紺色の研究

価値観というものはあくまで個人的なものであり相対的なものだ。

たとえば、ある人がある形を好んだとして、それが、その形に普遍的な価値があるということにはならない。あくまでその人がその形を好むと言うことでしかない。何万人という人が同じ形を好いたとしても、それはその形に集団的かつ絶対的な価値をあたえない。あくまで、統計量として多くの人がそれを好むということでしかない。

だから、形自身に貴賎はない。ただ、好悪があるだけである。そんな話を地学講義室で福部里志に向かってしていたら、いつもの薄ら笑いを浮かべた里志があさっての話をしはじめた。

「なるほど、ホータローは美に絶対基準は無いというんだね」
「そんな事は言っていない」

俺は価値観といっている。美は価値ではない。美には美観という別の観点がある。いっしょにするな。だが、そんなことを言って通用する相手ではないことは、最初からわかっている。こいつはよほど興味がない限り、こちらの話など聞かない。美観、価値観とは奴自身が判断すべき事であると考えており、だから里志は基本的に暇つぶし以上の関心はこの会話には持っていないだろう。里志は相変わらずの薄い笑いを浮かべたまま、椅子に座って本当に楽しそうに勝手なことを言い放つ。

「僕もホータローに賛成さ。いったい誰がミロのビーナスが女性美の最高峰だなんて決めたんだい?僕は賛同しないね。僕の女性美は僕が決めるよ」

何に付け徹底的な調査を惜しまない里志のことだ。どうせ女性美にもそれなりの調査を行った上での言葉だろう。そういって揶揄すると、どうやら、その通りだったらしい。つまり、俺は間違ったボタンを押したわけだ。

「さすがホータロー!僕の理解者がこんなに近くに二人もいるだなんてこれを幸せと言わずになんてよべばいいんだろう」

こいつとは中学からのつきあいで、今年入学した高校までその腐れ縁を引きずっている。その上、部活まで同じときた。何が悲しくてたった四人の部活のに里志のような腐れ縁がついてくるのか。まぁ、これはあくまで修辞上の嘆きだが。里志は時折くどい奴ではあるが、基本的に気を許していい相手ではある。理解者と数えられていても不思議ではない程度に仲はいい。

「その数に俺が数えられているのは残念だが、残りの一人は誰なんだ」

わかってはいるが一応確認してみたのは牽制のためである。

「もちろん摩耶花さ!」
「ふん、その割には冷たくあしらっているようじゃないか」

伊原摩耶花と俺のつきあいは、里志より長い。小学校1年生から中学校3年生までずっと同じクラスだった。ただし、その間ほとんど話をした記憶がない。おそらくは先月里志と話をした数のほうがずっと多い。先月は夏休みだったというのに。

伊原摩耶花は俺や里志と同じく古典部部員だが、今日は部室……ここ、地学講義室だ……には来ていない。つい先日まで続いた文化祭用の文集のとりまとめを終えて印刷所へ渡し終わったあと、奴はあまり部室に顔を出さなくなった。掛け持ちしている漫画研究会が忙しいのだろう。あちらも文化祭には出展するはずだから。そもそも伊原が古典部に入部したのは里志を追ってのことだ。本来奴は漫研の部員であり、里志に求愛中でなければ古典部になど入らなかったろう。

「ホータローにはわからないさ。まあ、その話はこのくらいにしとこうか」

おっと、怒った。いつもはこの程度では怒らない奴だが、今日はいつになく沸点が低い。

里志がトーンを落としてこう言い放つときには、奴は怒っている。別に怖いわけではないが、要するに伊原と里志の事は放っておけということだ。俺も別に首を突っ込みたいわけではないから、少しおどけて両掌を顔の高さに上げて目を丸くしてみせる。わかった、抵抗しない、怒るな、のジェスチャー。

里志は里志で少し気まずくなったか、さっと表情を明るく変えて話題も変える。

「ところで、奉太郎。写真機部の顛末は知っているかい?」
「写真機部…写真部じゃないのか」
「写真部は別にあるんだ。写真機部はそれとは別だよ。というか、あったんだ。つい先週まで」

