2012年秋アニメ(2)

10月も2週目ですね。

桜荘のペットな彼女

なんとなくテンプレ的なラノベ原作アニメですが、超能力も異世界も出てこないところは好感。茅野さん目当てに見る、と言いたいところですがこのヒロインじゃ彼女は生きないかなぁ。

ジョジョの奇妙な冒険

期待の新作ですが、ちょっと肩すかしを食らった感があります。OPには力が入っていて、おお!と思うのですが、本編の方は原作既読者に媚びるばかりで、未読者へこの作品の魅力を伝えようという気概を感じないのがちょっと。惰性で見るとは思いますが。

新世界より(2話)

相変わらず説明無しに淡々と話が進みます。これ、面白いのかな。というか、町で見かけるコミックスの表紙と全然違うんですけど。

K(2話)

視聴やめました。ポップな感じでおしゃれに町が破壊されていく作品というのが性に合わないんですよね。

サイコパス

遅れて始まったノイタミナ枠です。今期一番おもしろいかも。きちんと世界観が提示されて、今後進む方向もおおよそ明かされています。

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折れた竜骨

米澤穂信の『折れた竜骨』を読みました。以下、ネタバレを含みます。

随分前に読んだSF(ニーヴンのARMシリーズを含む短編集)の後書きに「SFとミステリは食い合わせが悪い」と書いてありました。SFはある種の人々から見ると「何でもあり」なので、謎解き編で「しかし犯人はテレポーテーションで逃げたのです」とやられるとどうしようもなく馬鹿馬鹿しくなるからです。ノックスの十戒曰く「中国人を出してはならない」ということですね。

同じようにミステリと食い合わせの悪そうな話が魔法です。何しろ魔法で壁抜けして殺せばいいのですから、密室の謎を解く必要などありません。

「折れた竜骨」は中世のヨーロッパを舞台とした長編小説で、作中で起きた魔術師による殺人事件を巡って主人公達が頭を巡らせる話です。作者は魔法という一つ間違えば手に負えなくなる題材を使いつつ、各種の制限を持ち込むことで読者に対してフェアプレイを提供しています。ヒロインは父親が殺されたことに酷く動揺しますが、それを悼むまもなく気丈にも犯人捜査に乗り出し、やがて不死の軍勢の襲来に飲み込まれていきます。

題材そのものに不安を感じましたが、読み終わってみれば実に米澤穂信らしく、そして米澤穂信らしくない佳作でした。がっちりとした謎解きをベースに物語は進みますが、その周辺でヒロインであるアミーナが抱く将来へのあきらめ、後継者問題、不死者との会話などがちりばめられた魅力的なストーリー展開になっています。そしていつものごとく謎解きと絡み合う形で、アミーナとニコラが交わす言葉がゆっくりと彼女と彼の人生観として展開されていく様はひとつの見所でしょう。

一方で、この物語は米澤穂信にしては珍しく父性が大きな題材になっています。愛する父親を失って動揺するアミーナですが、その父親の存在が単に彼女の主観ではなく客観として大きなものであったことが描かれるにつれ、父親の喪失が彼女にとって如何に大きな痛手であったかが次第に披露されていきます。そしてそれだけに、アミーナの強さが際立ちます。また、ニコラは父親を自分たちの地で失っていますが、暗さを感じさせません。口の悪さが天性の明るさなのか、自分に強いている子供っぽい強がりなのか興味深い所ですが、やがて彼と彼の師であるファルクとの関係は話の中で父と子の関係に昇華されていきます。クライマックスにおけるこの二人の関係の変化の描写は見事でした。

「終わりよければすべてよし」とならないところ、アミーナとアダムがいつもの「できた姉とイマイチな弟」である点、手の届かない世界もいつもの米澤です。安心して読むことが出来る文章力と、ストーリーおよびトリック両面の高い構成力に加えて、アミーナとニコラに「とらわれの姫と騎士の約束」を読み取るなど、ほのかに悲しくて、しかしさわやかな読後感の一冊でした。

(追記:どういう訳かアダムを弟だとずっと誤解していました。頼りにならない兄ですね)

2012年秋アニメ

直感で試聴しないことにしたアニメが結構好評だった!という悲劇が続いたので、片っ端から録画して1話を見ることにしました。それにしても、「氷菓」が終わったので生きる気力に欠けます。

神様はじめました

行きずりの神様に神の座を譲られる女子高生の話。ギャグが基本の少女漫画ですかね。それほどでもないかな、と思ったのですがOPが気に入ったので取っています。

新世界より

気合いはいってるなぁ、と思いつつ、なんとなくよくわからないままの第一話でした。多分、超能力のせいで文明が崩壊寸前までいった人類が、危険因子を未然に払いのけるために教育システムや宗教システムを大幅に修正した未来、と言ったところでしょうか。「XXのせいで人類死にそうになったから以後禁止ね」という話は、SFでは割と良くあるネタです。ただ、SF書く人は頭が良すぎるので(そうは言っても無理だろう)と考えるのか、軽いコメディが混ざったりすることもあります。思いつくままに列挙するとクラークの「都市と星」、ニーヴン&パーネルの「天使墜落」、星新一の「白い服の男」、最近読んだ青柳碧人の「浜村渚の計算ノート」などなど。

