳の上にごろ寝するのとは分けが違う。そして大河は婚約者だ。いつかは体を重ねて愛し合うことになる相手なのだ。横に寝ろといわれてはいそうですねと気軽に添い寝出来るほど、竜児は女慣れしていない。

「仕方ねぇな、ほら、詰めろ」

顔から火が出そうだ。恥ずかしいんじゃなくて。

「やだ、抱っこしてずらして」

目を閉じた大河がくすくす笑う。

「ああ、ああ、わかったよ。ほら、膝曲げろ」

こんどは手も伸ばして来ない。くたッと横たわっている大河の体の下に手を入れて動かす。力を抜いている大河の体は途端に重くなった。

「竜児、早く…」

ほとんど開いていられないのか、半目を開けて、大河が自分の横にできたスペースをぽんぽんと左手で叩く。

「お前、後で後悔するなよ」

時代劇に出てくるやくざのセリフを吐いて、目を血走らせた竜児がベッドに身を入れる。大河は目を閉じてくすくす笑いながら

「お巡りさーん…」

と、隣に横たわった竜児の手を握って

「…私幸せでーす…」

そのまま眠ってしまった。

竜児はその後40分ほど煩悶を続けた。インコちゃんも文字通り顔負けの不気味な表情で自分の体の不純さを呪い、涅槃までの距離を呪い、自分のまじめさを呪い、男と女をつくりたもうた神を呪い、天井を呪い、ベッドを呪い、大河をほんのちょっとだけ呪い、最後に己の健全な体との戦いに疲れきった後、ようやく眠ることができた。

◇ ◇ ◇ ◇

一時間半ほど寝て、大河は目を覚ました。

おき抜けで頭がはっきりしないとはいえ、重い睡魔を深い眠りで拭い去ったような爽快感がある。よかった、怖い夢を見なかった。

時間が経つにつれ、幾分、頭がはっきりしてくる。自宅の部屋じゃない。ここ何処だっけ、と考える。そうそう、あの天井。竜児のうちに遊びに来たのよね。それでチャーハン作ってもらって…。

その後の顛末がどっとに頭の中に流れ込んでくる。いきなり眠気が吹き飛んで目を見開いた。

左手に握ってる、この妙に安心するものは…思い出して反射的に右手で口を押える。声が漏れるところだった。というか、もれた。「ひぃっ」っと。

竜児と、一緒に、ベッドに、寝ている。

何、何、何、と軽いパニックに陥る。
全身の血が沸騰する。
顔から火が出そうになる。
身をよじりそうになるのを必死で耐える。
竜児の手を握りしめそうになるのをこらえる。
何じゃないわよ。
何じゃないわよ!
私じゃない。
私がねだったんじゃない。
真っ昼間から竜児に抱っこお願いしたわよ!
横に寝てってお願いしたわよ!

寝てる間に何かされていたらどうしよう。されてもいいけど、よかないけど、するのなら目が覚めているときにしてほしい。ベッドの上、竜児の側に横たわっておろおろと天井を見ながら、はたと、自分の左手が竜児の右手を握っていることの意味に気付く。安堵の溜息をひとつ。

少なくとも、とても大事なことはされていないはず。

おそらく何かがあったとして、それはキスどまり。キスはキスで、されてもいいけど、よかないけど、するのなら目が覚めているときにしてほしいけど、とりあえず、事情が事情だけに寝ているときにされても仕方が無い。愛情表現のひとつとして、許容範囲。

トクトクトクトクトクトクトクトクトク、と血液を迷惑なくらい送り出している心臓も、ようやく心拍数のピークを過ぎたらしく、だんだん落ち着いてくる。深呼吸を何度も繰り返す。竜児を起こさないように、竜児を起こさないように。

たっぷり5分かけて、自分を落ち着かせた。まだ顔は火照っているけど、何とかパニックは押さえ込んだ。

あーびっくりした。

そういえば、バレンタインデーの次の日の晩、泰子の実家でもこんな感じだった。寝る前に大河から竜児に積極的にキスをした。自分でも驚くほど大胆だった。あとで布団の中で思い出して身もだえしたものだ。