俺たちの通う神山高校は文化部の活動が盛んなことで近隣に名をとどろかせている。似たようなジャンルで二つの部活があっても不思議ではない。

「で、その写真機部がどうした。廃部にでもなったのか」
「うーん。そこが面白いところさ。この話にはちょっとした謎がある」

嫌な予感がする。背筋のあたりがぴりぴりするというか、これは予感と言うより条件反射だ。謎とか不思議とか言う言葉を聞くと、必ず『奴』が俺の安寧を踏みつぶしに来る。

「聞かせろ」
「ほいきた。ところで写真機部の話を知らないということは、女子の水着写真が取引されていたという話も知らないよね」
「知らない。写真機部がやっていたのか」
「結果的にはそうだったんだよ。水泳授業の盗撮写真について夏休み前から謎の宣伝活動がおこなわれていたんだね。実際に写真が注文者の手に渡ったのは2学期に入ってかららしいけど。1枚100円だと言うから、基本的にはたいした悪事とは言えない。100人が買っても1万円さ。荒稼ぎにはほど遠い」
「しかし、品のない話だな」
「そのとおり!これは我が神山高校の品位の問題さ。だから生徒会と総務部で連携して捜査を行っていたのさ」
「生徒会だけでは人手が足りなかったか。なぜ教師に話をしない」
「人手というか、これは目と耳の話でもあるんだけどね。総務部は各部との連携が強いからこういう時には情報をあつめやすい。それから先生だけど、その段階では犯人の経歴に傷を付けていいかどうか判断がつかなかったのさ」

なるほど。教師にまかせると一発停学もありうる話だ。というか、全部秘密活動じゃないか。知ってるかいもなにもあるか。知るわけがない。

「犯人が写真機部だとわかったのが先週の頭。で、最後の証拠固めをしているときに事件が起きたんだ」

そう言って里志は思わせぶりに間を置く。さぞかし楽しみながら話しているのだろう。

「写真機部の生徒がひとりずつ欠席を始めたのさ」
「雲隠れか?」
「それが違うんだな。調べてみたら全員怪我していた。入院する必要が無い程度ってのがまた絶妙なんだけど、『叩きのめされた』ってのがぴったりの怪我だよ」
「犯人は」

つい釣り込まれて俺は身を乗り出す。というか、『奴』が食いつくとしたらそこだ。

「関心があるみたいだね」
「千反田が息巻いて来そうだから困る」

里志が楽しげに喉の奥で笑う。千反田える…俺が『奴』呼ばわりしている女生徒…は俺たち古典部の部長だ。部長と言っても俺や里志、伊原と同じく1年生。3年連続で新入部員のいなかった古典部は廃部直前だったのだが、俺と千反田が入部したことで廃部を免れ、その後里志と伊原が入部して今に至る。

千反田えるは里志言うところの豪農千反田家の一人娘で、だまってにこにこしていれば楚々とした姿のお嬢様だ。しかし、その印象は詐欺だ。こいつの本性は目に現れている。清楚な姿かたちの中でただ一か所清楚とか楚々といった言葉にあわない大きな目。普段はおとなしいし、友達思いのまじめで優しい奴だが、その好奇心に火が付いたら目を輝かせて猪並の馬力で突撃を始める。そして、どういうわけか毎度毎度それに振り回されるのは俺だ。理由は分からないが千反田はいつも問題の解明を俺に振ってくるのだ。

だから俺は千反田が興味を引きそうな話が耳に入る度に過剰反応する。

「千反田さんの心配は無いよ。襲撃に関しては外に漏れていない」

そりゃよかった。

「で、犯人はわからないんだけど、襲われた3人のうち2人が『木刀を持った女の子だった』って言っている。とすると、水泳授業盗撮の被害者である可能性は強いよね。暴力はまずいけど、写真機部にも非はある。部員が全員襲われたことで、彼らとしては生徒会に廃部を申し出ることに成り、この件は内密のまま処理されるってわけさ」

たった3人しかいなかったのか。さみしくなかったのだろうか、と俺は古典部を棚に上げて思いを巡らす。まぁ、どうでもいいことだ。

「木刀を持って校内をうろつく犯人は放置か」
「襲われたのは校外だし、私服だったって言うから、建前上は神校生かどうかはわからない。表沙汰にすると本当に警察沙汰になるし、そもそもホータローは水着写真を売りさばいているのかい?」
「何を言い出す。そんなわけあるか」
「じゃ、襲われる心配はない」

里志が得意げに笑う。確かにそのとおりではあるが、自分が被害者にならないから犯人を野放しにしていいとはまた剛毅な話だ。俺が生徒会長だったらこんな柔軟な判断をできるだろうか。柔軟と言うより、でたらめに近い。