だったらなぜ超能力教室開いてるんだ!?となるので、ひょっとするとこの読みは違っているかも。ただ、デストピアとなった管理社会で禁忌とされる真実を探求する物語、あたりでしょうか。

K

おされアニメでしょうか。何がなにやら。

絶園のテンペスト

多分、今期一番まとまった第1話でした。主人公達が何をしたいのか、それは何か。手段はどうするのかがはっきりとわかる形で、しかも劇的に提示されました。要チェックや。

お姫様カットの強気の女の子は、今後すべて戦場ヶ原さんに見えるのだろうか、などと考えながら見ました。

中二病でも恋がしたい

こんな話でしたっけ?原作読んだけどだいぶ変わっている気がします。ただ、それほどたいそうな原作でもない(失礼)ので、いいのかも知れません。「氷菓」が終わったので開き直って萌えを目指す京アニを見ましょう。

電車の扉を開けるシーンで笑いました。

リトルバスターズ

うーん。今期イチオシの声も聞くのですが、正直首をひねりました。私はどうも、子供が全能感をひけらかす作品は相性が悪いので合わないかも知れません。

竹宮ゆゆこいいですよ。子供には子供の力しか与えられていない。ところで「超平和バスターズ」ってこれからもじったのでしょうか。

えびてん

ギャグマンガでした。ドブソニアンのトップをあんな風に持ってはいけません。強度を犠牲にして軽くしたのがドブソニアンなのです。そして鏡の直系は30cmkくらいあるぞ。振り回すなよ。

あとは何だろう

放送がまだの分は、JoJoとノイタミナ枠が残ってますね。録りすぎているので早いところ整理しないと。

「桐島、部活やめるってよ」と「汚れた心」

映画、「桐島、部活やめるってよ」を飛行機の中で見ました。これ自身興味深い映画でしたが、同じく機内で見た「汚れた心」と好対照を成している気がしたので、以下に感じた事を書いてみます。酷いネタバレを含みますのでご了承を。

桐島、部活やめるってよ

原作は読んでいません。映画のトレイラーを見ると、教室内の格差社会(いわゆる校内カースト)とか、意味のない恋、といった言葉が踊っています。が、見終わってみれば、この映画にとってそれらは刺身のつまでしかありません。割とどうでもいいことです。脚本家と監督は「部活」をこの映画の軸に据え、結末では主要な人物達がそれとどう向き合うかが描かれています。

全体的な印象としては、監督がビジネス抜きで撮ろうとした節が見え隠れし、好印象です。

舞台は、地方都市の高校、漫然と日々を送る高校生達。やがて、「桐島」がバレー部をやめるというニュースが走ります。この時点で見る側は違和感を感じます。「部活やめるのがそんなに大騒ぎすることか?」と。そもそも冒頭描かれるのは、熱の入らない映画部(映画研?)、桐島を待っためにぱくったボールでストリートバスケをやっている帰宅部男子、そしてあからさまに部活をやっている生徒を嘲笑する帰宅部女子などです。校内カーストが面倒でイヤイヤ話を合わせているバトミントン部の女子もいますが、ようするに渦中のバレー部以外、真剣に部活をやっている様子は描かれません。そうですよね。彼らは今時の高校生です。しらけ世代よりさらに一世代後の彼らが燃える血潮を部活に注ぐなど、「リアル」であるわけありません。

が、一部の生徒はあたふたと駆け回ります。桐島の彼女(帰宅部)は、何も知らされていないことに戸惑い、バレー部の部員からやめた理由を知っているのではないかと詰問されていらだちます。バレー部の部員もある者はエースの突然の退部に怒り、ある者は戸惑います。しかし、全然関心のない連中も居ます。

多視点を使って何度も「桐島がやめた」金曜日を描くことで、監督は見る者に、それぞれの立場をしっかりと印象づけます。そしてゆっくりと丁寧に物語を描くことで、いつまで経っても画面に出てこない桐島(最後まで画面に映らなかった)を中心とした騒ぎの横で、二人の男子の価値観が浮上してきます。

映画部の部長である前田は顧問の先生に押しつけられた脚本が嫌になり、独自の脚本によるSFを撮ろうと部員を鼓舞します。校内カースト最底辺、透明人間扱いされるか嘲笑されるだけの存在である彼らは、撮影を始めたことで普段なら想像もしなかった女子との会話(それも立ち退き交渉)、粗末でも精魂込めた小道具作り、など次第に盛り上がりを見せます。前田は最後まで桐島事件など耳に入っていないようです。

一方、桐島と同じ仲良しグループの一人、帰宅部の宏樹は桐島が部活をやめるという話に動揺します。宏樹自身、スポーツ万能でサボりっ放しの野球部の部長から今でも試合に出てくれと頼まれる程です。これはスペックから見ると桐島と同じ位置にありますが、彼はだいぶ前に野球部から遠ざかっているにもかかわらず、部長に会う度に気まずいだけでは済まない動揺を見せます。この宏樹と前田が最後のシーン、学校の屋上でする会話がいいのです。

