『ぼっち・ざ・ろっく!』と『アキバ冥途戦争』

2022年の最後を飾る秋アニメはきらら系コミックを原作とする『ぼっち・ざ・ろっく!』が台風の目の中心でした。一方で、TVオリジナルの『アキバ冥途戦争』も負けず劣らず強烈な印象を残しています。

以下、両作品について思いつくままに書いてみます。

原作への内挿と外挿が光った『ぼっち・ざ・ろっく!』

10月放送開始当時はそれほど注目されていなかった『ぼっち・ざ・ろっく!』ですが、11月には「今期のダークホース」と呼ばれ、12月に入ってからは堂々たる今期ナンバーワン候補となっていました。

原作はきらら系4コマ漫画です。激しいバトルがあるわけでもなく、黒々とした怨嗟も渦巻かず、淡々と心地よい程度のアップダウンを楽しむのがこの系統の作品です。『ぼっち・ざ・ろっく!』も多分に漏れずあっさり目のコメディとストーリーが続きます。

こういった作品をアニメ化するときには原作通りにしてしまうとあっという間に終わってしまうか、間を取りすぎて間延びした作品になってしまいます。

『ぼっち・ざ・ろっく』では徹底したキャラの理解のもとに、4コマのコマの間で起きていることを内挿しただけではなく、さらには「こんなやり取りもあったのでは」という外挿も行われていました。

例えば、大雨で観客の入りが悪かった初ライブの後の打ち上げで、ぼっちがサラリーマンの会話に耳を傾けるシーンがあります。このシーンは原作だと2コマ、しかもセリフだけです。しかしアニメにはここでくたびれた二人組のサラリーマンをじっくり描いてみませます。このシーンで抜群にうまかったのが視点の切り替えでした。カメラが移動してサラリーマンの向こうにボッチが映るだけでもう視聴者としては爆笑せずにはいられませんでした。ぼっちが将来に不安を抱いていることがきちんと描かれ、それが視聴者と共有されていると確信できているからこその演出です。

作画に関しても、実写アニメーションや特殊効果デフォルメといった挑戦的な描写が多々見られました。これらも原作に描かれているぼっちの精神崩壊表情を踏まえたうえで、「ここまでならやっても大丈夫だろう」という見極めが絶妙だったと言えます。

特に印象深く記憶に残っている場面があります。第6話「八景」で、ぼっちがきくりと出会うシーンです。ここでぼっちのギターを触ってみたきくりが「大事に使っているんだね」とギターを渡すシーンの二人の脚の動きに息をのみました。脚を動かしてギターの移動とのバランスをとる動作が描かれています。

言っちゃ悪いですが、原作は4コマまんがですよ。ここまで描写する必要なんてあるはずないのです。それでもぼっちの体の動きをきちんと描写することで「大事に使っているんだね」という何気ない言葉がきちんとした重さを持ったものになっています。

ところが同じシーンでもきくりに「ついておいでよ」と連行されるシーンでは物理もリアリティも踏み倒して極めて漫画的なひらひらした動作でぼっちが引っ張られています。「きくりに振り回されている」というぼっちの心境がよくわかります。

第6話「八景」より。同じ場所の連続するシーンだが、リアリティに対する深度が全く違う

原作への理解という点では、やはりヒロインに対する理解の深さをとりあげなけれなりません。『ぼっち・ざ・ろっく!』は女の子がバンドをやる様子を楽しく見る漫画ですが、根底にヒロインの

「他人とかかわるのが苦手だが、みんなにちやほやされたい」

という本人も認めるめんどくさい性格からくるハードモードな日常が横たわっています。アニメではこの部分を骨格に見事に作品を肉付けしています。

女の子バンドを楽しく見るアニメのオープニングの冒頭に「広い宇宙の中で押し入れの中に潜り込んでいる」ヒロインの絵を持ってきて、ラストに楽しそうなクラスメイト達を見つめる絵を持ってくる理解の深さがこの作品のクオリティの高さを物語っていると言えます。