「で、壊滅した写真機部の部室に先週末生徒会と総務部で乗り込んだのさ。部室や機器の召し上げが表向きの理由だけど」
「フィルムだな」
「うれしいねぇ。聞き手の頭の回転が早いと話すほうも楽しいよ」

部が壊滅したとしても、部室にはおそらくフィルムや写真が残されている。当然女子の水着写真のだ。放置するわけにもいかないだろう。

「フィルムは全数押収したよ。問答無用で焼却さ。ざっとコマ数を調べるに女子生徒全員が写っている可能性があった」
「最低でも500コマか」
「いやいやホータロー。それは単純にすぎる。ひとコマに3,4人という写真もあれば、ひとりで何枚も写ってる子だっているだろさ」
「なるほど。しかしまぁ、全クラスの水泳授業の撮影をしたのか。ご苦労なことだ」

俺はそのしらみつぶし作戦に費やされた労力に想いを馳せて、身震いする思いだった。

「校風が緩いとはいえわが校は仮にも進学校だよ。どうやって授業を抜け出したのかには大いに興味をそそられるね」
「だろうな」

里志のことだ、今後何があるかわからないなどといいながら、そのエスケープ手法の応用について検討しているところだろう。そのあたりの貪欲さは俺と違う。

「フィルムは分かったが写真はどうだったんだ」
「そこだよ」

里志のうすら笑いが少し思わせぶりになる。

「取り調べの結果、実際に売ったのは30枚程度だって分かっている」
「意外と言ってはわるいが、少ないな。いや、多いのか?」

俺には同級生の美醜を語る趣味はないが、美人といえるのはさすがに一握りのはずだ。とはいえ、人気のある女子には複数の注文が入るだろうから、30枚というのは少ない気がする。

「ホータロー、被写体には注文が殺到する人と、ゆっくりと注文が来る人がいるらしいよ」
「どういうことだ」
「前者は誰もが異をはさまない派手な美人さ。それから、もうわかると思うけどこれは水泳授業だ。体の線で人気のある女子もいる」

里志が声のトーンを落とす。すこし遅すぎる気がするが。それはともかく、言っている意味はわかる。

「いっぽうで、そうじゃない子もいるんだよ。ひそかに人気がある子とか、あるいは誰かに思われている子とかね。そういう子の注文は少量が後からゆっくり集まるらしいよ」
「そんなものか」
「そういうわけで、部室には現像済みの写真、たぶん第二回配布の分だね。これが50枚ほどあった」
「商売は右肩上がりだったようだな」
「そうだね。写真も押収したよ。押収した分はやはり問答無用で焼却さ」
「なるほど」

こうして謎の襲撃者の素性は知れぬまま、盗撮された写真がこれ以上広まることは阻止され、不埒な写真機部は壊滅したわけか。めでたいことだ。ひとつを除いては。

「で、押収されなかった分はどうなるんだ?」
「すでに注文者に手渡されていた分は回収不能だよ。彼らなりにいろいろ考えていてね、購入者のプライバシー保護は完全なんだ。そもそも、彼らは誰に売ったのか、自分たちでもわからないようなしシステムを作り上げていたよ」
「頭の回ることだな。ところで里志。俺が聞いているのは、その分じゃない」

机に腰掛けている俺を椅子に座った里志が見上げる。ほほ笑みは実にうれしげだ。

「さすがホータロー。どうしてわかったんだい?」
「簡単なことだ。フィルムは全数押収だと言ったが、写真は押収だとしかいわなかった。つまりその場にあって押収されなかった写真がある」
「ふむ。僕も口に気をつけなきゃね」
「俺を試そうと思ってわざとそう言ったんじゃないのか?」
「それはひどいよホータロー」

里志が抗議する。薄笑いのままだが、どうやら試そうとしたわけじゃないらしい。へらへらしている奴だが、虚言癖はない。

「正確さを心がけるあまり、無意識に口が滑ったようだね」
「ふん。なにかありそうだな」
「もちろんさ!ともかく、ホータローの推察通り、生徒会と総務部が押収したのは現像済み写真の全数じゃないよ」

そういってにやにや笑いをしながらいつもの巾着から里志が取り出したのは、3人ほどの女子が写っている水着写真だった。

「伊原か」
「もちろんさ」

言いながら、確認できたならもう見るなと言わんばかりにひっこめる。

「お前にそんな趣味があったとはな。というか、写真くらい、ねだればくれるんじゃないか?」

伊原はずっと前から里志に交際を迫っている。それがいつからなのか俺には分からない。里志はのらりくらりとその申し出を避けているが、いっぽうで、伊原を嫌いというわけでもないらしい。むしろ、時々漏れる言葉の端々には、伊原に好意を抱いている節すらうかがわせる。俺には関係のないことだが。

