『翠星のガルガンティア』 最終回:すべてのエピソードが伏線になっている

いやー、やっぱり脚本ですよ脚本。そしてしっかりした全体の構成をもった物語はとても面白くなります。

銀河同盟への気持ちを吹っ切り、ガルガンティア側に付くことを決めたレドは、ストライカーに搭乗している筈のクーゲルがすでに死亡していることを知ります。偶像を頂点とする戦闘機械組織を築こうとするストライカーに、ガルガンティアの人々を守るべくレドは命をかけて立ち向かいます。その眼下で遺跡の技術を敵から守ろうと孤軍奮闘するピニオン。一方、ガルガンティアではレドの奮戦を受けて、封印された巨大兵器が姿を現します。

すばらしいの一言でした。何が面白いって、これまで語られたエピソードがほとんど無駄なく今の話につながっています。前半で語られたレドのガルガンティアへの定着エピソードには、ざっとあげて三つほど重要な点があります。

  • 理解の開始
  • 人間の殺生の禁止
  • 労働を尊ぶガルガンティアにおけるレドの価値

人間を殺傷するなと言うガルガンティアと、有無を言わさず敵を殲滅する銀河連邦。雨を生の喜びとして受け止めるガルガンティアと、雨を無価値な人々の処刑として受け止めるクーゲルの王国。病弱であるにもかかわらずガルガンティアでちゃんとした人間として認められているベベルと、おそらくは病弱故に銀河連邦では処分された、レドの回想に現れる少年。こういった対比は、上に挙げたレドの定着エピソードを通してのみ、始めて力強く生きてきます。

また、ガルガンティアの指導者が常に船団のメンバーに対する責任を意識している一方で、クーゲル/ストライカーが作り上げた組織では人々が組織に奉仕することばかり求められていると言った対比もしっかりと描かれていました。

そして何より、この物語には挫折と再起があります。基本的に寛容なガルガンティアでは挫折は落伍と認められていません。ドジを踏んだピニオンに対して、メルティはいつものことだから誰も気にしていないと元気づけます。フェアロックの死後に手際の悪さから船団の分裂を起こしてしまったリジットに対しても、ガルガンティアは責めるでもなく再起を促します。さらには、物語に添えられた花と思わせておいて、メルティやエイミーにも彼女達にしかなしえない重要な役割が与えられます。

こういった精緻な全体構成によって束ねられたエピソードが最終回に向けて生きることのすばらしさを歌い上げる一方で、ど派手なアクションを単なる映像上のお遊びにさせずにこの作品の魅力として引き寄せています。

レドのチェインバー、ピニオンのビーム兵器、そしてドイツの秘密兵器を思わせるマスドライバー・システム『ガルガンティア』。これらの兵器はすべて地球の人々にとっては「かつての人類や、去って行った人類が作り上げたオーバーテクノロジー」です。使い方を誤れば災厄しか呼ばないこれらの兵器が大団円で入り乱れつつも、それらを使う側がそのリスクをきちんと意識している様を描けたのは、先に挙げた先行エピソードとうまく絡めていたためでしょう。

マスドライバーが青空に一本まっすぐに描く航跡は、それを使用したリジットをはじめとするガルガンティアの人々の強い決意の象徴です。

翠星のガルガンティアは、掃いて捨てるほどあるロボットアニメの体をとりながら、レドが成長し、人が生きる意味とまっすぐに向き合う姿を描いた骨太の作品です。そこに描かれている人々は、いずれもしっかりした意思を持ち、強いまなざしをまっすぐに向けてきます。

「あんな空っぽなものを俺は信じていたのか」と、レドにストライカーを評させておきながら、実はチェインバーとレドが織りなす親子愛の物語であったりと、なかなかに憎い演出の数々が光りました。

どうもいろいろ散漫な感想になってしまいますが、『翠星のガルガンティア』は細かいところまで描き込まれた大変優れた物語です。見て良かったです。

『翠星のガルガンティア』 11話

いやぁ、神がかった演出でした。今期見たアニメのどのストーリーよりも興味深い回でした。まぁ、大して見てるわけじゃないですけど。切らないで見てるのは「ガルガンティア」「ヤマト」「俺ガイル」「ちはやふる2」くらいですから。

ピニオンの船団に接触してきた海賊(?)を率いていたのは、レドの上官であるクーゲル少佐でした。早速クーゲルの下に合流するレド。しかしながら、クーゲルが作り上げたのは、ヒディアーズを殲滅するためだけの合理的組織でした。

冒頭、レドがクーゲルの下に合流するシーンからして良かったです。ヒディアーズが人間であることを知り、チェインバーとの意見対立を経て一人で苦しんでいたレドが、何の迷いもなクーゲル隊に合流します。当然です。兵士であるレドは作戦中に隊からはぐれ、まだその任を解かれていません。与えられたチェインバーは銀河連合の兵器であり、その運用者である彼が兵器を携えて上官の下に参じるのはごく当然のことです。