オープニング・アニメーションより、冒頭と最後のシーン

一本びしっと通った筋を見せつけた『アキバ冥途戦争』

十人が十人、「なんじゃこりゃ!」と思うような作品でした。

かわいいメイドさんにあこがれて上京してきた和平なごみは、アキバのメイド喫茶『とんとことん』で働き始めます。そこは、彼女があこがれたかわいいメイドの世界ではなく、「メイドなら、殺られる前に殺れ」というやくざな世界でした。

第一話の嵐子の銃撃シーンがあまりにも強烈で、その辺で考えることを止めてしまったような気がします。(ギャグかな)と思ったのですが、放送中盤から(これは大ごとだぞ)と思いながら見ていました。大真面目にやくざ映画をやってる。メイドの恰好で。

途中にギャグをはさみながらも展開するのは、あくまで抗争です。毎回人が死にます。いとも簡単に。モブが死に、ゲストスターが死に、重要人物だと思っていた人が死ぬ。特にすさまじかったのは愛美が登場した中盤の数回で、さすがに彼女は死ぬだろうと思っていましたが、死体の処理には度肝を抜かれました。まじで?メイドさんを?

後半は

「和平なごみはヒロインではなく、和平なごみを通して描かれるヒロイン嵐子」

だと思っていたのです。だって嵐子には持ち歌があるけどなごみにはないじゃないですか。それも最終回直前にちゃぶ台返しでした。

この作品は見ているうちに「なごみは何をしているんだ、この作品はやくざ映画なんだから、メイドなら殺せよ」と思ってしまうのですが、それこそがスタッフの思うつぼ。最終回で凪率いるケモノランドグループ総出のかちこみを迎え撃ってなごみが仕掛けたのが『メイド戦争』。

初回で徹底的に否定した「メイドさんならお客さんを萌え萌えさせなければ」というなごみの主張で平押ししてきます。そんな世界でなかろうが彼女たちは知ったことではありません。とんとことんのスタッフはあおられても怒鳴られてもスマイル接客。

「お前らを殺しに来た」
「ありがとんとん!」

の下りは、この作品の狂気が頂点に達した瞬間です。そしてその後の展開も猛烈な緊張感をはらんだ狂気に彩られています。

怒号が飛び交う中、なごみが歌うのは死んだ嵐子の持ち歌。歌った後に語るのは堂々たるメイドの心得です。

一見これまでの世界観をぶち壊してます。しかし、それを聞きながら誰にも語らず凪が思い出す嵐子は、あくまでかわいいメイドを目指しています。

「かわいいメイドになりたかった」

と言って死んだ嵐子の持ち歌を歌い、メイドはお給仕だと説くなごみ。振り返ってみると、全く違うように見えた嵐子となごみは、二人とも「かわいいメイドさん」にあこがれ、二人とも年齢など歯牙にもかけず貫いています。

恐るべき鋼の意思で練り上げられた筋の通った脚本でした。

(ゾーヤのロシア語に「なんだって!」と返す下り、笑わずにはいらせませんでした)

考え抜くことを楽しんで作られた作品

『ぼっち・ざ・ろっく』とは『アキバ冥途戦争』は全くベクトルが違う作品です。しかしながら、いずれも製作スタッフが考えに考え抜いて作られた作品であり、しかも彼ら彼女らが楽しんで作ったであろうことがうかがわれる作品でした。

素晴らしい作品を作ってくれたスタッフに感謝します。

『タコピーの原罪』はどこまで聖書をなぞっているのか

『タコピーの原罪』上巻を読みました。来月には下巻発売だそうで楽しみです。以下、ネタバレがありますので上巻公開中のエピソードを読んでいない人は気を付けてください。

上巻が各地で売り切れるなど人気がしている作品ですが、内容はちょっと子供に読ませることをためらうような内容です。異能バトルといった架空の設定ではなく、子供たちの生活の上に描かれた作品であるだけに、おろし金で皮膚をはぎ取られるような気分になります。