「ホータローはまったくわかっていないね」

そう言った里志は今度は口だけで笑った。眼は笑っていない。

「僕は水着写真がほしくて危険を犯したわけじゃないよ」

詳細を言う気は無いようだが、袖にしている割にはこだわるじゃないか。伊原が聞いたら喜ぶぞ。

「何が目当てかは知らないが、生徒会にしたってどうせ焼却するんだろ」
「まあね」

口の端にだけ薄い笑いを浮かべたまま、あくまで言葉を濁す。俺のほうは、そもそもやつの恋愛感情になど興味はないし、先ほどの件もあるので話を打ち切るつもりでいたのだが

「まぁ、そういうわけだよ。焼却されるのは2枚を残して全数。残りの1枚は、ほい。これはホータローの分」
「お前!」

巾着から取り出されて押しつけられたもう一枚の写真を手にとって、俺はかっと上半身が熱くなるのを感じた。残暑真っ盛りだ。汗が噴き出す。

写真にはこれも3人ほどが写っている。真中で隣の女子達と談笑しているのは神山高校古典部部長、千反田えるその人だ。ほっそりとした体を包む紺のスクール水着は、危ういほどに体の線をあらわにしている。水着から伸びた足はドキリとするほど眩しい。長い髪は編んでいるようだが、これは珍しい。学校指定の水泳帽が妙に罪悪感を煽る。水から上がったばかりなのだろうか、肌の上の雫がなまめかしい。

「どういうつもりだ」
「これをホータローが信じてくれるかどうかわからないけど、どういうつもりもないよ。揶揄もからかいもなしさ。僕はホータローが千反田さんをどう思っているか知らないし興味もない。ただの友達であっても、恋人関係であっても驚かない。でもまぁ、千反田さんも僕の大事な友達さ。
だったら、これはホータローの担当だよ」
「わけのわからない事を」
「別にわけのわからない事じゃないさ。摩耶花は僕を追って古典部に入った。だから摩耶花の写真は僕の担当。ホータローは初対面の千反田さんの前で『密室の少女事件』を解いた。だから千反田さんの写真はホータローの担当」
「いい加減にしろ」
「それほど困るなら、破って捨てるなり焼くなり処分すればいいさ。とにかく、これは渡すね」

だからどうして俺なのだ。そんなものをもらっても困る。まったく筋の通らないセリフに腹が立つ。自然と言い返す口調が強くなるが、全部言い終わる前に聞こえた物音に、俺たちは二人揃ってはじかれたように入り口に顔を向けた。

「遅くなりました」

千反田が部室の入り口に立っていた。二人して緊張気味に見つめる俺たちに何か感じたのか、表情を少し翳らせて小首をかしげる。

幸い自分の体で千反田から死角になっていた写真を里志に押しつける。里志も何食わぬ顔でポケットへと滑り込ませた。写真の出所である巾着は、先ほど口を絞ってしまったので緊急退避所には使えないようだった。

「なんのお話ですか?随分大きな声を出してていらっしゃったようですが」
「俺は怒ってないぞ。エネルギーの無駄だからな」
「喧嘩じゃないから安心してよ、千反田さん」
「そうですか。ちょっとだけ心配しちゃいました」

安心したように微笑むと、部室に目を走らせる。

「摩耶花さんは今日は?」
「漫研だって」
「文化祭の準備ですね。お忙しそうですね」

そう言って鞄を机の横にかけた千反田が、ふっと顔色を変えた。嫌な予感がする。

「いけない。わたし、忘れていました。お二人は写真の話をご存じですか?」

来たか。

写真の話なら知っている。問題は、写真の何の話かと言うことだ。木刀を持った物騒な女の話だとしたら、とんでもないことになる。里志は機密だから大丈夫だと言っていたがどこまで信じていいのやら。