部活に軸を置いたこの映画は、しかし単純に「部活っていいよね」には落ち着きません。剣道部に間借りして窮屈な思いをしている映画部、撮りたい映画を撮れずに先生に脚本を押しつけられている前田、宏樹や桐島と同じく、部活でいい成績をあげているヒロイン、同じバトミントン部に在籍しているのにいっこうに上達しない自分に絶望しているその友達、桐島の抜けた穴に抜擢されるも、実力が伴わずに苦しむバレー部の部員。彼らの姿が少しずつ細切れに描写される中で、前田の映画に対する情熱、宏樹の迷いが次第にクローズアップされてきます。

宏樹の悩みは具体的に描かれません。ただ、桐島がバレーをやめたと言うニュースに、既に野球部から遠のいている自分をもう一度無理矢理見つめる羽目になったことだけがわかります。スポーツ万能の彼を誘う野球部の部長は風体もしゃべり口も坊主のようですが、彼の淡々と野球に打ち込む姿がどうやら宏樹に突き刺さっているようです。

宏樹が何に悩んでいたのかは明かされませんが、彼は実力的にさっぱりな部長が「ドラフトが終わるまでが俺たちの野球だろう」と笑う姿に酷く動揺します。そして、その動揺が屋上のシーンに繋がります。宏樹は本来接点があるはずなのにおそらくは初めて言葉を交わすであろう前田に、壊れたカメラ越しに問います。何故、映画を撮るのか、将来映画監督になるのか。前田は笑って答えます。映画監督にはなれないだろう。しかし、映画を撮ることで、好きな映画に近づくことができる、と。宏樹には返す言葉がありません。

部活を軸に高校生達を描いたこの映画は、会話劇といってもいいほど会話主体であるにも関わらず、驚くほどコミュニケーションに欠けています。同じ教室という狭い空間にいても、自分が属するグループと話をするばかりで、教室全体と話をすることをしない生徒達。その姿は「半径1メートルがお前達のリアリティだ」と映画について語った映画部顧問の言葉に重なります。

戦後自由主義のおかげで過剰なほど価値観の自由を与えられた彼ら(我々)は、あまりに自由すぎて何をどうすればいいのか、悩んだときにすがるものがありません。宏樹は多分考えすぎです。何も考えずに野球部の部長と同じく無心にバットを振ればいいのです。しかし、それができません。実力のある者も、無いものも、部活をしている者も、していない者も、ばらばらの自由を抱えたまま、ふらふら歩くだけです。その自由すぎて狭窄になった視野を、時折はっとするような映像で見せてくれた映画でした。

汚れた心

「汚れた心」はブラジル人監督による第二次大戦後の日本人コミュニティの暴走を描いた映画です。第二次大戦の終結により日本軍は武装解除されますが、地球の反対側にあるブラジルの日本人コミュニティは敗戦の方を「嘘だ」と一言で払いのけます。敗戦は日本人の心をくじくための悪質な情報操作である。この点に疑いを抱く者は大和魂を汚す者であり、心が汚れている。すなわち、国賊である、と。

やがてその主張は、仲介のための通訳を行った同胞である日本人を殺害するに到ります。日本の敗戦を信じていない、良き日本人であろうとしている主人公は、それ故に陸軍軍人に目をかけられて殺人をするよう強いられたのでした。

我々日本人から見ても狂気を感じるこの行いは、実は史実に基づいています。この恐ろしく窮屈で血なまぐさいテーマを、監督は極めて美しい映像として作り上げました。集団による同調圧力が殺人を教唆するほど高いというのは、我々の価値観からすれば「間違っている」という事になります。しかし、監督はその間違いを単に間違いと切って捨てません。日本国の敗戦を信じない大和魂を奉ずる一派の集会を撮る上で、監督は慎重にその中に全体主義的様式美を植え込んでいます。そこには説教臭いメッセージは希薄です、ただただ、人が美しいと思うものを美しく撮ろうとしています。

作中、主人公が何度か自決を強要するシーンがあります。それに対して、中立である者も、日本の敗戦を知ってしまった者も、殺人を教唆した者も、同じ言葉で答えます。

「俺は自決しない。なぜなら、俺は間違ったことをしていないからだ」

この映画の登場人物達は、我々の遠い過去に生きています。与えられる情報はわずかで、多様な情報から自分の意志により結論をくみ上げるなど夢のようなことです。その代りに「正しい市民」「良き日本人」といった確固とした価値観が普遍の指針として与えられています。

監督は映画が極端に説教臭くなることを避けつつ、一方で思想が「良き市民」をすりつぶしていく様、いや、良き市民が思想を受け入れるために自分を滅していく様を注意深く丁寧に描写しました。

二つの世界

どちらの映画が描く世界も、日本人が主人公です。片方の映画は多様な価値観と保証された自由の中でふらふらと歩く若者を、他方の映画は小さな世界の中で正しくあろうと背筋を伸ばしつつ足を踏み外していく市民を描いています。

好対照な映画でした。