『氷菓』 最終回 「遠まわりする雛」

アニメ『氷菓』最終回を見ました。始まる前はあれほどドキドキしてまだかまだかと焦れていたのに、始まってみればあっという間の半年でした。

春休みを例によってだらだらと過ごしていた奉太郎は、千反田さんから電話で地域の雛祭りを手伝ってくれるよう頼まれます。傘を持って居るだけならと引き受けた奉太郎は、実際には「雛」役が千反田さんであると知らされます。どちらにしてもたいした仕事ではないはずでしたが、雛祭り当日思わぬアクシデントが発生します。

原作「遠まわりする雛」は、古典部の一年をしめるにふさわしい奉太郎と千反田さんの関係を前に進める作品です。この短編に現れるシーンにはいくつもの意味がたたみ込まれており、複雑で繊細な小説になっています。京都アニメーションはそれを見事に映像化しました。最終回を飾るにふさわしい、優しく美しいエピソードとなりました。

男衆

言われて訪れた水梨神社は、奉太郎にとって居心地の悪いところでした。最初にかけた声は黙殺されます。地域の重要な祭りを切り盛りしている男達にとって、奉太郎はどこの誰とも知れない若造に過ぎません。千反田さんの紹介であると言って、初めて取り合ってもらえます。学校の中では入須先輩や遠垣内先輩と言った人達にいくらか認めてもらえる彼も、外の世界では千反田さんの紹介がない限り、何の価値もない人間です。

男衆の声優陣が豪華だとあちこちで話題になっていました。確かに声だけ聞いていると雛祭りを放り出して世紀末大戦争でも起こしそうなメンツです。この起用は見事でしたね。何しろ彼らは雛祭りの実行メンバーですから、地域でも名前が通っている人達です。押しが強く自信家らしい中堅の男性から奉太郎が信用されていない一方、長老格の人物からきちんと客分として扱われている描写など、地方の人間関係の閉鎖性と形式美が短い時間で見事に描かれています。

女衆

一方、奉太郎が呼ばれていったのは千反田さんの着付けの部屋でした。灰神楽が立つような男衆の部屋に比べ、こちらには静かな緊張感があります。屏風の前に座った奉太郎は、まるで貴人の下に訪れた平民のようです。学校では見せない、地域の行事の中での千反田さんの声に奉太郎は戸惑いを隠せません。

奉太郎から説明を聞いた千反田さんは彼に伝言を頼みます。行き詰まっていた男衆はその伝言で問題の解決策を得、忙しく動き始めます。普段、頼られている奉太郎はここでは無力で、いつも奉太郎に頼っている千反田さんは16歳にして地域での信頼を確立しています。

ソフトフォーカス

どのように映像化されるのか楽しみだった千反田さんの雛はソフトフォーカスで柔らかく描写されていました。お見事です。いくら晴れ姿でも、平安風の化粧は今の美的感覚と合いません。神社における雛祭りという文脈の中で初めて映えるものであり、画面のこちら側で見ている我々はHD画質で見せられても戸惑うばかりです。結婚式の写真で花嫁を美しく撮る秘訣はソフトフォーカスだと聞いたことがあります。なるほど、と思います。

一方、神事めいたお祭りに参加した奉太郎は当事者であり、我々とは違う視点でお祭りの花形を演じる千反田さんを仰ぎ見ています。彼の心のフィルタを通して見た千反田さんを表すという点でも、ソフトフォーカスを使ったのは成功でした。この表現のおかげで千反田さんに心臓を掴まれてしまった奉太郎が里志の声で我に返るシーンが、非常に上手い演出となりました。

論理と心情、学生と社会

縁側から桜の木までのシーンは、原作と同じく多くの意味が重ねられています。また、米澤穂信得意のほのめかしが上手く効いているので色々と解釈の幅がある場面でもあります。以下は言うまでもないことですが、私の感想です。

祭りの後の宴会は、田舎の行事に外部の者として参加したことのある人なら誰でも感じるような居心地の悪さを奉太郎に与えたようです。縁側で一息つく奉太郎に声をかけてきた千反田さんは、地域の実力者の娘ではなくいつもの好奇心旺盛な少女に戻っていました。事件の裏に何かあると考えていた彼女は、奉太郎が容疑者に心あたりがあると聞いて、二人で推理を同時に見せ合おうと提案します。二人とも同じ人物を犯人と考えていました。このシーンは微笑ましく、一方で実に古典部シリーズらしい結果でした。