「写真がどうかしたの?」
「その、女子の水泳の授業風景を誰かが写真に撮って売っていたらしいのです」
「ああ、その話か」
「知ってるんですか?」

ずい、っと寄ってくる千反田に気圧されてのけぞる。端正な作りの顔が視界の中でぐっと大きくなり、肌に浮いた汗の様子が手に取るようにわかる。生々しいことこの上ない。

「その話なら里志から聞いた」
「では犯人を捜しましょう」

そっちだったか。助かった。木刀女と対峙するなどとんでもない。俺は気圧されて体をかしがせたまま指で里志を示す。

「犯人なら、ほら」

すっと千反田が顔を動かして指さされた里志を見つめる。そしてそっと身を引くと俺の後ろに隠れた。

「福部さんは、そんな事をする人じゃないって思っていました」
「おい」
「酷いよホータロー!」
「俺か!?」

勘違いしたのは千反田なのだが、里志の非難は俺に向いている。千反田に遠慮してということも考えられるが、素直にとれば俺の言い方が悪いと言うことか。どうやら省略しすぎたらしい。

「千反田。里志は犯人じゃない。里志が犯人を知っているから聞けということだ」
「そうでしたか。失礼しました」
「いや、いいんだけどね」
「いろいろな事にご関心をお持ちなので、ひょっとして水着にも、と…」
「…」

うむ。それほど的を外していない嫌疑だったかもしれない。

◇ ◇ ◇ ◇

結局、その日は写真機部のスキャンダルを、幾分事実を覆ったまま千反田に話し、口外無用と釘を刺すと、あとは粛々と部活に勤しんだ。古典部はなかなかに忙しい。活動中はほとんど誰も口を利かないことがある。俺は100円均一で買ってきた文庫本の続きを読み、里志は手芸のデザインだか何だかの検討をしている。部長の里志も図書館で借りた本を読んでいるようだ。

あまり忙しいとは言えないな。

「じゃあ、僕はこの辺で」

そういって里志が部室を出たのは下校時間の30分ほど前だ。外でマーチング・バンド部が練習している曲が聞こえる。文化祭を前にして、校内は幾分ざわつき気味だ。古典部は文化祭に文集を出す予定だが、すでに印刷に回してしまったので、もはややることはない。

「お疲れ様です」

そういって里志を見送った千反田が、たぶんこちらを振り向いたのだろう。身じろぎする音が聞こえた。

「折木さん」
「なんだ」
「私も今日はそろそろ失礼しますが、折木さんはどうしますか?」

千反田にしては早い。何か家の用でもあるのだろう。俺は家に帰っても何も用はないが、読んでいる本のきりが悪い。もう少し読みたいところだ。一方で、そうなると戸締りを一人でやることになる。面倒だ。

「面倒なら一緒に戸締りして帰りませんか」

む。顔に出たか。にっこりとほほ笑まれて

「ああ、そうするか」

と、つぶやく以外に選択肢があったら教えてほしい。俺たちは二人で戸締りを終えると、職員室に鍵を返して校舎を出た。

◇ ◇ ◇ ◇

「お待たせしてすみません」
「いや」

自転車をとってきた千反田と言葉を交わす。

「暑いな」
「そうですね。もう秋と言っていい季節ですが、日が当たるところはやはり暑いです」

そういう千反田はちっとも暑そうじゃない。毎度のことだが耐性が高いのかそういうことを顔に出さないようにしつけられたのか。俺は口をへの字にしながら、どうでもいい話を振ってみる。

「いつまで続くんだ」
「暑さがですか?」
「そうだ」
「暑さ寒さも彼岸までといいますから、暦の上ではもう少しですね」

暦の上の長期予報がどの程度正確なのか気になるが、詮索しても今の暑さが和らぐわけではない。むしろ暑い時期があるのにその対策が施されていないことのほうが問題だ。大体学校なんて無駄に土地があるのだから木をもっと植えればいいのだ。校門に続く道に木陰の一つもないことを不満に思っている俺の横で、千反田が声を上げた。

「あれは福部さんと摩耶花さんではないでしょうか」
「ん。あれか?」

校門のあたりで男女二人が何か話している。よくまああんな遠くがわかるものだと感心しながら、観察していると、どうやら女が男にがみがみ言っているらしい。となると、伊原と里志の可能性は低くない。もっとも、千反田はその驚異的な視力で認識したのだろうが。