意外に自分は大胆になれるらしい。

というか、

「私、受身だとだめだ」

自分と竜児のこれまでを振り返って思う。泰子の実家では自分に主導権があった。思い返せばそれ以来、主導権は全部竜児に握られっぱなし。

それ自体に不満は無い。だって、抱きしめられ、唇を奪われるたびに、愛されているという実感がある。ただ、やっぱり受身になると自分はダメなんだなぁと思う。人間としてダメなんじゃなくて、なんというか、生き物としてダメ。体に力が入らない、ずいぶん慣れたとはいえ、毎度毎度、竜児の腕の中でこんにゃくのような物体に成り果てる自分を思い出す。

たぶん、この竜児の腕が悪いのだ。きっと自分をふにゃふにゃにする魔法のような何かが仕込まれているに違いない。抱き寄せられるだけでも結構クルものがあるが、両手でぎゅっとやられた日には到底太刀打ちできない。脳みそがプリンのようにプルプルになってしまう。

それはともかく。

ギギギギギ、と油の切れた機械のように首を回して竜児を見る。

なんてこと。大河の横で竜児はすやすやと、それはそれは幸せそうに眠っている。自分がたっぷり睡眠をとったことは棚に上げて、大河はちょっとだけ不機嫌になる。なによ、どうして私を横にそんなにすやすや眠れるのよ。傷つくじゃない。

しかしまぁ、それはそれ。惚れた弱みは大河にもある。普段見る機会の無い竜児の寝顔についつい見入ってしまう。

左手を離し、静かに身を起こして竜児のほうに体を向ける。凶悪な目も閉じればかわいいもの。お気に入りの口の形や、今まで気付かなかった小さなほくろまで、じっくりと間近で見ることができる。寝顔を見るのは初めてではない。泰子の実家で見たけど、あれは狸寝入りだった。本当に見たのは、確か1度だけ。昨年末に竜児が倒れた際、病院で付き添ったことがある。あのときの竜児は実乃梨に振られて夢の中まで苦しんでいた。

今は違う。この安らかな寝顔は、ひょっとして自分が傍にいるからだろうか。違うかもしれないが、そう考えると大河は嬉しくなる。さっきの不機嫌は撤回。笑みが漏れる。

そっと体を起こす。いたずらをしたい、という気持ちを抑えられない。竜児の上に覆い被さる。髪が竜児の胸に落ちる。くすくす笑いが漏れそうになる。ダメダメ、我慢しなくちゃと、顔面に笑いをあふれさせながら、声をこらえる。

ゆっくりと顔を竜児の胸に近づける。首を左にひねる。右側の頬に竜児の体温を感じる。心臓がドキドキしてきた。頬にパーカーの繊維を感じる。頬がパーカーに触れる。

ゆっくりと、ゆっくりと頭を下ろす。パーカーが押され、竜児の胸と大河の顔の間でつぶれる。もう、竜児の体がそこにあるのをはっきり頬で感じる。肋骨がそこにある。竜児の体がそこにある。まだ起きない?少しずつ頭の重さを預けていく。まだ起きない。嘘みたい!

大河は声を殺して笑っている。ばかばかしくて可笑しいのか、幸せで気が狂いそうなのか、自分でもよくわからない。わかるのは、ベッドの中で眠る竜児の胸に今や完全に自分の頭を預けていること。竜児の心臓が血液を送り出す生々しい音がはっきり聞こえること。自分の心臓が狂ったように脈を刻むこと。

ゆっくりとゆっくりと、自分の体重を預けていく。もう、自分の胸は竜児の体に密着している。ゆっくりと、ゆっくりと、胸を完全にあずけ、腕の力を抜く。

起きなかった!

嘘みたい!嘘じゃないよね。真っ昼間、二人きりの部屋でベッドの上、眠る竜児の胸に体を預けている自分がいる。近くの公園から子どもの声がする。車の通る音がする。体が熱くほてり、知らないうちに深呼吸をしてしまう。

あまりにもいたずらがうまくいきすぎて、笑いがこみ上げてくる。前から一度やってみたかった。映画のワンシーン。でも、ヒロインは手乗りタイガーで恋人はヤンキー高須。だめだ、我慢できない。