さて、この作品はタイトルに「原罪」と言う言葉があり、作者が聖書を題材にとって作品を描いたことをにおわせます。その観点で少し考えてみました。

第一話ではタコピーが「訳あってしばらく星に帰れない」としずかに言うシーンがあります。この言葉はタイトルの「原罪」に関連がありそうに思えます。実際、13話にはタコピーが母星にて「掟を破った」として記憶を消され追放されるシーンがあります。そう考えれば、ここでいう掟破りこそが彼の原罪であり、それゆえ母星からの旅立ちは楽園追放であることが想像されます。直接話とは関連していませんが、母星であるハッピー星にはハッピーフルーツとよばれる果物があるそうで、これはリンゴを想起させます。

楽園である母星から追放されているのであれば、当然地球での生活は彼にとって「エデンの外」の話になります。

まりなはしずかを森に呼び出し、ここで凄惨なことが起きるわけですが、タコピーによる介入があるとはいえ、まりなの親の愛をめぐる争いであるこれは「カインによるアベル殺し」を思わせます。また、死体発見の経緯もやはり「アベル殺し」を思わせます。

旧約聖書が犯罪のオンパレードであることはよく知られていますが、この作品にも自殺、殺人、窃盗(未遂)、親殺しといった救いのない話が描かれています。

上巻には7話収録されており、次回のエピソードは14話。救いのないこの話ももうすぐ終わります。一方で、13話で語られた掟の詳細はまだ伏せられており、これがどう話を転がすのか、そもそもハッピー星の使命が本当に「宇宙にハッピーを拡げる」ことなのかはまだわかりません。ヘビであり、アダムとイブであるタコピーがどうなるかもわかりません。

正直なところ、最近の漫画は風呂敷の畳み方で残念な気持ちになることが多いです。実はこの作品についても聖書からいろいろなエピソードをつまんだだけで、あまりきれいな話のまとまり方をしないのではないかと、ちょっと斜に構えています。良い意味で裏切ってほしいものです。

最後のキーパーソンになる東(あずま)君を見ながら、

(そういえば『エデンの東』もカインとアベルを下敷きにしていたなぁ)

などと考えているところです。

前向きの寂しさに彩られた『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』

『ラブライブ! 虹が咲学園スクールアイドル同好会』の放送が終了しました。昨年(2020)の10月から1クール放送された同番組は、直後の今年1月に再放送が始まり、さらに4月からNHKに場所を変えて再放送されるというまさかの3クール連続放送となりました。

これまで私はラブライブシリーズはゲームもしていませんしアニメも見ていませんでした。そもそも、あの異様に主張の大きな瞳が苦手で忌避していた、ということもあります。ただ、東條希だけはその傑出したキャラデザのおかげで辛うじてわかる、と言う状態でしたね。

言っておきますが、本当にほめていますからね。あのキャラデザは傑出しています。

さて、そういう状態でニジガクを見始めたのは実は1月からです。ほぼ前知識ゼロと言う状態で、どのくらいほぼゼロかというと1話の途中まで、

(沼津ってこんなに大きな施設があるんだ)

と思っていました。番組が違う。

さて、そういう状態でぼんやり見始めたものの優木せつ菜の『Chase!』に一発ノックアウトです。正直言って舐めてかかってました。こんなにエネルギッシュで前向きなメッセージを叩きつけてくるなんて想像もしていませんでした。この曲のシーンはアニメも秀逸で、ぼんやりと毎日を過ごしていた脩がせつ菜が歌に込めたメッセージに叩きのめされ、新しい気持ちを胸に抱く、と言う様子が実に鮮やかに描かれていました。キャラデザも例の瞳は抑え気味に描かれており、落ち着いて見ることができます。

そうやってみるみるはまってしまい、結局4月からの3回目の放送も全部見てしまいました。振り返ってみれば、この作品はせつ菜の歌だけではなく、いろいろなところまで細やかに作りこまれた作品でした。特に脚本・構成は見事で1話でアイドルをあきらめたせつ菜を3話で脩が同好会に引き込むまでの流れは緻密かつ以後の話に向けて広がるように作っており、何度見返しても高い満足度を味わうことができます。