奉太郎は犯人をロジックで導き出しました。全員の言動を観察し、その中から推理を進めて容疑者を絞り込んでいきました。状況と証拠から犯人に迫ろうとする、彼らしい方法ですし、また、それができる能力こそが、高校進学後に千反田さんにより引き出された彼の力でした。

一方の千反田さんは、その人物以外に他人の顔を潰しても平気な人を思いつかなかったと言います。叔父である関谷純の言葉に自分が泣いたのは何故か、脚本家である本郷先輩は何を考えていたのか。問題の要所要所に心情的な興味を持っていた彼女らしい視点であり、以前書いたようにこれは二人そろうことによってミステリの歴史を暗喩しているとも言えます。

しかし、もう少し考えれば、これは彼女が地域にしっかり結びついていることを暗示していることに気づきます。男衆の間でずっとよそ者だった奉太郎ですが、千反田さんにとってあの部屋の男達はすべて知り合いです。

このシーンは事件の解決シーンである他に、二人の性格の違いを鮮やかに描きあげています。そして、省エネの名の下に行動せずに頭で問題を解決しようとする奉太郎と、既に社交をこなしている千反田さんの世界の広さの違いをくっきりと浮かび上がらせています。

少女救済、再び

帰り道。千反田さんは自分の住む世界を小さな社会だと言います。奉太郎より遥に広く活動している彼女ですが、それでも彼女が生れ、戻ってくると決めている世界の小ささには自覚的です。

千反田さんが奉太郎に話したのは、彼女が大学卒業後にここに帰ってくると決めていることと、自分には経営能力がないため理系を選んだということでした。話の内容はまじめそのものですが、彼女は自分自身が特別に魅力的だとも可能性に満ちているとも思っていない世界を奉太郎に紹介したかったと辛そうに言います。このシーンの千反田さんの目の動きが切なくて、何度も見返しました。いいシーンです。

千反田さんは何のためにこの話をしたのでしょうか。自分の世界を奉太郎に紹介したかった、と辛そうに話した言葉には嘘はないでしょう。ではそれだけでしょうか。ひょっとして助けを求めたのでしょうか。この世界を背負うために帰ってくると決めた一方で、彼女は自分にその力が足りていないことを知っています。それをもし、この一年、自分を何度も助けてくれた奉太郎にまた助けてもらえれば、と思いはしたかも知れません。しかし、彼女はその言葉を飲み込んだことでしょう。

『クドリャフカの順番』で幾分皮肉っぽく解説されていますが、千反田さんは自分が「この人なら」と能力を認めた奉太郎に、彼にとっては些細な、しかし自分にとって重要な問題である「叔父の言葉」を思い出させてくれるよう、パイナップルサンドに於いて二人きりで頼んでいます。それは掘り下げるに値する過去を持ちながら、掘り下げる能力を持っていない彼女の切実な頼みでした。薔薇色と灰色の間で揺れていた奉太郎は彼女の頼みを受け入れます。原作では、印象的な彼のモノローグがそれを説明しています。

「俺は省エネの奉太郎。自分がしなくてもいいことは、しないのだ。だったら、他人がしなければならないことを手伝うのは、少しもおかしくはないんじゃないか」

一年経った今、千反田さんは未来においてしなければならないことに対して、自分にはその能力が欠けていることを知っています。そのことを、一年の間に恋心を抱くにいたった奉太郎に打ち明けました。何度も彼女自身が矮小化したように、それは小さな社会の小さな事ではありますが、彼女にとっては重要な問題です。

彼女にとって、それを奉太郎に頼むことができればどれほど良いことでしょう。しかし、性格からしてそれができる人ではありません。彼女は自分が背負うと決めたものが、奉太郎の省エネと整合しないことくらいわかっています。米澤作品のヒロインの常として強い女性である彼女は、高校一年で自分の将来を定めています。そして、今抱いている恋心がその将来と整合しないなら、恋を諦めるに違いありません。