別にそれに興味があったわけではないが、学校から出ようとすれば校門を通るしかない。結局近寄ってみるとやはり里志と伊原だった。

「何してるんだお前たち」
「やあ、ホータローに千反田さん」
「折木には関係ないでしょ」
「お二人とも喧嘩はいけませんよ」
「ちーちゃん…」

古典部の人間関係がよくわかる会話が交わされた後、伊原が憤懣やるかたなしといった表情で千反田に写真を見せた。あろうことか、例の写真だ。

「見てよちーちゃん。ふくちゃんったら、こんな隠し撮り写真持ってたのよ」
「まぁ」

こんな時も上品に口を押えて驚く千反田の横で、俺も驚いていた。なぜ見つかるような馬鹿なことをした。

「よく見つけたな」

と、伊原に聞いたのはポーズに過ぎない。こんなに怒っていては質問に答えが返ってくる可能性ははなはだ心もとない。だが、案の定答えは得られた。

「いやぁ、さっき財布を取り出そうとしたらポケットから落ちちゃってさ」
「ジュースでも買う気だったのか」
「まぁね」

大して真剣に聞いているわけではないが、答えもいい加減だ。どこに自動販売機がある。そんな言葉を交わす横では、伊原が千反田にあれこれと里志の所業を並べている。幾分関係ない話も混じっているようだが、それは里志の普段の行いのせいだろう。

「それにね、ちーちゃん。ちーちゃんの写真まであるのよ」
「え、私の?」
「ほら。ほんとにもう、恥かしいったらないわよ」

悔しい、じゃなくて恥ずかしいなのか。このあたりも人間関係がわかる会話だ。しかし、里志よ。なぜ言い訳しないのだ。そう思って横目で見ると、里志のほうも俺の問いがわかるらしい。薄い笑いを微妙に変えて視線をずらす。さてどうしたものか。正直放り出して帰るのがよさそうだ。

そう思ったのだが、おろおろと動揺をあらわにする千反田の顔つきを見て気が変わった。まったく里志のおかげでエネルギーの無駄遣いだ。

「伊原。いい加減に勘弁してやれ。千反田の写真は里志のじゃない」
「なんであんたにわかるのよ」

顔の向きを千反田から俺に向ける。それはわかるが口調まで激しくかわる。なぜ俺に噛みつくんだ。

「それは里志が俺に渡すために確保したものだ。だが俺が突き返したから仕方なく里志が持っていた。それだけだ。だからその写真は許してやれ」
「そ、そうなの。でも、それじゃこの写真はなんなのよ」

そういって自分の写真を突きつける伊原に、里志が困ったように笑う。

「その写真にしても里志は買ったわけじゃない」
「ホータロー」
「あれこれ言われるのが嫌なら俺を巻き込むな」

横目で口止めを図る里志を退ける。

「その写真は本来なら焼却廃棄されるはずだったものだ。それを里志が抜き取ってきたんだ。俺がお前に教えてやるのはこれだけだ。あとは里志に聞け」

その場がしんとなる。口をへの字にしたまま、しかしいぶかしげな顔で伊原が俺の顔と里志の顔を見比べる。そして里志に

「どういうこと?」

と聞くが、里志も困ったように笑うばかり。何を説明を渋る必要がある。

「俺は先に帰るぞ」

やるべきこともなくなったのでそう言って歩き出すと、後ろから声をかけられた。

「ちょっと待ってよ折木、これどうすればいいの?」

そういって奴が手に持っているのは千反田の写真だ。里志もそうだが、どうして俺に聞くのだ。

「どうするもなにも。千反田に渡せばいいだろう」

ごちゃごちゃ話している連中を後に、俺は歩き出した。

◇ ◇ ◇ ◇

「待ってください折木さん」

後ろから近づいてきた自転車の音に続いて、千反田の声が俺を呼び止める。

「なんだ。まだ何か用があるのか?」

もう、千反田と俺の通学路の分岐点は過ぎている。この上呼び止められてまたぞろ好奇心でもぶつけられるのだとしたら、面倒だ。

俺の横で自転車を降りた千反田は、そのまま自転車を押して俺の横を歩き始めた。額に汗が浮かんでいる。

「福部さんのこと、助けてあげたんですね」
「まあ、仮にも友達だからな」
「そうでしょうか」

何が嬉しいのかにこにこしながら、俺のほうを横目で見る。それより、何だか含みのあるセリフじゃないか。

「いつもなら、折木さんはあのお二人の喧嘩を『ほっとけ』と言ってますよ」

つくづく面倒くさい奴だ。おっしゃるとおり。俺は二人の喧嘩に首を突っ込んだりしない。よく覚えていることだ。かほどに記憶力がいいのだから、大好きな謎も自分で解決すればいいのに。