せつ菜に反発したかすみが自分の行いを顧みてせつ菜と同じことをしている、と気づくシーンなどその最たるものです。彼女は単にそれを反省で終わらせず、せつ菜の気持ちを汲み、そして「自分とグループ」という高い視点で見つめなおしています。ストーリー全体を通して「自分とグループ」という視点をきちんと持つことができたのはせつ菜とかすみだけであり、4話前半でせつ菜がかすみだけを呼び出して「ソロアイドル」という路線を相談したこともうなづけます。4話ではそれぞれがやりたいことを話し合いますが、それがすべて実現されていくというのも話の広がりとして楽しかったです。

さて、このように全体として楽しい話でしたが、一方で「ソロとしての自己実現」を扱っているがゆえに、私はこの物語に何とも言えないさみしさを感じてしまいました。

ラブライブ!シリーズがグループアイドルを扱っていることはそれまでアニメを見ていなかった私でも知っていることです。それをソロでやる、と言う横紙破りがこの作品を活気づけています。ソロでやることはこの作品では全肯定されており、それはストーリーでも、オープニングでも、エンディングでも歌われています。

言うまでもないことですが、この作品で語られる「一歩踏み出そう」は別れの話ではありません。それは夢に向かって一歩歩き出すことです。しかし、おそらくはメイン・ヒロインのポジションにいる歩夢自身が、前に歩き出すということは別れだと言っています。

「今は私の大好きな相手が脩ちゃんだけじゃなくなってきて、本当は私も離れていってる気がするの」(12話)

これに対するせつ菜の答えが振るっています。

「始まったのなら、貫くのみです」

彼女らしい明るくエネルギッシュなセリフです。前に向かう選択肢しかない。しかし歩夢の悩みをまったく解決していいません。それでも結局歩夢はその言葉を正面から受け取り、(たとえ別れになろうとも)前に進む決断をします。

脩のほうは歩夢と離れていくという気持ちなど別段持っていないのですが、歩夢視点だと、脩は一貫して好きなことが増え続けており、相対的に脩の中の歩夢が小さくなっているのは事実です。10話から始まったもやもやした展開は、結局この事実を「二人が前に進むことの代償」として歩夢が受け入れることでようやく解決を見ています。

最終回のクライマックス『夢がここから始まるよ』は、この番組を象徴するような、夢に向かって歩き始めることを応援する素敵な歌です。しかし、私は画面から制作者も意図していないようなものを拾い上げて勝手に一喜一憂するような人間です。そういう人間からすると、「アイドルの笑みを浮かべた歩夢が背を向けて仲間たちの下へ駆けて行き、カメラがズームアウトしてモニタの中の彼女たちが写る」というシーケンスにも別れの匂いを感じずにはいられません。

高校生のクラブ活動はモラトリアムの最たるものといっていいでしょう。仲間と集い、同じことをする。卒業が来ればばらばらになりそれぞれが違うことを始めるまでのつかの間の結束。しかし、この作品ではグループ・アイドルでありながら個性を尊重しソロ活動を認めることで、同じ同好会でありながらそれぞれが違う活動をする方向に歩んでいます。

「私たちは仲間だ」

というメッセージは繰り返し発せられますが、彼女たちがそれを強調すればするほど、彼女たちが歩む道がすでに分かれていることを感じずにはいられません。その雰囲気はエンディング曲の「NEO SKY, NEO MAP!」にも色濃く表れています。

『ラブライブ!虹が咲学園スクールアイドル同好会』は、グループが結成されて彼女たちの夢が始まる物語であるにもかかわらず、卒業式に唄う歌のような明るい未来に彩られた別離を思わせる、不思議な作品でした。

ウマ娘をインストールして艦これをやめた

ウマ娘 プリティーダービー。大変な人気ですよね。

SNSはどこもかしこもウマ娘、ウマ娘、ウマ娘。Youtubeにもたくさんビデオが上がっており、どうやって育てるか皆さん熱心に語っています。

実際、コンテンツのビデオを見ると感心します。何しろ可愛くて3D。それがフリフリ楽し気に踊って歌いますし、レースシーンは「走る」というこの上もない美しい姿を存分に見せてくれます。

なので、スマホに入れてみたのですよ。で、チュートリアルに入るか入らないかのところでアンインストールしてしまいました。

だってこれ、とてつもない時間簒奪アプリですよ。

3Dモデルの歌って踊って可愛い女の子が、美しい姿で走り回るのですよ。これでしゃべってストーリーがついて、楽しくないわけがない。一日何時間も時間を奪われるに決まっています。

そして、改めて気づいたわけです。どんなゲームも時間を奪うことを手段としているわけですし、私は艦これに時間を注ぎすぎた、と。

昨年の今頃、実はミスで照月を轟沈させてしまっています。その後やる気をなくしてしばらく離れていました。実際、かなりアクティビティが落ちているさなかのことでした。それが夏あたりから再開し、それまで無視していた高難度の任務を一つ一つクリアしていきました。今年の頭頃にはすべての単発出撃任務をクリア完了。

ここ最近はネジ集めのためにウィークリー任務を全クリアする日々でした。でもこれ、ゲームに時間をかけすぎていますよね。

結局、艦これをやめてしまいました。いざやめると、あれほど執着していたネジの数が気になりません。また始めるかもしれませんが、今は別のことに時間を注いでいます。

BNA

ケモノ少女という、ある種のマニアに刺さる設定で始まったBNA。どんなものかと観ていましたが、中盤から何度もあっと言わされました。

  • 二人一緒に事故に巻き込まれた少女たちが、同じ病院で治療を受けいずれも変身能力を獲得しているという伏線。
  • Netflixから資金を得て全世界展開を見越した作品でありながら「狐と狸は化ける」という日本でしか通じない話をあえて持ってきている戦略。
  • 偶然ながらBlack Lives Matterが吹き荒れるこのタイミングで主題が「少数者排斥への抵抗」であること。
  • そして演じるということのポリティカル・コレクトネスが吹き荒れるご時世にあわせたかのような「何が美しいかは自分が決める」というセリフ。

日本での反響はそれほどでもなかったようですが、7月から始まった世界配信がどう受け取られるかは興味があるところです。

全体の構成もうまいものでした。中盤まで時間をかけてヒロインをアニマシティになじませ、アニマシティを取り巻く問題をじっくりと描いた後、話を動かしながら伏線をゆっくりと見せていく手腕のおかげで安心してストーリーを追うことができました。

BNAは私にとって2020年の忘れられない作品になりました。

麻藤兼嗣と鼓田信

亀が出ている作品を『甲羅干し』で取り上げないのは片手落ちだと思いました。

絶賛放送中の『波よ聞いてくれ』。原作は1話無料公開でドはまりした後、1巻発売時からずっとコミックスを読んでいます。アニメは想像以上に高いレベルの作品に仕上がっていますね。原作の面白さを抑えながら、音で食っている人たちの仕事を丁寧に音で表現しています。

声優陣は大原さやかさんが芽代まどかを演じると報じられた時からテンションあがりっぱなしでした。ふたを開けてみると期待にたがわぬ声。そしてミナレ役をこれまで注目されていなかった杉山里穂さんが好演しています。サブキャラも皆さんイメージとドンピシャで、すでに原作を開いてもセリフが声優さんの声で再生されます。幸せなアニメ化ですわ。

さて、本題です。原作を読んでいた時からうっすら気になっていたのですが、アニメを見て再び気になり始めたことがあるので記しておきます。原作にも触れますが、アニメ未放送分の話は出ませんのでご安心を。

麻藤さんと、ミナレさんの父親である͡鼓田信さん、この二人には接点があるのではないでしょうか。いや、接点といわずとも共通の知人がいるのでは。ぶっちゃけ二人はシセル光明と同時期に接触していたんじゃないかと思われる節があります。