横隔膜がひくひくと揺れ、押し殺す笑いに体を揺すってしまう。

◇ ◇ ◇ ◇

自分との戦いに辛くも勝利した竜児は、大河と並んだまま深い眠りに落ちた。夢のない眠りから彼を引き戻したのは、胸の上で床屋のマッサージ器のように揺れる謎の物体。

「ん、あれ?」

大河?…と言おうとした瞬間に、胸の上の物体が笑い出した。

「ぷぷぷあははははは!だめ、もうだめ。ごめん、竜児、あ、だめだめ起き上がっちゃだめっ!ははははは、あっはっはっはっ!」

胸の上の物体は、いつの間にか竜児の上に覆い被さっていた大河で、状況が状況であるにも関わらず、色っぽさのカケラもなく、止まらない笑いに身もだえして苦しんでいる。

「あはははは、竜児、おはよう…って、ぷははは!」

脚をばたばたさせながら、握り拳で竜児の肩のあたりをポカスカ叩く。そういう、いかにも漫画的なばかばかしい姿をしばらく披露した後、漸く落ち着いたようだった。

「はーーーーーーーーーぁ、やっと落ち着いたわ。あはっ、ちょっと待って、はぁ」

状況が飲み込めないままあきれている竜児の上で、再びひくひくと体を揺すりながら、大河が身もだえしている。大河が本当に話が出来るようになるまで、それから1分くらいかかった。

「はぁ、お待たせ。で、何?」
「何?じゃねぇっ!」

あまりの不条理な一言に、竜児がぶち切れてみせる。

「なんだよお前、藪から棒に。起き抜けに俺の上に被さってると思ったらいきなり爆笑かよ。どんだけ寝相悪いんだよ、どんだけ笑いに満ち溢れてんだよ」
「寝相が悪いって何よ。起きたら横に竜児が寝てて、乙女に対してあまり失礼な態度だから驚かしてやろうと思ったのよ」
「その乙女に添い寝してくれって頼まれたんだけどな」

ぷっと大河が吹き出す。

「はー、もうだめ。ごめん竜児。今の嘘。ほんと、添い寝してくれてありがとう。すごくよく眠れたよ」
「おう…そうか。嫌な夢とか、見なかったか」
「うん。もう全然。寝ちゃったら起きるまで夢無し。久しぶりにぐっすり寝たわ」
「そうか、そりゃよかった。で、こりゃ何のまねだ」

ぽんと、大河の背中を叩く。大河は頬を赤らめて幸せそうな笑みを浮かべるが、竜児から見えない。

「映画であるじゃない。恋人の胸に顔を埋めてベッドで眠るってやつ。やってみたかったんだ」
「そうかよ、じゃ、それと爆笑と何の関係があるのか説明してもらうか」

大河はうふふ、と笑って

「怒んないでよ。起こさないようにそっと頭を乗っけてたらさ、なんだかいたずらしてるみたいな気分になっちゃって」

と、楽しそうに話す。大河は楽しそうではあるが、竜児は憮然としたまま。

「そうですかい。で、俺はこのやり場のない気持ちをどこに持って行けばいいんだ」

くくくっと大河が笑う。笑いながら、思った。竜児の鼓動、どんどん早くなってくなっていく。大河の生々しい体温にあおられて、竜児の体がどんどん熱くなっていくのが、大河にもわかる。

「ねぇ竜児。もう少しだけ、こうさせていて。いいでしょ?」
「仕方ねぇ、好きにしろ」

照れ隠しなのだろう、ぶっきらぼうな口調で竜児が言う。

もう、竜児の鼓動は早鐘を打つようだ。胸に顔を埋めながら、大河も頬を熱くする。今、こうして自分が体を預けている竜児が紛れもなく男であり、自分が女であることを否が応でも感じる。竜児が、自分の体を求めているのがわかる。狂おしい幸福感が、大河を包みこむ。

全身を悦びに火照らせながら、こうやっていつも心臓の音を聞いていれば竜児の考えている事が全部わかるかもしれない、と大河は思う。もうしそうならば、どんなに素敵なことだろう。

幸せな想像に浸っている間に、そっと背中に腕が回されてきた。慌てて身をかたくする。

「ちょ、待って待って!」
「なんだよ」

思いの外激しい拒絶に竜児が不機嫌そうに言う。

今、抱きしめられたら、また自分はふにゃふにゃになってしまうだろう。それはだめ。今日は、まだだめ。大事な話をしないといけない。だから、ちょっとの間だけ、抱きしめないでいてほしいと願う。

「ちょっとだけ、ね、竜児。ちょっとだけ、私を抱きしめるのは待って」
「はいはい、わかりましたよ」

今日はわがままデーだと観念したように竜児が手を頭の後ろに組む。

しばらく、二人で黙っていた。竜児はベッドの中で大河にしがみつかれて血液を沸騰させながら、何も出来ずに天井をにらんでいる。大河は、竜児の心音を聞きながら、竜児の肩の向こうに見える枕をぽけっと見ている。