「福部さんの話には、いくつか不思議なことがあります」
「おいおい、何の話をする気だ」
「大丈夫です。私は自転車ですから、少しくらい遠回りをしても心配ありません」

お前に謎の解決をせがまれる俺が大丈夫じゃないんだ。とにかく、時間に不自由していないというのなら、釘を打つしかない。

「里志のプライベートな問題だ」
「確かにそうですね」

そう言うと千反田は黙り込んだ。これでこの問題は終わりだ。経験上千反田えるは他人のプライバシーに頭を突っ込むことはしない。

のはずなのだが、

「でも、少し気になるのです」

なぜかしつこく食い下がってきた。

◇ ◇ ◇ ◇

「あの写真は、多分さっきの話の写真機部から持ってきたものですよね」

千反田は前を向いて自分の推理の確認を求めるように俺に話しかけてくる。

「だろうな」
「どうして、写真機部なのでしょうか。福部さんが頼めば、摩耶花さんは喜んで写真を下さるとおもうのです」

俺もそう思う。しかし奴は言った。水着写真がほしくて写真を抜き取ったのではないと。

「里志に聞けばいいじゃないか」
「でも、プライベートなことですから」

ためらうようにつぶやく千反田に、しかし俺は容赦する気にはなれなかった。

「だから俺に推理させるのか」

千反田が他人のプライバシーに首を突っ込もうがどうしようが、俺はどうでもいい。それは千反田の品位の問題だ。豪農千反田家の息女としてふさわくない行為かもしれないが、俺にはどうでもいい話だ。だが、それで俺を使いだてしようと言うのなら話は別だ。面倒だし、そもそも不愉快だ。あるいは、不愉快なのは、さっきから腹の底にある座りの悪い感情のせいだったかもしれないが。

「ごめんなさい。そんなつもりでは…」

消え入るような声が横から聞こえる。まだ夏の熱をもった空気を大きく吸いこんで不快感ごと吐き出す。その音に千反田が縮こまるのが視界の端に見えた。そんなつもりであろうがなかろうが、不愉快だ。

そしてそんなつもりではなかったというのなら、俺だってそんなつもりではなかった。まったく、どいつもこいつも面倒な。

「写真機部の写真は、全数焼却処分されたそうだ。里志は…」

前を向いて歩きながら話す。千反田が顔を上げたのが雰囲気でわかる。

「伊原の写真が焼かれるのが我慢ならなかったんだろう」
「あ…」
「本人に確認したわけじゃないから合っているかどうかは保証しない。本当のことを知りたければ里志に聞け」
「いえ、ありがとうございます。きっと折木さんのおっしゃるとおりだと思います」

そういって口を閉じた後、しばらく千反田は黙って横を自転車を押していた。

「あの、折木さん」
「なんだ」
「どうして、私の写真、受けとらなかったのですか?またプライバシーの話だと怒られるかも知れませんが…」
「別にプライバシー云々は関係ない。常識の問題だ。あれは千反田の盗撮写真だ。それをお前の許可無く受け取るわけにはいかない」
「そうですか」

そうつぶやいたあと、少し微笑みを含んだ声になった。

「折木さんらしいですね」

さいですか。

もう、かなりの時間、千反田は自転車を押して歩いている。いくらなんでも帰りが遅くなるのではないか。何か用があるのかと思っていたが、単なる気まぐれだったか。

「でも、さっきの折木さんは、らしくありませんでした」

まだ何か話があるらしい。今日は騒ぎばかりでいい加減疲れた。俺は無視を決め込んで歩いていく。千反田のほうも、俺の返事は期待していないような話し方をする。

「さっきも言いましたが、折木さんは普段放っているお二人の喧嘩に割って入りました。これがひとつ」

商店街の歩道にはいろいろ置いてあるので、自転車を押しながら二人並んで歩くのは、意外に気を使う。

「そしてもうひとつ。折木さんが福部さんの気持ちを推理したこと」

商店街はひさしが大きいので日光が当たらないのがいい。が、残念、だいぶ日が傾いているので西日はきつい。

「折木さんは、これまでいろいろな謎をといてくださいました。でも、本当は人の気持ちを考えるのが少し苦手なんじゃないかと思うことがあります。それは優しくないという意味では決してないのですが。人の気持ちについては、ほかの事ほど推理がきかないように思えます。でも、今日の折木さんが推理した福部さんの気持ち、私にもすんなり納得できました」
「推理なんて、所詮あて推量だ。当たることもあれば外れることもある。普段はずれていることが、今日は納得いっただけだろう。そもそも当たっているかどうかわからない。さっき言ったはずだ」
「はい」
「それに推理させたのはお前だ。俺が望んでやったわけじゃない」
「そのとおりです。ご面倒をおかけしました。でも、自分で聞いておいて変ですが、やはり折木さんが福部さんの気持ちを量ったのは、意外でした」