その姿が、船団から見たときあっけらかんと受け取られていたことににやにやしました。所詮、ブリキ野郎共々異物と言うことなんでしょうか。ピニオンの態度は最初から高圧かつフランクでした。来る物拒まず、去る者追わずなのでしょう。

そしてそのピニオンとフランジの会話がまたいいのです。フランジはガルガンティア船団を割ったときには食えない親父だと思ったのですが、ピニオンの暴走に対して、反発するでもなく野心を抱くでもなく、落ち着いてい対応してきました。そしてピニオンの危機においてはためらいなく救いの手を伸ばします。その手を払うでもなく、「あんたは船団に必要だから」とフランジを残すピニオン。この二人のやりとりを見ると、背景の哲学が全く同じであることがわかります。船団の繁栄なしに個人の幸福なし、なんですよね。私利ではない。

ピニオンはその跳ねっ返りぶりが繰り返し描かれていますが、その跳ねっ返りもあくまで船団の繁栄の中でのことと自覚している節があります。フランジも、あっさり降伏を受け入れるあたり、船団員の命最優先がはっきり現れています。

その船団の繁栄が何のためにあるのか、と言う点でクーゲルとレドの会談は際立っていました。はっきりと銀河連合的な対ヒディアーズ戦闘組織であるべきだとするクーゲル。彼は徹底的な合理主義者です。個人はあくまで集団への奉仕の度合いで測られ、組織化されるとする哲学は、当然ながらチェインバーが持ち合わせている戦闘部隊の論理とぴったり合います。しかしながら、クーゲルからガルガンティア攻略(啓蒙、と彼は言う)を指示されたレドは戸惑います。

レドが何を考えたかは、想像するに難くありません。船団としてのガルガンティアは、個人が満ち足りた人生を送るために、それぞれに対して懸命に働くことを要求します。それは、命令ではなく、むしろ社会の理念として働くことの尊さをうたい上げたものに近いです。その理念のもとでは、病弱なベベルのような少年ですら無用の物として扱われません。激しい無力感にさいなまされていたレドに対しても暖かく接してくれました。ガルガンティアを啓蒙すると言うことは、ベベルをレドの思い出に出てくる少年のように処分してしまうことになるでしょう。

「ヒディアーズを殲滅することが俺の任務」と言いつつ、レドの言動にはその目的がエイミー達を守ることであると言う考えがにじみ出ています。そうでなければヒディアーズの正体を知って動揺しなかったでしょう。チェインバーの反応から考えて、風土病云々は作り話かと思ったのですが、案外そうではないのかもしれません。早い段階でコックピットに閉じこもらざるをえず、人の温かさに触れる機会のなかったクーゲル。対照的に表に出て、エイミー達とのふれあいを経験したレド。年齢や職務の他にこんな要因が二人の地球観を分けたとも言えそうです。

あっさり抱き込まれたピニオンですが、大海賊ラケージちゃんじゅうきゅうさいの動向が気になります。こいつ額に入れ墨ないなぁ。話し方変わったなぁ、と思っていたら、やっぱりなんか企んでいやがった。

我々の社会はどうあるべきか、を問うためにレドがクーゲルと向き合う大まじめな話に終わらず、いろいろ引っかき回してくれそうな面白い展開を予見させる11話でした。

ガルガンティアについて何かを書こう思うのだけれど

まとまらないです。

なぜだろう。それは最近打鍵の誤りが特に増えてきたことと関わりがあるかな。ないか。

ついにヒディアーズの正体が判明しました。禁断の扉くさいこの設定は、以前考えた展開が半分あたり、半分外れと言ったところ。人類が作り出した生物であることはあたりでしたが、人類自身であることは予想していませんでした。何にせよ、これでいろいろ困ったことが起きます。

第一に、連中は人類と版図を奪い合う者であることは確実になりました。共存共栄なんて言っていますが、そんなに甘い物ではないだろうというレドの意見に賛成します。百歩譲って現代地球人類とクジライカが共存しようとするにしても、水棲であるクジライカの領海に陸棲である人類がいつもいっぱなしという状況では、平和は長くは続かない気がします。人類が行う漁と、おそらくは避けて通れない工業廃水による汚染は軋轢の種になるでしょう(私は悪いところばかり見て生きている人間です♪)。

もっとシビアになったのは銀河同盟とヒディアーズの間柄です。下等な動物なら知らん顔できたかもしれませんが、人類と同じ知性を持つ種であることがはっきりとわかりました。和平なりますかね。銀河同盟は戦争以外の生き方を知らないように見えますけど。和平がないなら、相手が滅びるまで戦い続けることになるでしょう。

それから、チェインバーとレドの関係の終わりが見えてきました。基本的に銀河連邦の戦闘機械であるチェインバーは、レドの言うことを聞くというのは、銀河連邦の利益の枠組みの中においてだけです。今回、いくつかの意見の相違がそれをはっきりと浮き上がらせました。レドの目の前でクジライカの幼体(つまり人間の少女)を殺したチェインバーとレドの間には溝が生じそうです。それ以上に、レドが気持ちを翻してクジライカ殲滅をやめたら、チェインバーはレドの言うことを聞かなくなるかもしれません。事実上無限であるように見えていたチェインバーのエネルギーも、目立って減っていることが判明しています。レドがチェインバーをシャットダウンする展開もありそうです。