枕は竜児が大河にあてがってくれたもので、大河が寝ていない今は頭の辺りがぽふっとへっこんでいるだけ。

◇ ◇ ◇ ◇

「ねぇ、竜児」

大河が声をかけたのは5分ほどだってから。

「おう」
「結婚したら、きっと毎日がこんな感じなんだろうね」

すこし考えて竜児が答える。

「そうだろうな。きっともっと楽しいぜ」
「だったら、私幸せすぎて死ぬかもしれない。今でも怖いくらい幸せなのに」
「だめだ」
「だって」
「だってもヘチマもねぇ。お前は俺より長生きしろ」
「…」
「お前の居ない世界なんて考えられねぇ。一日でいい。俺より長く生きろ」
「ちょちょちょちょっと待ってよ。何よ、それ。私置いて先に死ぬつもり?」
「別に早死にするつもりはねぇ。ただ、俺より先に死ぬなって話だ」
「ずるいずるい。ずるいよ。決めた、私の方が先に死ぬ。竜児が死ぬの見るのなんてやだ」
「って、お前」
「だめだめだめ、私より長生きして。お願い。寂しくて死んじゃう」

馬鹿馬鹿しい会話だな、と竜児は思う。しかし、こういう話が出来る幸せというやつは、確かに感じる。先週あんなことがあったとはいえ、紛れもなく、いま自分は幸せだ。

ただ、今の幸せと、もう一歩の幸せがかみ合わない。

「じゃぁ死ぬときは一緒だ」
「そうだね。なんだか心中みたいだけど」
「心中じゃねぇ。俺もお前も幸せに長生きをして、で、死ぬときは一緒だ」
「わかった。じゃ、一緒だね。でも、私が先に目を閉じるね」
「お前なぁ…」

話をしながら、竜児の心音が落ち着いて来るのを、大河は聞いている。

◇ ◇ ◇ ◇

「竜児」
「おう」

しばらく二人とも黙った後に、大河が話し始めた。

「今日はありがとう」
「チャーハンか」
「違うよ。チャーハンもだけど。今日はありがとう。だいぶ、立ち直れた」
「俺もだ」
「ほんと?私、竜児の助けになってる?」
「ああ、なってる」

竜児は頭の後ろで手を組み、天井を見つめたまま、胸の上の大河に話を続ける。

「俺たちは、たぶん、ずっとこうだ。俺がお前を支える。お前が俺を支える」

大河は少し黙っていた。

「そっか、私、竜児の支えになってるのか」
「お前は…もう、俺の半身だ。お前が泣けば、俺の心が泣く。お前が居なくなれば、俺はたぶん、立っていられない」

なんの誇張も無い、と竜児は天井を見ながら思う。お前は、俺の半身なんだと。

「私も同じだよ」

大河がささやく。

◇ ◇ ◇ ◇

近所の公園で子供たちが遊ぶ声が聞こえる。夏の間、暑くて仕方のなかったこの部屋も、9月が過ぎ、10月に入ってからはすごしやすい日が続いている。日当たりは悪いが、入ってくる風は心地よい。

「大河、話がある」
「何?」

真剣な声の竜児に、大河が少しおびえたように応える。

「先週、断られたけど、俺はお前の親ともう一度話をしたい。俺がお前をどれほど愛しているか、きちんと説明する。入籍だけでもさせてくれと頼む。その上でだめだと言われたら、どうするか、俺たちはちゃんと考えなきゃならない。先延ばしはできねぇ。今考えるんだ」

少し間をおいたあと、大河が深い深いため息を一つつく。そして、久しぶりに聞く低い声で、

「竜児、あんたやっぱ駄目だわ」

と、いきなり心臓をひと突き。

「なにっ、お前」

起き上がろうとする竜児に「だめ!」と大きな声を上げて制止する。

「竜児、ちゃんと聞いて。私はね、先週あんたがうちの親に正式な結婚話を断られたことで深い深いショックを受けているの。傷心なの。だけど、いつまでも子どもじゃないんだから、立ち直らなきゃいけない。だから、一所懸命けなげに頑張っているの。痛む心に耐えて。なのにあんたは何?今から計画を練り直せ?どんだけ事務的なのよ。それもよりによって、せっかくのロマンチックな時間なのに」

唖然としている竜児をほったらかしにして、大河は続ける。

「あんたの無神経さにはほとほと驚かされるわ。ねぇ、竜児聞いてる?私はっきりわかったわ。あんたについて行ける女の子なんて居ない。あんたみたいな朴念仁の炊事洗濯掃除オタク犬なんかについて行ける女の子なんていないの。たとえ恋人ができても、すぐに愛想尽かされるに決まってる。だから、あんたが私という天使に巡り会ったのは60億分の1の幸運なの。わかる?」

「人類の人口の話をしたいのなら、女の数はその半数だ」

ようやく立ち直った竜児が憮然と突っ込む。しかし、大河は無視。

「お黙り!ステイ!ちゃんと聞いて。だから、あんたはこの先私を離しちゃだめ。あんたみたいな駄目犬に関わってくれる心の広い女は私だけなんだから。私の手を離しちゃだめ。わかった?」

いきなりの方向転換に竜児はほんの少しご機嫌斜めだが、この程度の気まぐれにいちいち目くじらを立てているようじゃ、大河とは付き合えない。

「わかってる」
「ほんとにわかってる?絶対離しちゃ駄目よ」
「離さない」
「ほんとにほんとに離しちゃ駄目よ」
「決して離さない」
「何があっても離さないで」
「何があっても離さない。そう決めた」
「絶対、絶対…」
「なにをそんなに怖がってる」

低い声を作って竜児がさえぎる。

大河が息を呑み、小さな手のひらで竜児のパーカーを握り締める。竜児から大河の顔は見えないが、何が起きているかは何となく想像は付く。

大河の泣き虫が始まりそうだ。

少し、間があった。

「竜児」
「おう」
「あんたは知ってるよね、私は『手乗りタイガー』なんて呼ばれてるくせに、本当はどうでもいことにまでびくびくしながら生きてる」
「ああ、知ってる」

だから竜児は、大河の手を離しちゃいけない、と思うようになった。

「でも、私が今、本当に恐れているのは1つだけ」

竜児は天井を見つめたまま。大河は竜児の胸に顔を押しつけたまま。

「私は、あんたが私に愛想を尽かす日が来るのが怖い」
「そんな日は来ねぇ」

即答する竜児を

「お願い、聞いて」

大河がさえぎる。

「あんたは………ドジで、何も出来なくて、わがまま放題の私に手をさしのべてくれた。変われとも何とも言わず、ただ黙って手をさしのべてくれた」

竜児は、黙って天井を見ている。

「何て私は幸せなんだろう、って思うよ。けどね。このまま結婚したら、私たちどうなるんだろう」
「…二人で、幸せになる」
「…あんたは私のためにきっと一所懸命働いてくれる。私のために朝から晩まで働いて、おいしい料理を作って、きちんと掃除と洗濯をして。でも、私はあんたのために何をするんだろう」
「横に居てくれればいいんだ」
「私は何も出来ない。あんたの『お前は支えになってくれている』という言葉を信じて、にこにこしているだけしかできない。あんたに料理を作ってあげることも出来ない。きっと掃除も洗濯も駄目。頑張ったところで、あんたをいらいらさせるだけ」
「そんなこと」
「お願い、竜児。聞いて」

大河は竜児に最後までしゃべらせない。

「私はそんなのは嫌。そんなことをしていたら、いくらあんたが頑張っても、いつかは私に愛想を尽かす。そうでなければ、あんたは倒れちゃう。そんなのは嫌。私はそんなのは嫌」
「…どうしたいんだ」

涙が、大河の目からポロリと溢れて落ちる。竜児から見えないところで大河は泣きはじめた。見えてはいないけれど、何が起きているかは竜児にはわかっている。だって、声を聞けばわかる。

「竜児。私に時間をちょうだい。お料理も、お洗濯も、お掃除も、ちゃんとあんたのために出来るようになるから。時間をちょうだい。私グズだから時間が必要なの。お願いだから…」

大河が言葉を切る。

「結婚を…待って」

嫌な鳥肌のようなものが、竜児の体を走った。大河の口からは聞きたくなかった。考えるだけで心が打ち沈むような一言。

でも。

それはお前の本心なのか。と、竜児は天井に問いかける。

俺がどうしなければならないか、本当は俺の中ではもう答えが出ている。あとはお前の気持ちを聞くだけだった。今、口にしたそれは、お前の本心なのか。

その、涙にかすれた声で言った一言は、お前の本心なのか。

「竜児…ごめん。待ってほしいの…時間をちょうだい」

天井をいくらにらみつけても、天井は何も答えてくれなかった。ただ、大河が泣きながら時間をくれと繰り返すだけだった。

それはお前の本心なのか。

また、いつものように自分の中だけで苦しんでいるんじゃないのか。だって、俺の胸はこんなに痛い。いつもの泣き虫なら、こんなに痛いはずが無い。

「お前は花嫁修業をしたいのか」

ようやく泣き止んだ大河が、うん、と胸の上で頷く。

「その間、俺はどうしていたらいい」
「…大学へ…行って」
「嫌だと言ったら」
「お願い、時間が必要なの」

涙をこらえながら、ただ、そう言う。

そっと背中に回した腕を、大河が慌てて拒む。まだだめだと。いったいどういう事だ。

「まだ、ちゃんと返事を聞いてない。竜児は、ずっと待ってくれるって思ってた」
「待つつもりだった。お前が帰って来るまで俺はいつまでも待つつもりだった。でも、お前は帰って来ちまった。お前の声を聞いちまったから、お前の顔を見ちまったから、俺はもう」

と、出てきた言葉を。

本当は飲み込みたかったが、とめられなかった。

「こらえきれるかどうか、わからねぇ」

かすれる声で、そう言った。

胸の痛みに苦しみながら、ぼんやりと、竜児はバレンタインデーの頃を思い出していた。大河は竜児に何も知らせず、声を上げずに泣いていた。こいつはそんな女だ。一番つらいことは竜児には教えない。一番つらいことは、いつも自分で抱えて一人で苦しんでいる。

泣き虫のくせに。

弱虫のくせに。

「時間を…頂戴…」

大河が涙声で哀願する。

「竜児お願い…私を待っていて」

カーテンが風に揺れる。

「嫌だ」

竜児の強い声に大河が泣くのをやめる。顔を起こして赤く泣きはらした目を丸くする。開いた口を振わせる。

「…どうして?」

「お前は、本心を言ってねぇ」

悪い癖だ。

一人で抱え込んで苦しみやがって。

「大河、お前の本当の気持ちを聞かせろ。お前が本当の気持ちを言うまで、絶対言うことなんて聞いてやんねぇ。お前が一人で苦しいのを抱え込めばいいなんて思っているうちは、絶対話しなんて聞いてやんねぇ」

声を出すことができず、ただ、唇を震わせている大河に、竜児がもう一度言う。

「大河、本心を聞かせろ。俺には言っていいんだ、本心を。わがままを言え」

紅潮した頬に、涙があふれ落ちる。もう、ずっと前から涙でぐしゃぐしゃの顔では、涙の雫なんてきれいなものは落ちていかない。ただ、ただ、次から次へと涙が流れ落ちていく。

「私は…私は…本当に竜児の役に立ちたい…嘘じゃない」

竜児は天井をにらみつけている。本当の気持ちを聞かせろと天井をにらみつけている。

「私は何も出来ないから…本当にお料理が出来るようになりたい…本当だよ…」

大河が苦しげに喉をならす。

「でも…ぐずだから…お料理を覚えるのに時間が必要なの」

パーカーをぐっと握って目をつぶる。涙がぽたぽたと竜児の胸に落ちる。

「だから…だから」

あうあう、と大河が口を動かす。喉に詰まったものの痛みに身をよじる。そして苦しげに、なくなってしまった空気を探すようにあえいで、

「だけど…もう待てないの!」

とうとう本当のことを言った。

「竜児に!いますぐ連れて逃げてほしい!」

おいおいと泣き始めた。

「けど、そんなのは駄目だって分かってる。そんなことじゃ幸せになれないって、ちゃんと分かってる」

精一杯の努力で自分の心の中に作り上げた虚構が粉々に砕ける痛みに、大河が身をよじる。

さっきから竜児の胸の奥をいたぶっていた何かが、新しいおもちゃでも見つけたかのように心臓をぎりぎりと締め上げる。

「なのに、もう待てないの!今すぐ竜児と一緒になりたいの!でも、それじゃだめなの!分かってる…どうしたらいいか分からないの」

ごめんなさい、ごめんなさいと泣き続ける大河の声を、竜児はじっと聞いていた。とうとう本当のことを言ってくれた。

やっぱり大河は一人で苦痛を隠し持っていた。きっと、自分1人が悪者になれば良いと思ったのだろう。自分が愚図だから、花嫁修業をしなければならない。だから、その間竜児には大学に行って欲しい。そう言えば、竜児は全部大河のせいにして大学に進むことが出来る。そうすれば、今すぐ働かなくていい。そう考えたのだろう。