またしばらく千反田は黙っていた。

「折木さんがなぜ福部さんの気持ちを推理できたのか。わたし、気になります」

やれやれ。もう勘弁してくれ。

「でも、これはプライベートなことのようです。折木さんに聞くのはやめておきます。自分で考えてみますね」

車輪の音が止まる。振り返ると、千反田がこちらを見て微笑んでいた。

「すっかりおしゃべりしてしまいました。わたしはこれで失礼します。また、明日」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「はい」

そう返事をすると、千反田は自転車の向きを変え、俺に礼をして自転車に乗り、帰って行った。

◇ ◇ ◇ ◇

古典部に入部して、もうすぐ半年になる。千反田との付き合いももうすぐ半年になるということだ。だとすれば、俺が千反田のことを少しずつ理解してきたように、奴も俺のことを少しずつ理解していても不思議ではない。

『人の気持ちについては、ほかの事ほど推理がきかないように思えます』

俺は千反田の眼にはコミュニケーション障害でも起こしているように写っているのだろうか。だとしたら。まあ、当たらずとも遠からずなのかもしれない。

俺には里志が何を考えて伊原の写真を抜き取ったのか、わからない。わかるはずもないと思っている。里志が伊原に持っている感情は、里志のものだ。俺が想像してわかるはずもない。そもそも、たいして興味がない。伊原あたりが俺を揶揄するのは、実際、こっちの興味を持てないというとこだろう。

あのとき……地学講義室で里志に千反田の写真を押し付けられたとき、俺はひどく戸惑った。奴が突然そんなものを出してきたことにも戸惑ったが、それだけではなかった。

『これはホータローの担当だよ』

奴はそういった。折木奉太郎があずかれ。持っていたくなければ処分しろと。そのとき目の前に浮んだ、千反田の写真の燃える様子に俺は動揺した。そして、動揺している自分に戸惑った。たかが、クラブ活動を同じくする女生徒の写真だ。魂が写しこまれているわけでもなし。それに世間のどこに持って行っても、大した価値のある写真じゃない。何を動揺する必要がある。

『伊原の写真が焼かれるのが我慢ならなかったんだろう』

我ながらとんでもない大ぼらだ。

俺は里志が何を考えていたのか、わからない。ただ、思いのほか萎縮してしまった千反田を見て後味の悪さを悔いた俺は、とっさにその場を糊塗するために千反田の疑問に作り話で答えた。あの時動揺した俺の気持ちをそのまま言ってみただけだ。

たかが写真。絵のついた紙切れ。世間のどこに持っていってもたいした価値の無い写真。それなのに、そこに千反田が写っているというそれだけで、どうやらその紙切れは俺にとっては誰の手によってであれ焼かれれば動揺するくらいには価値があるらしい。

里志も同じことを考えたのだろうか。写真機部で伊原の写真を目の前にしたとき、それが誰かの手で燃やされるのは我慢ならないと考えたのだろうか。だとしたら、奴は俺も同じことを考えると思ったのだろうか。

俺を巻き込むな。

ため息をつく。面倒なことは嫌いだ。だから群れるのは気が進まないのだ。西日にあぶられながらひとりで歩くほうがずっといい。商店街のアーケードを通り抜けて歩き続ける。夏服はべっとりと汗で濡れている。

ふと、千反田の言葉を思い出す。

『自分で考えてみますね』

ばかばかしい。よくそんな無駄なことに時間を費やせるものだ。

(2012/05/25公開)

“紺色の研究” への 4 件のフィードバック

  1. 拝読しました。
    氷菓で止まってましたが続きも読んでみようと思いました。アニメは観てます。
    原作では特にこう感じることがなかったのですが、何だか奉太郎が可愛く思えてなりません。
    うん。

    1. ご無沙汰しています。

      ツイッターを拝見するに、彼方へ行ってしまわれたように思えて寂しく感じておりました。えへへ。古典部シリーズは各巻で色が変わって、面白いです。読んでもらえるとファンとしてもうれしいですね。

  2. 人の気持ちについては、ほかの事ほど推理がきかないように思えます、ってあたり、米澤さんぽいなあと、これも勝手に思いました。

  3. 本来分からないものを推察することで、自分の影が写ってしまう。鏡に向かってカメラを写したようで面白い構図でしたね。
    えるも、いずれこの事に気づいて、折木さんったら、と笑みをこぼすこともあるのでしょうか。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください