口移し

「なななななんてことかしら」

高須大河は体重計を見ながら呆然としていた。時は秋。天高く、馬肥ゆる秋。 驚くべきことに、体重計の針は夏から未だ1kgたりとも増えていない。

◇ ◇ ◇ ◇

事の発端は、夫である竜児と知り合った年のことだ。今から思えば懐かしいどたばたの 日々であったが、大河にとっては物心ついて初めて、安心というものに包まれた年でも あった。

竜児は暴虐極まりない大河に対して常に優しく、こまやかな態度で接してくれた。竜児の 母の泰子も大河を無償の愛情と巨乳で包んでくれた。二人の間で、大河の心は安らぎを得た。そして竜児はお料理上手でおまけにたくさん食べると喜ぶと言う奥さん体質の持ち主だった。

食欲の秋×安心×料理上手×食べると喜ばれる。「HUNTER×HUNTER」を見ればわかるように、「×」一個で大変なことになるのだ。なのに、「×」が3つもあった。

その年の秋、大河は太った。プチ太り。大騒ぎの末、教室を阿鼻叫喚の地獄絵に叩き込んで、その年のダイエットは終了した。

以来、秋は肥満の季節である。母親の下で暮らしたときですら、秋は太った。なぜなら自宅で食べなくても竜児にねだってご飯を作ってもらったから。竜児は「これ以上はだめだ、お前また太るぞ」といいつつ、大河がねだると必ずご飯を食べさせてくれた。そして、たくさん食べると喜んでくれた。

大河は思った。嫌よ嫌よも好きのうち。

プチ肥満は秋の恒例行事になった。竜児として結婚して、もはや逃れることのできない業となった。太るたびに、竜児が何らかの血を流すことで大河の体重がもとに戻った。

ところが今年は太らなかった。思い当たる節は、ある。

今年、待望の長男が生まれた。高須の曽祖父である精児に命名を頼んだ。「親ばかと笑われそうだが」と、つけてくれたのは「泰児」。泰子から一文字とった。いい名前だと思う。

その泰児が離乳食の時期になって、ひと騒動あった。みんながおかゆを口移しで食べさせようとするのだ。大河も口移しで食べさせたかった。何しろ、自分のお腹をいためた子だ。

だけど、調べてみると口移しは虫歯がうつるというではないか。涙をのんで、耐えがたきを耐え、忍びがたくさん忍び、口移しは我慢した。口移しをしたがる泰子も我慢させ、園子も 我慢させた。精児は「おおおお俺はくく口移しなんか」と、きょどっていたが、したいとは言わなかったので問題じゃなかった。

◇ ◇ ◇ ◇

問題は竜児である。この、理屈っぽい男が最後まで口移しすると言って聞かなかったのだ。びんたを5発うちこみ、後ろ回しげりを3発食らわしたら、ようやく「ごめんなさい」と謝った。

朝、目が覚めたら「将に口移しで食べさせんとす」状態だったので、飛び膝蹴りを食らわせた。

その晩、正座させて説教してやったのだが、竜児は泣きながら「だって俺の子だぞ、かわいいんだよ」と言いやがった。そう言われるとつらい。

竜児はいつも大河のわがままを聞いてくれる。それは感謝している。本当に感謝している。だから、本当は竜児のわがままを聞いてあげたいのだ。でも、そんなことをすると泰児が虫歯になる。

わがままを聞いてあげたい。でも、虫歯はだめ。

正座をしてうつむいている竜児を見ると、胸が痛んだ。かわいそうな竜児。大好きな竜児。わがままを聞いてあげたい、でも聞いて上げられない。この、世間的には心底どうでもいい極限状況が、大河の脳みそに過負荷をかけてしまった。

「じゃじゃじゃじゃじゃぁ、わわわわ私に口移しして」

だって、私ならいまさら虫歯の心配は無いじゃない、と思ったのだ。だって、竜児とは何度もキスしている。いまさら口移しくらい大丈夫。理論的にはそうだが、顔は真っ赤である。断ればいいのに竜児も竜児

「お、おう」

と、顔を赤くして快諾。かくして、

「じゃぁ、大河、いくぞ」
「う、うん」

お箸でご飯を頬張った竜児がもぐもぐと咀嚼して、真剣な顔で大河に近づく。

「あーん」

目を閉じた大河に口付け。そして、むりゅっと、半消化されたご飯が入ってくる。
んんんー、もぐもぐくちゅくちゅ…ごくん。

「大河…大丈夫か」

嚥下したとき、大河は顔を火照らせて呆然としてしまった。キスとは別次元。子供までいっしょに作った竜児との間に、更なるステップが待ち受けていようとは思わなかった。脳髄はとろけ、視線は定まらず、視界は桜色に染まっていた。

し・あ・わ・せ。

体液の交換など、これに比べれば笑止。それを突き抜けた、倒錯の世界。食べるお花畑。

「…甘い…もう一口…」

◇ ◇ ◇ ◇

でんぷんに唾液を加えると糖に分解される。そんな理科のお勉強を、口移しでやってしまった。大河の妙な気分が伝染したのか、いつの間にか竜児も黙り込む。ただ、黙々とご飯を噛み、たっぷりと唾液で和えて、熱い抱擁とともに舌で押し込んでくる。

唾液を絡め、舌を絡め、はむ、ふむ、んん、くちゅ、もぐ、あうん、ごくん、と愛のご飯が続いた。竜児の腕の中で朦朧としながら、大河は思った。育児書は正しかったと。口移しはだめだと。こんなこと、子供に教えてはいけないと。そして恐るべきことが起きた。

「竜児、私もうだめ。お腹いっぱい」

たった一膳であった。

一ヶ月前の出来事である。食事で朦朧となっても、母である大河は子供の世話をしなければならない。ママとは大変な仕事である。朝から晩までてんてこ舞いだ。そして、唯一家族との心安らぐ団欒のときである、夕ご飯の席では…

はむ、ふむ、んん、くちゅ、もぐ、あうん、ごくん…

毎晩のように竜児の膝に座らせられ、腕の中で朦朧とした。こんなことではいけないと思った。これではだめな大人になってしまう。でも、抵抗できないのだ。ご飯が、トマトが、お味噌汁が、豆腐が、豚カツが、コロッケが、筑前煮が、チャーハンが、杏仁豆腐が、竜児の口の中で魅惑の味に変化してしまう。

ぼんやりと白くにごる意識の中で、昔聞いた言葉を思い出していた。

奇跡のケミストリー。

そんななま易しいものではない。抱きしめられるだけでふにゃふにゃになる竜児の腕の中で、口移しで食べさせられる、口内麻薬。抵抗不可能の背徳の先にあるのは、とても子供にみせられない未来だ。

だから、もうこんなことはやめようと思ったのだ。竜児に相談して、止めよう。とても子供には見せられない。お父さんとお母さんは、こどもに胸を張ることのできる人間でなければ。

しかし。嗚呼。体重。増えてないよ。

泰児が3歳くらいまでは、いいかな。ねぇ、竜児。

(おわり)

あとがき

ちゃんとした短編としては「蹴っ飛ばしてやろうか」を除けば一番古い作品です。もうちょっとエロチックでもよかったかな。

初出 : 2009年4月26日

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