大河らしい勝手な考えだ。こんな嘘をついて、自分1人が悪者になって竜児を進学させたかったのだ。その代わりに大河は待たなければならない。早く結婚したい気持ちを我慢して、竜児の大学卒業を待たなければならない。その間、真っ赤に焼けた鉄の塊に心臓を焼かれるような苦しみを、1人で味わい続けるつもりだったのだろう。

竜児に押し切られて、大河は隠し持っていた焼けた鉄の塊のような苦しみを見せてくれた。でも、その鉄の塊を受け取った竜児も、ただ自分の手のひらが焼け爛れていくのを見ていることしか出来ない。

「どうしたらいいか分からないの…」

泣き続ける大河に言葉をかける。

「大河、俺も同じ気持ちだ」

手を頭の後ろに組んで、天井を見つめながら。胸にしがみついて泣き続ける大河に、つぶやく。

「お前と、今すぐにでも一緒になりてぇ。それじゃ駄目だと分かってる。お前の親父さんが言ったように、大学に行くのが正しいことなんだとわかってる。人が言うからじゃない。自分で考えてそう思う」

けど、だめなんだよ。と、竜児は言葉を継ぐ。

「お前が愛しくて、愛しくて、俺の心も体もちぎれそうだ」

大河がいっそう強い力でしがみつく。

お前は俺の半身だ。お前が泣けば、俺の心も泣く。

大河の本心を聞けた。だけど、聞くことが出来ただけで、その痛みを和らげてやることは、出来なかった。今連れて逃げれば、大河の気持ちを満たすことは出来る。でも、それは正しい方法ではないと、竜児にも大河にも分かっている。そして大河をかばいながら、正しい方法の痛みに立ち向かう力が自分にあるかどうか、竜児にはもうわからない。

ぼろアパートのベッドの上で重なり合ったまま、二人は前に進むことも、後ろに戻ることもできなくなってしまった。

バレンタインデーの夜、泰子が逃げたこの部屋で一人泣き叫んだ。自分の無力さに泣き叫んだ。大河にそばにいてほしいとその名を呼んだ。

今、大河は望みどおりそばにいる。でも、自分の無力さは何一つ変わっていない。

大河を幸せにしてやると、誓った。大河を取り巻くすべての人と一緒に幸せにしてやると願った。

そのために、すべての苦痛を自分が引き受けると誓った。

でも、許してくれ、大河。それは出来そうもない。

俺にはやっぱり、お前の支えが必要だ。俺の痛みを、半分でいいから支えてくれ。そうすれば、俺はもう一度歩ける。お前の痛みを半分だけ、引き受けてやれる。二人震えながら身を寄せ合って、道はあっちだと、指し示してやれる。

それなら、できる。

それしか、できない。

窓からそっと流れ込んでくる10月の空気が、ベッドに横たわる竜児と、泣きじゃくる大河を包んでいる。ひんやりとするその空気を肺いっぱいに吸い込むと、竜児は一言

「大河っ!」

と、何よりも大事な女の名前を大声で呼ぶ。

突然大声で名前を呼ばれて、大河がはっと顔を上げる。嗚咽に体をひくつかせているが、びっくりして泣き止んでいる。顔はぐしょぐしょ、幼稚園児だってこんなには、と思うほど涙にぬれている。でも、竜児は見ていない。手を頭の後ろで組んだまま、天井をにらみつけている。