何となく、レドがガルガンティアに同化する流れになりそうです。ピニオンはお宝に執着がありますが、ブツが禁断のテクノロジーがらみだけに、レドも協力をやめるかもしれません。

それにしても、海賊姉さんもう出ないのかな。

『宇宙戦艦ヤマト 2199』 セキュリティがザルなのはテレビ向け艦船物のお約束なので

ザル、ザル過ぎました。まぁ、お約束なのでいいですが。ヤマトはスペオペなんでSFとして見るのが間違いなのですが、とはいえ、見ちゃいますよ。それにしても、このIT社会。全国で100万人くらいが「そのセキュリティはねぇだろう!」と突っ込んだのではないでしょうか。

太陽系を遙かに離れて航行中のヤマト内部では、木星浮遊大陸で鹵獲したガミラス製ロボットの解析が進んでいました。ほぼコミュニケーションが可能になった段階で、作業は真田副長からアナライザの手にうつり、アナライザが意思の疎通を図ります。しかしながら、ヤマトのセキュリティを破って艦内ネットワークへと進入したガミロイドは、女神を求めて艦内をさまよい始めます。

全体的に「何だかなぁ」という気分で見ていました。

というのは、いかにも日本のSF界隈の人が好きそうな、「機械の自我」ネタを見せられ続けて鼻白んでしまったからです。あんた達が好きなSFのタイトルもじってばーん!と見せつけられてどないせっちゅーねん。真田副長の愛読書ではいい味出してるのに、どうして自分たちの趣味をそこでにやにやしながら出しますかね。オタクのサガでしょうか。意識が途切れる際の回想もHAL9000ネタだし。

一方でいい点もありました。

このストーリーは多分オリジナルシリーズの中の食料調達エピソードの置き換えでしょう。あの話では自分を機械ではなく人間として扱えというアナライザの「自我」がアナライザ視点で語られました。森雪に恋し、性的な接触を図るアナライザをヤマトクルーがもてあます一方で、アナライザ自身はガミラス植民地でのアクシデントを通して、自分を人間ではない化け物として認識する話でした。

同時代には、やはりロボットとして作られながら人間であるヒロインに恋をする『人造人間キカイダー』の漫画連載が行われています。高度成長が一段落し、戦争が過去の話になりつつ、テクノロジーがカラーテレビや電話という形で身近になってきた時代です。ロボットが自我を持って内省し、人間との差違を認識すると言うストーリーは何らかの時代性を帯びていたのかもしれません。

現代版の『宇宙戦艦ヤマト 2199』では、ロボットの自我が人間の目から語られます。アナライザもガミロイドも、その点にふれはしますが、深くは考察しません。その一方で、周りの人間が「自我はない」「いやあるかもしれない」と衒学趣味的な哲学論争を行います。非常事態なのに!

「自爆をしなかったのは友達が少なくともひとりいると認識していたから」

という会話を、自我の有無でなく、単なる状況の問題としてさらりと流したのはいい改変だったと思います。ロボットにあまり語らせずに人間がわあわあ口論するというのは、なかなかいい描写方法ですね。アナライザ、やっぱり森雪が好みなんだってのもさらっとわかったし。

まとめると、今回はロボット達から少し距離を置いて描くことはできたのに、スタッフが自分たちの趣味から距離を置けなかったという妙な回でした。

ガミロイドが探し求めた『女神』は開かずの部屋と合わせて今後のストーリーに絡んでくるのでしょうか。

『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』 九話

やっぱラブコメとして間違ってるよなぁ。だって、恋愛ストーリー化してるし。コメあるけど、ラブに絡んでないですからね。

全編、由比ヶ浜さんのけなげさというか、純な部分が光る九話でした。かなりはしょってはいますが、重要な部分を押さえてアニメ化したなという感想。なれない下駄に突っかかりつつ、八幡に見てほしくて浴衣を着てくる由比ヶ浜さん。八幡もねぇ、「似合ってるぞ」くらい言えばいいのに。

誤解で傷つくことを恐れ、行きの電車の中で

「偶然も運命も宿命も俺は信じない」

と、ひとりごちるかたくなな八幡。それに対して、花火の後に家まで送ってもらって、仮に事故がなくても自分は八幡に助けられ、恋に落ちたろうと考える由比ヶ浜さんが対照的でした。

それにしても、もはや八幡の気持ちのもつれ具合はどうにもならないですね。ちょっと前は、由比ヶ浜さんと仲良くなったのは、彼女の同情だったのだと、「自分に言い聞かせて」関係をリセットしていましたが、今度は「自分が横にいることで由比ヶ浜のステータスが落ちる」とか考え始めています。このあたりはぼっち論とは関係なくて、平塚先生言うところの「ひねくれ」なのかもしれません。