まずヒロインの名前です。麻藤さんはミナレさんを高く買う理由についていろいろと理由を挙げています。ラジオ業界に生きる人としてその言葉に嘘はないようですが、一方で彼はシセル光明から30年前にアイヌの言葉として「ミナ・レ(笑わせる)」という言葉を聞き、覚えています。そして信さん(お父さん)。ミナレの名前の由来について煙に巻きましたが、初登場時に電話で

「周りから笑われる人間になれ」

と言っています。これがミナ・レという言葉結びつくんですよね。単なる説教にも聞こえますが、いくら細かいギャグまで拾っているとは言え、アニメがこのセリフを忠実に拾っていることが気になります。

つぎにラジオです。麻藤さんはシセル光明が旅に出るときにスカイセンサー5900をもらっています。作品内の時間から言ってこのエピソードは80年代前半だと思われますが、当時スカイセンサー5900はすでに生産中止。ですからシセル自身が言っているようにお年玉を貯めて買ったのでしょう。ただ、時期的に麻藤さんはこの当時10代だったと思われます。回想シーンでも対等に話している風はありませんから、シセルに対してお姉さん的な憧れをもって接していたようです。

さて、このスカイセンサー5900ですが荒巻き鮭回に出てきたように信さんも持っていました。年齢的に言って中学生くらいの時に手に入れたものでしょう。当時BCLはブームでしたし、ソニーのスカイセンサー5900は松下のクーガー2200と並ぶ大人気機種でした。ですから「偶然」シセルと信さんが同じラジオを持っていた可能性はもちろんあります。

そして場所。麻藤さんが福岡出身であることはミナレさんとの最初の飲みで明かされています。で、信さんですがここが引っかかるのです。ミナレさんが命名理由を尋ねたとき、信さんは自宅と思われる場所で電話を取っています。そのとき、電話の横にケースに収められた人形がおかれているんですよ。これ、博多人形じゃないですか?

アニメ8話『電話じゃ話せない』より。博多人形らしきものが写っている。
原作第28話『電話じゃ話せない』より。やはり博多人形らしきものが描かれている。

鼓田信さんって、福岡に居たことがあるのでは?

最後に人脈です。信さんは娘が深夜のラジオでデビューするのを知っていて、その時間に聞いているんですよね。ミナレさん本人だって夜になって知らされたのに。「知人」から聞いたって誰でしょう(ぶっちゃけ、私はMRSの偉いさんだと思っています。そう考えるとMRS自腹枠にOKが出ていることも納得がいく。でも多分麻藤さんはその事情を知らない)。

ということでまとめです。麻藤さんと鼓田信さんは共通点が多いです。

  • ミナ・レというアイヌ語の意味を知っている。
  • スカイセンサー5900という古いラジオを持っている。
  • 麻藤さんは福岡出身、信さんは何らかの形で福岡に縁がある。
  • 麻藤さんはラジオで働いている。信さんはMRSに知り合いがいると思われる。

あやしい。多分、この二人は30年前にシセルを挟んで向き合っています。今はミナレさんを挟んで向き合っていますね。私はシセルにアイヌ語のテキストを渡したのが鼓田信さんである可能性も考えています。

受け止めきれない

今週、京都アニメーションの第一スタジオが放火され、30人以上の方がなくなるという大惨事が起きました。

そのことをどう受け止めるか、まだ自分の心の整理がついていません。このブログには京都アニメーションの作品のことをいくつも書いています。そもそもこのブログを始めたのは、米澤穂信の『氷菓』が京都アニメーションによってアニメ化されるというニュースを受けてのことでした。放送が始まる何ヶ月も前から指折り数えるようにブログを書き、放送が始まってからは翌朝5時に起きて録画を見る、そして感想を書くことの繰り返しでした。

それ以前、『鈴宮ハルヒの憂鬱』は見たことがあったものの、それほど京都アニメーションという会社を意識してはいませんでした。しかしながら、『氷菓』という作品は、前評判で聞いていたとおり、原作に対する深い理解と真摯な態度がひとこま、ひとこまから伝わってくるような、丁寧で美しい作品でした。