「大河、よく聞け」

しっかりと、大河の頭にしみこむよう、はっきりと大きな声で竜児が話す。

「俺は、大学に進む!勉強して、誰にも文句をつけられない仕事に就く!」

大河は息を呑んで竜児の声を聞いている。

「そして、必ずお前と結婚する!だから、それまで待っていてくれ!」

凍りついたように竜児を見ていた大河が、発せられた言葉の意味に体を震わせる。そして、ちいさな、ちいさな、かろうじて聞こえる声で、ようやく

「うん」

と。

しかし、竜児はそんな返事では許さない。

「聞こえねぇ!」

大河にはっきり返事をしろと言う。

震える唇を精一杯開いて、搾り出すように大河が返事をする

「うん、待ってる」

それでも竜児は許さない。

「だめだっ!聞こえねぇ!」

大河の目から、ぽろぽろと涙がこぼれて、ぐじゃぐしゃになった頬を流れていく。もう、どれだけ涙が流れたのか、わからないほど泣いた。

「私、竜児を待ってるっ!竜児が迎えに来るまで待ってるっ!」

返事は泣き声に変わり、泣き声は悲鳴にも近い苦しみの声に変わる。

絹を裂くような声で、竜児、竜児、と大河は叫ぶ。胸にしがみついて苦しそうに泣く大河を、漸く竜児の腕がつつみこむ。なぜ大河がその腕を拒んでいたのかは竜児には分からない。でも、泣きじゃくる大河はもう、抗わなかった。強い力で抱きしめられて、竜児の名前以外の言葉を発することも出来ず、ただ、ただ、大声で泣きじゃくった。その声が、何度も何度も竜児の胸を引き裂いた。痛みで竜児を打ちのめした。

「すまねぇ、大河。申し訳ねぇ。俺はお前の痛みを半分しか引き受けてやれなかった」

竜児の目から、涙がこぼれる。

◇ ◇ ◇ ◇

大河。

俺たちは、たぶん負けたんだと思う。

俺たちは、大人から逃げようとして、だけどその方法では幸せになれないと気づいた。だから、大人たちにちゃんと認めさせて、正式に結婚しようと思った。けれど、それも結局許してもらえなかった。大人たちが許してくれないと、俺たちは結婚できない。

俺たちは子供だ。

俺は、それを思い知ったよ。どれだけ甘い考えだったか思い知った。すまねぇ。大河。

このゲームのルールを決めているのは大人たちだ。だから、俺たちはそのルールに従わなきゃならない。そしてそのルールには、今すぐ結婚して幸せになるという終わり方が無いことに、俺はやっと気づいた。

俺たちは、負けたんだ。

俺たちガキは、待つってことができない。だから、今すぐ結婚したいと俺もお前も強く思った。だけど、大人たちは待つことが出来る。だから、俺たちに待てと言う。

俺たちはこのゲームに負けた。だけど、俺はもう一つ気づいた。このゲームは負けて終わりのゲームじゃなかった。大人たちは待ってくれている。もう誰も俺たちに別れろなんて言わない。俺たちが、もう一度このゲームに大人として参加する日を待ってくれている。

大河。お前と今、一緒になれなくて悲しいよ。お前のことを考えるだけで、俺は胸が張り裂けそうに痛む。大学を出て、就職して、お前と結婚するまで、たぶん5年かかる。その時間を考えるだけで、俺は気が狂いそうになる。

自分だけで、お前を守りきれると本気で思っていた。だけど、本当の俺は、一人では立っているのもやっとだった。本当にすまねぇ。

だから大河、俺を支えてくれ。俺がお前を支えるから。俺たちの腕は細いけど、きっとふたりで支えあっていれば、なんとかなる。

俺とお前は、たぶん、ずっとそんな風にやっていくことになる。そう思うよ。

◇ ◇ ◇ ◇

月曜日の朝、マンションから出てきた大河は驚きに目を丸くした。

「竜児…」

おう、と声をかけなかったのは照れ隠しか。竜児は片手を上げて、大河に微笑んだ。

「すまねぇ。来ちまった。お前は笑うかも知れねぇけど、心配で」

そう話す竜児に、大河はやわらかく微笑みかえす。

「ううん。ありがとう」

二人並んで歩き始め、どちらからともなく、手を握り合う。

昨日より、少し冷える。しばらく黙って歩いた後、竜児が語りかける。

「今年はちゃんと冬の準備しとけよ。去年みたいにマフラー取られるのは嫌だからな」
「え、貸してくれないの?」
「去年は特別だ。同じドジ2回繰り返してどうすんだよ。ちゃんと準備しとけ」
「ちぇっ」

誰かに聞かれるのを恐れているわけでもない。でも、二人は少し冷えて来た空気の中、いつもの元気な声ではなく、ほんの少し押さえた声で話す。そうしておけば、二人が静かに育てると決めた何かを壊さなくて済むみたいに。

◇ ◇ ◇ ◇

続く

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