それでも、彼女はいじらしくも気持ちを口に出さないまま奉太郎に自分の世界を紹介します。

もう春です

自分の言葉を飲み込んだ奉太郎に、千反田さんは「もう春です」と微笑みます。

この言葉はどういう意味でしょうか。二人のすれ違いを暗示しているのでしょうか。もっと掘り下げて「あきましておめでとう」から目立ち始めた二人の間の溝を暗喩しているのでしょうか。恋の始まりを暗喩しているのでしょうか。それとも彼女が自分の心の内を告白したのでしょうか。あまりにも解釈の幅が広すぎて、これと言い切ることはできそうにありません。多分、どの意味も含んでいるのでしょう。

しかし、この言葉で桜の花びらを舞わせた京都アニメーションは、私と同じように「恋は始まっていますよ」という意味をくみ取ったのかな、と、ちょっと嬉しくなりました。

最終回

半年続いた『氷菓』も終わりました。途中、脚本がどうのとうるさいことを書きましたが、シリーズを通して質の高い作画と原作に対する敬意が伺える丁寧な作品を楽しむことができました。スタッフの皆さん、お疲れ様。そして、ありがとうございます。

「氷菓」の印象に残ったシーン

アニメ「氷菓」も、あとは最終話を残すのみです。あっという間の半年でした。思い返せば、あれやこれやと印象的なシーンが頭に浮かびます。放送中、脚本がどうのとうるさいことばかり書いて、楽しんだことを楽しんだとちゃんと書いていませんでしたので半年を振り返って印象的な点をピックアップしてみます。

モブが動く!

当初唖然としたというかあきれたのは、背景の人物が動き回ることです。学校生活ですから、部活やらなにやらで人が動いているのは当たり前なのですが、それがもう執拗に動きまわっていました。

部活の殿堂たる神山高校を京アニが全力で表現していたわけですが、原作ではその環境そのものが奉太郎の灰色に対する対比となっています。見事に映像化されていました。それにしても、OPで一瞬出るモブとか、奉太郎の想像シーンで0.5秒くらいだけ表示されるシーンまで人を動かさなくても、と思ったものです。

1話冒頭の新入生勧誘のシーン、モブがまばたきなどする上に、歩く奉太郎に合わせて視線を動かしています。ちなみにこのシーン、奉太郎が心の中で呟く場面ですが、呟いているのは「色恋沙汰にも興味を示さない…」。ばっちりの絵を持ってきてます。あんなにひらっとした服で着飾った綺麗な先輩方に声をかけられて動じないとか、おかしすぎます(笑)。

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『氷菓』 第21話 「手作りチョコレート事件」

最終回まで残すところ2回。今回は里志と摩耶花の間のチョコレートが主題です。

中学生時代、「湯煎しただけのチョコレートは手作りとは言えない」という耳を疑うような理由で摩耶花のチョコレートを拒んだ里志に、摩耶花はリベンジのチョコレートを用意します。執念のこもったそのチョコレートは、しかし千反田さんを巻き込んだ盗難事件を引き起こします。摩耶花に申し訳ないと捨て鉢の行動を起こそうとする千反田さん。その彼女に、奉太郎は必ずチョコレートを取り返すと約束します。

おおむね原作に従いながら、主に心情的な面で結構な改変が行われています。が、不思議と抵抗なく楽しむことができました。京アニの恋愛推しになじんできたのでしょうか。

里志の複雑な心情は、原作でも同じですがなかなか理解しがたい所です。もっと青春時代のほとばしるホルモンに従えよ!と突っ込みたいところです。が、たかだか16歳に過ぎない彼らにとって、頭の中で作り上げた「僕の主義」はすがることのできる数少ない自分自身です。ぽいっと投げ捨てるわけにはいかないのでしょう。

原作に思い入れがあるせいか割と演出に引っかかることの多い番組ですが、今回はむしろ演出と演技に引き込まれるような場面が何度もありました。ちょっと数え上げただけでも、

  • 雪野さんによる、供恵の「哀をこめて」の演技
  • 図書館に駆け込んできた千反田さんを見た奉太郎の「里志、何があった」の演技
  • いきなり「チョコレートを返してください」と切り出す千反田さん(ここから始まる音楽がいい緊張感を作っている)
  • 沢木口先輩のきっぷのいい姉御っぷり
  • 女子トイレの話が出た途端に「出てきます!」と駆け出し、「ありませんでした」と気落ちして帰ってくる千反田さん
  • 部室から出て行く千反田さんに立ちはだかる奉太郎と、その前で止まる千反田さん(普通は逆)