そしてまた、『響け、ユーフォニアム』も、丁寧で美しい作品でした。劇場で見た『リズと青い鳥』も同じです。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も、喜劇風味の『たまこまーけっと』ですらそうでした。

いずれの作品も、絵が美しいだけでなく、登場する人物の心情がスタッフによってよく理解され、そしてセリフだけではなくアニメーションとして表現されている作品です。これらは京都アニメーションの作品に多かれ少なかれ広く共通する特徴と言えます。

なんだか、ここまで書いて嫌になってきました。まるで追悼文じゃないですか。誰も、京アニがこれで終わるなんて公式発表はしていません。それでも、ニュースや社長の談話から伝わってくる話は、いずれも天を仰ぎたくなるようなものばかりです。

京都アニメーションが作った作品はいずれも素晴らしいものです。それらに関わった人々が、炎と煙に巻かれて理不尽に命を落としていったということを、どうしても受け入れられません。作品にクレジットを残した人も、残さなかった人も、こんな人生の終わり方をしていいはずがなかったのです。

呆然とした日を送りつつも、自分が京アニから、亡くなった方々から受け取ったものが、自分の予想を遥かに超えて大きかったのだな、と噛み締めています。

せめて、自分の日常くらいは早く取り戻さなければと考えています。

作品としての『ゾンビランドサガ』を振り返る

『ゾンビランドサガ』の最終回から2週間経ちました。ようやく落ち着いてものを考えられるようになってきた(ほんとか?)ので、ここで作品としての『ゾンビランドサガ』について振り返ってみます。

この作品に関しては最終話の思わせぶりなCパートのおかげで「2期確実」みたいな声もありますが、ここでは「全12話で完結した作品」として見ることにします。つまり、作品を作った人々は12話で過不足無く『ゾンビランドサガ』という世界を視聴者に伝えたと考えて作品を俯瞰してみます。

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『ゾンビランドサガ』方向はわかった

4話視聴しました。

どうやらプロデューサーが連呼していたとおり、彼女たちはアイドルを目指しアイドルとして活動するようですね。作品自体もダンスシーンは3Dでやるアイドルアニメということで落ち着いたようです。

そうすると、1-3話が話の始まりで4話から中盤みたいな区切りでしょうか。中盤では佐賀県のあちこちを紹介しながらギャグコメディを繰り広げるアイドルアニメになりそうです。まだ呼子とか有明海とか有田とか残っていますし。佐賀県は先日行われたバルーンフェスティバルも有名です。

ところで残る謎はどうなるんだ、という疑問が当然浮かび上がってきます。

  • たえの出自となぜまだ意識が戻らないのか
  • さくらはなぜ記憶を取り戻さないのか
  • プロデューサーの正体

プロデューサーの正体はプロジェクトの真の理由と直結しています。

何しろハチャメチャな作品です。このままギャグコメディとして最後まで突っ走る可能性だってありますが、それはそれで楽しみながら先の展開を見ていきましょう。

『はるかなレシーブ』

2018年夏アニメの『はるかなレシーブ』。こういっちゃなんですが、予想外に楽しかったです。

沖縄に転校したスポーツ大好きなヒロインがビーチバレーに打ち込む。というと、水着シーンだらけのウハウハアニメに思えます。実際、そういうシーンは非常に多い作品でした。ところが、どのエピソードもキャッチーな出だしから始まってあっという間に試合や練習シーンに引き込まれていくことの繰り返しでした。ストーリーは薄かったですが、逆に有り余る時間を使って試合の緊迫感や登場人物の考えにフォーカスした脚本の勝利でしょう。

作画も夏らしい空の深い青が印象的なほか、瞳がずいぶん印象的でした。

当初は登場するきゃらがうじうじしてばかりでどうしたものかと思いましたが、後半にかけてまっすぐでからっとしたスポーツものになったのがよかったですね。

音楽も記憶に残る、よい作品でした。