映画:『氷菓』についてもう少し

先日ブログに映画の感想を書いた後にも映画化について考えていました。自分の考えをまとめるために書き記しておきます。

小説を映画化する際には一語一句変えずにそのまま映像化することは原則として意味が無いため、当然のように映画には改変があります。その中で一番私にショックを与えたのは、設定やストーリーの変更ではなく

「神山高校の校舎が奉太郎の時代と関谷純の時代で同じ」

事です。

それどころか周囲に建っている住宅も同じで、このときばかりは映画から蹴り出されて(予算の都合か。それにしても…)と考えてしまいました。映画は小説と違って読み返せないので慌てて筋を追っかけたりと、映画館であたふたしたのを覚えています。

神山高校の校舎が今と33年前で同じというのは、かなり厳しいと言わねばなりません。なにしろ映画でも取り上げられた『格技場だけ際立って古い』という序盤のエピソードは、後に『火事の際建て替えられたから、その後他の校舎を建て替えたときにそこだけ建て替えなかった』という原作推理のロジックがあります。うろ覚えではありますが、映画でも校舎は建て替えられた事になっていると思います。ただ、ビジュアル的に全く同じなので困惑が激しいのです。

ということで、映画視聴中は「校舎が同じなのは予算の都合だ」と思っていたのですが、見終わった後1週間ほど考える内に、これはひょっとして狙ってやったのではないかと思うようになってきました。確かに校舎の建て替えは推理の根幹ですから全く同じ姿形として見せるのは観るほうにとって困惑が多いと言えます。しかし後処理で汚しなどをかけることは可能である事を考えると、これはもう奉太郎の最後の推測の舞台を整える壮大な確信犯的筋書きに思えるのです。

奉太郎の最後の推理は、それまでの「理を推す」やり方ではなく関谷純の気持ちを「推し測る」ことで『彼は自ら望んで全校生徒の盾になったのか』を考えます。

それが純が校庭を歩いて去って行くシーンなのですが、ここで奉太郎は校門から入っていくように描かれています。今在校している奉太郎が校舎のベランダから見るでも無く、校庭に立って見るでも無く、一緒に肩を並べて歩くでも無く、校門から入っていく生徒として描かれているのです。『高校生活と言えば薔薇色、薔薇色と言えば高校生活』と決まってるのですから、このシーンでは神山高校自体が薔薇色の高校生活を暗喩していて、その薔薇色からはじき出される関谷純とその薔薇色に踏み込もうとする折木奉太郎という情景が描かれているわけです。

こう考えれば、薔薇色の象徴としての神山高校にとって33年の時間の経過は重要では無くなります。今の生徒、昔の生徒、いずれにとっても薔薇色の生活の舞台であり、だからこそ奉太郎は純と同じ校庭に立ち、同じ家々を背景に、違う方向に歩きながら、しかし薔薇色からはじき出された純の叫びを理解しきって「そんな薔薇色は嫌だ」と叫びを上げる描写が際立ちます。

とまぁ、そんなことで深読み大好きな私にとって、あの校舎は大変おいしい映像とあいなりました。

ところで神山高校を薔薇色の生活の象徴と考えると、映画で何回も映し出された校門は薔薇色の生活とそうでない世界の境界であると言えます。そうすると、どうしても黄泉平坂的に観てしまうわけで、だとしたらラスト近辺で奉太郎と千反田さんが校門のところで話していたのは、イザナギ、イザナミ的だなぁ。と感じてしまった次第です。いや、映画スタッフがそう考えたなんて微塵も思ってはいませんよ。

『古事記』において、イザナギは黄泉の国から追ってきたイザナミから逃げおおせ、黄泉平坂に大石で蓋をし、その石越しにイザナミと今後の日本の国の成り立ちを決める決定的な会話をします。『氷菓』において奉太郎は薔薇色から逃げおおせたわけですが千反田さんに捕まってしまい……本当に薔薇色から逃げおおせることができたのでしょうかね。

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About みとっち
とらドラ!と古典部のSSを書いています。

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