千反田さん役の佐藤さんも放送開始当時は演技に不安があったのですが、今回はばっちりハマリ役を演じていたようです。居眠りしている奉太郎にささやきかけるシーンも良かったです。全体的に声優の演技が光る回でした。

原作から改変された結末は、真相を知った千反田さんが自分だけ蚊帳の外だったと気づきながらも奉太郎に電話をして礼を言うシーンが印象的でした。奉太郎も、千反田さんが何かに気づいたと悟ったようです。この辺は演出と演技がかみ合っていますね。

橋の上のシーン、里志が二重に負けたことに奉太郎が気づいていないところが切ないです。この事件は単に盗みの秘密が暴かれたというだけではなく、その動機を奉太郎に説明しなければならない点で里志には酷でした。奉太郎は気づいていませんが、「僕には第一人者になる才能がない」という里志の諦めは、高校生になって花開いた奉太郎の才能を見るにつけ、里志の胸をじくじくと痛ませています。一切を明かしたわけではないとはいえ、その痛みの源泉を奉太郎に説明しなければならないとは。

「手作りチョコレート事件」の舞台は、バレンタインデー。一年の中でこの日だけは、チョコレートは恋と同じ意味になります。ですから、原作の最後の二行の「チョコレート」を「恋」に置き換えても意味が通るように思えるのは、きっと気のせいではありません。

「氷菓」 20話 密室の少女(と少年)

第20話は「あきましておめでとう」。千反田さんに初詣へと誘われた奉太郎が、ドジを踏んで納屋に閉じ込められるお話でした。

おおむね原作通りであることはいつも通りでした。原作に沿ったところは丁寧な作りが目立ちましたね。携帯電話の下りのコミカルなやりとりや、4つの脱出案も楽しかったです。千反田さん、一緒に出てくるんだ(笑)。

奉太郎と千反田さんが並んだときの釣り合いの悪さは見ていて切なかったです。呼び出されて一緒に初詣に来た。思いの外着物姿に心を奪われる自分に言葉がない。ここまではいいんです。でも、その後は切ないですね。ただ来ただけの自分。父親の代理できている千反田さん。それも、「お遣い」などという自分が知っている世界の言葉で理解していたら、千反田さんは自分を父親の名代であるとし、きちんと社会に通じる挨拶をこなしている。その横で、自分はボンヤリしていることしかできない。それまで、ああ、手のかかる女の子だなぁ、困ったお嬢さんだなと、思っていたのが実は自分の世界観からはみ出した女性だった。やっぱり、切ないですよ。

ただ、それをせっかく絵にできたのですから、原作の「ふと、一瞬だけ、それをさみしいことのように感じた」という奉太郎の独白をきちんと映像化して欲しかったです。既に恋愛推しでイケイケ路線のアニメからすれば今更なのかも知れません。しかし、原作に於いてこのセリフは、それまで「千反田なんか意識していない」という姿勢を貫いてきた奉太郎が、のっぺりとした平原のような自分の心に初めて認めた杭でした。全シリーズ中これほど重要な転回点を、何でもない思いつきのように、さらりと書いてしまう米澤穂信には舌を巻きますが、この文章こそ、アニメで見たいシーンでした。腕の見せ所だったと思うのですが。

余談。TwitterのTLで、摩耶花の「わたし、こいつ狙ってるの」というセリフを聞きたかったと言う声がありました。それを読んで改めて考えてみましたが、このセリフ、面白いですね。「好きなの」じゃなくて「狙ってるの」。狙う、というのは元々遠距離での目標を定める意味があり、暗に相手に悟られずにいる事を含んでいます。たとえば合コンで「お前、誰狙い?」という会話があれば、それは相手の女の子に気づかれずに目をつけている意味です。しかし、摩耶花は前々から里志に公然とアタックしていますし、このセリフも里志の前で言っています。であれば、「狙う」のもう一つの意味でしょう。困難なターゲットだが手中にしようとしている、と。

