竜児の愛し方は、いつも通り細やかだった。壊れ物を扱うかのようにやさしく、そのくせ隅々まで愛されて、大河は拒むこともできずベッドの上で身をよじり、竜児にしがみつき、声を上げつづけた。
一際大きな声を上げて身を固くし、そして全身の力が抜けたようにベッドに沈んでから15分ほど。まどろむ竜児の横で、大河が上半身をゆっくりと起こした。
「どうしたんだ?眠れないのか」
問いかける竜児に大河は無言のまま。
真珠色の艶かしい色の背中は煙るような豊かな髪に覆われている。体の前は上がけでしどけなく隠しただけ。豆電球の暗い明かりでも顎のラインの精緻な美しさは際立っている。ミルクを溶いたような白い頬には、先ほどの余音だろう、まだ赤みが残っている。
毎度のことながら大河の美しさに心を奪われていた竜児は、だがしかし、突如全身を凍り付かせる。竜児を見ていたのだ。大河が、つぶらな瞳に黒々とした殺意をみなぎらせて。
「…どうした…大河」
「…どうしたって、何が?」
薄暗くても分かるほど黒々とカッぴらいていた瞳が理性を取り戻し、竜児の顔に焦点を合わせる。理性が戻ってきたように見える分だけ怖い。
「…何を…怒ってるんだ?」
「…ははは…怒ってる?…私が?あはは。変なの…竜児何いってんの?」
しまったーーーーーーっ!
竜児は金縛りにあったまま、全身から冷たい汗を吹き出した。しばらくこんな目にあっていなかったからすっかり油断していた。大河が口にする前に「何を怒っている?」と聞くなど、自殺と言われたって仕方のないおろかな行為だ。その先に残っているのは負のオーラに縛り上げられてゆっくりと窒息していくような、エンドレス不機嫌問答地獄。自殺志願者だってそんな死に方は嫌だろう。
竜児ははっきり意識していた。通り抜けたと思っていた地雷源は、実はまだ自分の周りに広がっていることを。
下ろした足の下でカチリと音がしたことを。
足を上げれば地雷が爆発する。でも、足を上げないとここから立ち去れない。
今や確実に体温を落としつつある竜児の上に、全裸のまま大河が身を重ねてくる。肩の辺りに小さな頭をのせ、静かな声で話すのはいつも通りだが、その声はいつもより冷え冷えとしているし、何より、竜児の胸のあたりの肌をくるくるとなぞっている大河の指が恐ろしい。
「…変な竜児…。あんなに情熱的に愛してくれて…あんなに私に恥ずかしい声を上げさせといて…それでもまだ、私が怒ってるなんて言うんだから…」
艶かしいきめ細やかな肌の大河に絡み付かれて、本当なら2度目の愛の営みへの力がわいてきてもいいものだが、今や汗びっしょりの竜児はそれどころではない。
「…そ、そうか。怒ってないのか…す、すまねえなぁ………いってーーーーっ!」
思わず大きな声を出したのは、大河が指をはわせていた辺りを、いきなり力任せにつねったからである。
「あら嫌だ。大きな声を出さないでよ。私、生まれたままの恥ずかしい姿なのよ。心細いのを我慢して、何もかも竜児に預けてるんだから。せめてロマンチックな気分にさせてよね」
なじる声は地獄の底からつぶやくような見事な低音。
とにかくなだめるしかない竜児は
「お、おう。すまねぇな、気がきかなくて…ってーーーー!やめろやめろやめろ!」
またもやつねられて押し殺した悲鳴を上げる。
「竜児ったら。全然女心を理解してくれないのね。いつまで大声出してるのかしら」
大声で悲鳴を上げたくなるような酷い拷問を与えているのは大河なのだが、そんなことを言えばもっと痛い目にあう。
「すまねぇ。『おっぱいバレー』のことは、謝る。俺が悪かった」
「あら、どうしてそんなことを言うの?不思議ね。私怒ってないんだけど。まるで怒ってるようなこと言うのね。この口?この口が言うの?」
大河のかわいい指が竜児の頬をギリギリとつねり上げる。
「いててててて」
引っ張る、押す、つねる、ひねる。たっぷり3分間竜児の頬に拷問を加えた大河は、いきなり竜児の顎を掴んでぐいっと上向けさせると、
「ねぇ、竜児。聞いて」
耳のそばでアンニュイな声でしゃべり始める。竜児はのけぞり姿勢のまま聞くしかない。