摩耶花が里志に「求愛中」であることは、彼女の初登場エピソードから知られていた事実です。その、やや刺身のつま的設定は、「クドリャフカの順番」で幾分掘り下げられて、二人の間の気持ちの通じ合いなどが明らかになっています。ただ、摩耶花と里志の力関係から言えば、怒らせると怖いとはいえ、それほど摩耶花が激しくアタックしていると言う雰囲気ではありませんでした。「大罪を犯す」では火を噴くような剣幕でしたが、あれは怒らせた里志が悪い話です。氷菓作成時の締め切りエピソードも同じです。「クドリャフカの順番」ではむしろ弱気の摩耶花が里志にすがりたいような表現がありました。

「狙ってるの」という一言は、里志の心をなんとしても陥落させるという摩耶花のふてぶてしいほどのファイティング・スピリットあふれる恋心を表した最初の言葉だったような気がします。「手作りチョコレート事件」へと続く重要な言葉ですね。

納屋の中で、奉太郎は「これは俺には判断がつかない世界だ」という、実に米澤穂信らしい一言を漏らします。このエピソードで浮き上がった二人の間の溝ともすれ違いとも言えない、小さな、しかし確かにあるギャップは、「外の世界」へとつながり、読者である我々を落ち着かせてくれません。地味ながら、重要なエピソードです。

『氷菓』 19話 「心あたりのある者は」

「それは、折木さんが自分を見つめ直したことが無いからでしょう」

19話を見ました。短編集『遠まわりする雛』から「心あたりのある者は」です。

里志と摩耶花が居ないある日、部室で奉太郎の推理能力を讃える千反田さんに、奉太郎は「推論なんか何にでも立てることができる(だから、当てにならない)」ことを証明してやると言い放ちます。ちょうどそのときかかった校内放送を元に、奉太郎はいい加減な推論を全力で行ってみせます。

推理のパターンとしては一風変わっています。これまでの事件は徐々に集まってくる情報を元に奉太郎が推理するパターンが主でした。しかし、今回はたった一回の校内放送から何が起きたのかを推理していきます。情報が少ない場合には、起きうる事件の自由度が高すぎて、あらゆることが「可能」です。しかし、奉太郎は放送のパターンやタイミングを含めて見逃しがちな点を一つ一つピックアップしていき、何が起きているのかを絞り込んでいきました。この手のストーリーとしては「九マイルは遠すぎる」という名作ミステリがあるそうです。そのうち読んでみましょう。

さて、この話は挫折や後悔とは無縁です。ということで、肩の力を抜きながら、不埒にも放課後二人っきりの時間を過ごす彼らを楽しませてもらいました。いわゆる糖分過多。いやー、甘い話でしたわ。

奉太郎視点で見ると、この話は千反田さんに「俺を過大評価するな」と主張する話です。しかし、千反田さん視点では、探偵折木奉太郎のファンである彼女への大サービスになっています。なにしろ、奉太郎の推論全過程を本人による解説付きで、おまけに貸し切りで見ることができるのです。ファン垂涎のイベントと言ってかまいません。推論してやる!と言われて嬉しげに側へ駆け寄る姿がいじらしかったですね。一気に推論を仕上げた奉太郎の横で陶然となる千反田さんの気持ちを読み切れない奉太郎も相変わらずでした。

原作はともかく、アニメの千反田さんはこの頃には奉太郎の事を意識し始めているようです。まだ恋ではないようですが、だいぶ危ういところまで来ているかな。

演出はそうとうあざといですが、私は今回楽しませてもらいました。奉太郎に詰め寄るときの千反田さんが胸のあたりを押さえているのがおかしかったです。「最後の標的」のとき、千反田さんの胸元に慌てた奉太郎の様子が、里志→摩耶花経由で耳に入ったのかもしれません。「きなってどういう意味でしょう」「知らん」「んー」の掛け合いや、奉太郎の演技が千反田さんに伝わってない様子もコミカルで良かったです。

冒頭にあげた「それは、折木さんが自分を見つめ直したことが無いからでしょう」というセリフ。裏返せば、「私はあなたを見つめていますよ」という意味にとれますし、彼女の表情も恥ずかしげでした。声優の佐藤さんの演技もすばらしかったですね。

二人の会話が進むうちに空の色が変わっていく様子や、ひとつだけ開けられた窓が季節を感じさせる回でもありました。

「氷菓」 第17話 クドリャフカの順番

「クドリャフカの順番」編。終わりました。

神山高校文化祭を騒がせた犯人の最後の標的は古典部か!?生徒達を覆う高揚感を余所に、古典部は放送部を通して宣伝工作を行い、一方で部室に鉄壁の守りを引きます。しかし、多くの生徒が見守る中、十文字はまんまと襲撃を成功させ、十文字事件を完結させます。

エピソード最終話はこれまで集められたすべての証拠が奉太郎の手によって一つの形にまとめられ、彼の思いついた陰謀のエンジンとなります。他方、懸命の努力にもかかわらず女帝に「お前には頼み事が向いていない」と言われた千反田さんと、奉太郎にまったく追いつくことのできなかった里志は大きな挫折感を味わいます。そして摩耶花は自分の二番目の宝物の作者が河内先輩だと気づきます。仰ぎ見るほどの能力を持っている河内先輩が、「夕べには骸に」を読んで受けた挫折と絶望を聞いてしまった摩耶花は誰も見ていないところで1人涙を流します。最後のシーン、彼女ちょっと目が腫れてますよね。

「クドリャフカの順番」を貫くキーワードは「期待」です。この一言を軸に何人もの人が右往左往する姿を描写したのがこの作品だと言えます。しかし、もう少し掘り下げてみれば、期待する人と、能力の高さ故にその期待に気づかない人の物語でもありました。奉太郎は、陸山が田名部の期待に気づかなかった事を聞かされながら、里志が奉太郎にかけた絶望から来る期待に全く気づいていません。アニメではその点について里志からささやかな復讐が成されますが、当然奉太郎は自分が何故そんな意地悪をされるのかわかりませんでした。

さて、以下ちょっと愚痴です。

原作のエピローグは大幅に改変されてしまいました。「クドリャフカの順番」は作中、十文字の意図を説くための鍵として現れ、そしてそもそも動機であったことが奉太郎により明らかにされます。しかし、原作ではもう一つの意味がありました。クドリャフカとは里志によれば宇宙に送られた犬の名前です。これは実話で、スプートニク2号により初めて軌道周回を行った地球生物は犬であり、その名前がクドリャフカでした。一定以上の年齢の人の間では「ライカ」の名前で記憶されています。ソ連は多くの犬を宇宙実験に使っていますが、クドリャフカの前に繰り返し行われた弾道飛行にも犬が使われています。

この「絶望の中で眼下の星に生還の期待を抱きながら死んでいった犬」は、原作では奉太郎と重ね合わされています。田名部と対話した奉太郎は、彼の絶望感におののきます。そして、「絶望的な差の中から期待が生れるというのが妥当とするなら、俺はまだどんな方面についても差に気づいていないようだ」、と自覚します。これは小説「氷菓」の頃から続いている彼自身の自分への客観でもあります。つまり、何物にも夢中になれない彼はそれ故に何かを強く求めることもなく、「身を震わせるような切実な期待を、俺は知らない」わけです。そして彼は思います。「俺にもその『順番』がまわってくるだろうか」と。

この奉太郎の、ほとんど憎々しいほどの「絶望感の欠如」は、他の古典部部員が味わった苦悩と著しいコントラストを成します。

原作最後の1行は、陸山が田名部の気持ちを全くくみ取ることができなかったように、奉太郎が三人の気持ちをくみ取れなかった事を明示していました。一方で最後のサブタイトルが「そして打ち上げへ」であることは、彼もまた、哀れな犬のように自分が絶望する順番を待っているのだと暗示しています。

これぞ米澤穂信というエピローグですが、京都アニメーションにこれを映像化する度胸が無かったのは残念なことです。

キッコーマン

米澤穂信って閉塞感とか挫折を描くときにはこってり味のねっとり舌触りで皿を出してくるものですから、食後もずっと口の中にしつこくそれが残ります。そのくせ、恋愛模様を描くときには薄味の出汁で仕上げてくるんですよね。で、その味の記憶だけがずっと脳裏に何度も浮かぶ。憎い。

アニメは恋愛要素がキッコーマン醤油を皿の上で三回回したようなはっきりした味付けになっています。いい悪いは別として、「美味しいけど、注文したのはこれじゃないよ」という違和感が所々表れるのはこのせいです。

だからこそ、原作既読者としてはこのコース料理の結末が気になるのです。