「私はね、あんたが『おっぱいバレー』を見たって知って、ちょっと怒った。それは事実」
がきっと顎を押さえられている竜児には、返事の術はない。
「でもね、そんなことで怒るのは馬鹿なことだとは分かってるのよ。だってあんたは私のことを好きだって言ってくれる。哀れ乳でも可愛いって言ってくれる。その言葉に嘘はないと思う」
だ・か・ら・ね・と、大河は竜児の顎を乱暴に揺さぶる。声は相変わらず気だるい調子。
「私なりに、懸命なのよ。こんなの浮気のうちに入らない。かわいい冗談みたいなものだってわかってるのよ。怒っちゃいけないって、私なりに努力してたのよ」
それを何?と、大河が手に力を込める。竜児の顎がミシッとかピシッとか嫌な音を立てる。あぐぐあぎぃと声を上げる竜児の顎を、黙れとばかり大河が乱暴に揺する。
「私の努力も何も無視して、いきなり押し倒すって何よ。あんた私を押し倒せばいつでも甘い声あげて私が降参すると思ってる?そりゃ悔しいけど、あんたに押し倒されたら、私はふにゃふにゃだわよ。抵抗できないんだもん。へなへなだわよ」
だけどね、と。涙を怒りでとろとろにかき混ぜたような声で耳元で。
「竜児は知っているかしら。喧嘩して仲直りしないまま、せっくすすると、そのうち破局するんだって。ロマンスがなくなるからだって。分かってる?分かってないよね。竜児は鈍感犬だもんね」
ようやく顎を開放されて
「悪かった!すまねぇ大河!」
謝る竜児だが
「黙れ」
冷え冷えとするローテンションボイスで却下される。
「私はね、竜児しか知らないのよ。竜児にしか、肌を許したことないのよ」
「あいたたたた!分かってる!」
肩口にがぶりと噛みつかれた竜児が悲鳴を上げながらこたえる。
「その純情な乙女心を踏みにじって、体で言うこと聞かせるって、どうなのよ」
「痛っ!痛っ!すまねぇ!」
今度は肩胛骨のあたりをぎりっと噛まれる。
「何も知らないうぶな女を思うようにころがせて、さぞかし竜児は楽しいでしょうね」
「っつーーーーっ!違う!そんなこと思ってない!」
今度は頸動脈のあたり。マジ怖い。
「悔しいったら無いわ。こんな男に心も体も奪われちゃったなんて」
「ててててて!すまねぇ!ほんとに反省している!」
嫌に低い涙声の乙女と、嫌に痛々しい押し殺した声の男の深夜の会話は、女が泣き疲れて眠るまで1時間ほど続いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「たっかすくーん!おっすまん…ぎゃーーーーーっ!」
いつもの曲がり角で出会った実乃梨は、いきなり大声を上げて後ずさった。初対面時、竜児のやくざ顔にまったく物怖じせずひまわりの笑顔を投げてくれた実乃梨がである。
「おう、さんこん」
「ちょっと高須君。オヤジギャグかましてる場合じゃないよ。それなんだい?エイリアンでも飼ってるの?って、冗談言ってる場合じゃないね」
実乃梨が心配そうに手を伸ばしてくるのは竜児の頬。昨日の晩、たった三分間傷心の乙女につねられただけだが、内出血を起こし、大福でも頬にため込んでいるように腫れ上がっている。
「いや、ちょっとこけてな」
手をよけながら竜児が言い訳をするが
「ほんとかねぇ。私は容疑者になり得る人物に心あたりあがあるんだけどね。じっちゃんの名にかけて」
「やめてくれ。もし大河だと思っているんなら、違うから」
「そうかい?高須君がそういうならいいけどさ。で、今朝は大河は一緒じゃないの?」
「…」
ふーんと聞こえてきそうなじっとりした目で見ながら、実乃梨はニヤニヤするばかり。
たとえばれていても、自分の口から言わなければ大河の仕業という証拠はない。それでいいと、竜児は思っていた。それでいい。大河が怒るのも無理はないし。この上大河の不名誉な噂まで流れるのは忍びない。
が、大橋高校ではそういう思いやりとか心遣いが報われる事は希である。
◇ ◇ ◇ ◇
「高須君!」
弁当を洗おうとして教室を出ようとしたその時、亜美に呼び止められた。
「おう」
声の方に振り向いたとたんに
「「「きゃーーーーーーっ!」」」
本気の黄色い悲鳴が三つ同時に上がり、廊下中の生徒が振り向く。そして、全員一歩後ずさる。悲鳴の主は亜美、奈々子、麻耶の旧2-C公式美少女トリオ。お前ら、進級しても仲いいな。
「あー、もういいよ。わかってる。そうだ。そういうツラだ。ちなみによそ見していて看板にぶつけたのが原因だ。大河じゃない」
悲鳴なら今日半日、嫌になるほど教室で聞いた。英語の授業中なんか、目が合う度に独身(30)がひっと声を上げていた。
「って何も聞いてないわよ。それにしても酷いね-。タイガーに何されたの?」
「っとに何も聞いてねぇな。大河は関係ねぇ」
つっこむ竜児にぼそりと
「てか、信じらんない。馬鹿な映画見る方が悪いんですけど→」
麻耶が揶揄を投げる。お前なぜそれを、と聞く前に亜美と奈々子がニヤニヤ笑いながら、しかし竜児の顔から目を逸らしながら
「能登くんなんか、誰かさんにひっかかれてたものね」
「ぷぷぷ。まじ信じらんねー。映画くらいでひっかいたり殴ったりって、どんだけバイオレンス生きてるのよ。亜美ちゃん人生にそこまで笑いを求めてないんですけど」
新情報を提供する。そうか、情報が漏れたのは能登も一緒か。
「とにかく、俺のは大河じゃねぇ」
そう言い捨てて立ち去る竜児の横にさっと亜美が駆け寄って、耳元で囁いて、
「どうでもいいんだけどさ、あんまりタイガー泣かすと、あんた殺すよ」
首の歯形を隠すために貼ったばんそうこうをぐりぐりと指で押す。
まったくどうなってるんだ。と、竜児は独りごちる。そういう状況で竜児を殺すのは亜美じゃなくて大河だろう。彼女たちからは見えないが、シャツの下は青あざやら歯形だらけだ。
◇ ◇ ◇ ◇
帰り際、大河の教室に寄ったが姿はなかった。仕方なしに一人で靴箱に行き、履き替える。表に出たところで、校門の人影に気づいた。大河が門柱の所に一人ぽつんと立ってうなだれている。校門のあたりで皆一様に緊張し、端をそっと歩いて出ているところを見ると、殺気でも放っているのだろう。こりゃ早く行かないと犠牲者が出かねない。
早足で近づき、うなだれてダウナーな殺気を四方に放っている大河に
「おう」
声をかける。いきなり、きっとにらみつけた大河は
「あんたねぇ…」
怒気をはらんだ声を出すが、そのまま尻すぼみになる。
昨晩の「おつねり」が竜児の顔に与えた効果に、今更驚いているのだろう。驚くべきだ。こりゃ傷害罪が成立するレベルの話なのだから。
「待ったか?」
照れくさげに微笑む竜児を見つめて、大河の目がみるみる潤む。小さな手を竜児の頬に伸ばして、でも、触るのが怖いように小声で。
「ごめん…竜児…私…こんな…」
「お前が謝るなよ。悪いのは俺なんだから。すまなかったな。お前の気持ち、わかってやれなくて。今度から…その…」
と、周りを見回す。さすがに人前で言うのは気が引ける。近くに誰も居ないのを確認して
「お前を抱くのは、ちゃんと仲直りしてからにするから」
小さな声で、でも、きちんと謝る。大河は赤くなって
「…うん」
と、小さな声で一言。
若干ぎごちないままその日は帰りの道を歩いたが、スーパーで買い物をする頃には、大河もブルガリアヨーグルトのパックを手に持って、竜児にはにかむくらいにはリラックスしてきた。
アパートの前、別れ際に
「ね、竜児。私達、仲直り出来たよね」
と、頬を赤らめて聞く大河は、いつもより3倍くらいかわいかった。
「おう。心配するな。ちゃんと俺たちは仲直りできてる」
笑ってやると、大河も嬉しそうに破顔する。
「じゃ、あとでね」
手を振って走っていく大河を見ながら竜児は
「大事にしてやらなきゃな」
苦笑い。そうしないと、あちこちから殺されそうだ。
(おしまい)
あとがき
スレで「おっぱいバレー」ネタが流行っていた頃です。お約束でみなさんギシアンに持って行ってたので、ギシアンでごまかしきれなかった時にどうなるか書いてみた実験小説です。想像以上に悲惨な結果(w
私の作品にしては珍しく、高校生の二人が婚前交渉してます。
初出 : 2009年5月6日