結婚後初の大喧嘩はの理由はじつにしょーもなかった。出張で休みの日がつぶれるのつぶれないの。楽しみにしていたのいないの。仕事なんだから仕方がないとかなんとか。あんたはそういってあちこち行けるからいいわよねとかなんとか。もともと小競り合いも戯れあいのうち、の二人ではあったとはいえ、結婚後数年間本格的な喧嘩をやらかさなかった点は褒めてあげてもいいかもしれない。
世間様としては、その手の話題は全国4000万家庭で繰り広げられているので今更再生産されても痛くもかゆくも無いが、何しろ高須夫婦である。竜児は結構痛い目に遭った。
後ろ回し蹴りを食らってとうとうぶち切れた
「そんだけ暴れ回ってストレス発散しているお前が文句言うなよ!こっちは仕事で大変なんだぞ」
仕事が大変だ、で終わる夫婦げんかなどこの世にはない。終わるのは夫婦生活のほうだ。そういうことをわからないのは、やはり若さ。もっとも、あと3年こんな事を言っているようなら若さではなく馬鹿さだが。
「なによ、自分ばっかり忙しいような顔して。私と仕事とどっちが大事なのよっ!」
こういうことは、大の大人に言っても馬鹿だとしか思われない。ちなみに就学前の子どもに向かって「お父さんとお母さんどっちが好き?などと」言うと、心の傷になるとかならないとか。まぁつまり。ぶっちゃけ一生のうちにこんなことを言っていい時期などない。
犬も食わない大声の応酬が続いたが、
「竜児なんか大っ嫌い!」
大河の一言でケリがついた。と、いうより竜児が大声を出すのをやめた。しばし大河の顔をにらみつけて、一言
「そうかよ」
苦虫をかみつぶすような表情で顔を逸らす。
二人共黙ったままでちっとも味の分からない食事を終え、大河は後片付け。皿を2枚割るが竜児は知らん顔。黙って二人でテレビを見た後、竜児はお風呂の用意。足の小指をタンスの角にぶつけ、お風呂の水を入れすぎ、温度を高くしすぎるも、大河は知らん顔。
結局寝る時間になるまで二人とも話をしなかった。パジャマに着替えた竜児はいつも二人が寝ているベッドをスルーして、押し入れから泰子が遊びに来たときのために用意している布団を取り出す。黙ってひいて、黙って電気を消して、黙って潜り込んでしまった。
ベッドにちょこんと座っていた大河は、その後3分ほど黙って竜児のほうを見ていたが、結局自分も電気を消して、ベッドに潜り込んだ。
遠くに電車の音が聞こえる。時折、アパートの前を車が通る。酔っぱらいらしき足音。ぱたぱたと早いのは犬か。
眠っては目が覚め、目が覚めては眠りと、浅い眠りを繰り返しているうちに、ベッドの方から苦しげな息遣いや、辛そうな寝言が小さく聞こえてきた。やがてそれがピタリと止む。
しばらくして、寝床から起き上がる音がした。
静かな足音。
ちいさな、ちいさな声で、起きていると気がついているのか、いないのか。起こしたいのか起こしたくないのか。
「竜児ぃ…」
無視してやろうと思うものの、それはそれ、つきあいは長い。傲慢でわがままで怒りっぽくてつっけんどんで、嫌な時にはとことん嫌な奴ではあるのだが、こんな声を出されて自分が無視できたことなど一度もない事は、竜児自身が一番知っている。
「…おう」
背を向けたまま応える。目の前の時計は午前一時を指している。
大河はごにょごにょと
「怖い夢見たの…」
子どものような事を言う。
知ったことか!と、竜児は黙って目の前のふすまを睨むが、暗い部屋の中、腹の底のあたりから「冷たい奴だな」と、自分をなじる声が聞こえる。
悪いのは大河なのだ。仕事だから仕方ないではないか。仕事のスケジュールをぺーぺーの社員の私生活にあわせて変えられるはずがない。だから、わがままを言う大河が悪い。謝るまで絶対に許さない、と竜児はふすまをにらみつけながら思う。腹の底では「きんたまの小さい奴だな」と、相変わらずなじる声が聞こえる。
背中から
「…お願い」
しばらく黙って返事を待っていた大河の、つぶやくような哀願が聞こえる。
竜児が部屋の隅々まで行き渡る大きな大きなため息をつく。黙って起き上がる。枕を抱いて竜児の側に立っている大河と目を合わさずにベッドに入る。大河の体温の残っているベッドに潜り込む。定位置。暖まっている場所からすると、大河は真ん中には寝ていなかったらしい。律儀に竜児のスペースを空けて寝ていたとは。馬鹿な奴。真ん中で寝ればいいのに。喧嘩しているんだから。
その様子を見ていた大河がベッドに潜り込んでくる。そしていつものように、竜児の横からひしとしがみついてくる。新婚初日から、大河はこうやって寝ている。寝ている間に竜児がいなくなると困る、とでも言うように。あるいは長かった辛い夜の埋め合わせをしているのかもしれない。
なんなんだおよお前は、と竜児は思う。喧嘩してんだぞ。口も聞かなかったろう。さんざん悪口言ったよな。お前、蹴っ飛ばしたよな。お前俺の事を
「ごめん、竜児。私嘘ついた」
大嫌いだって言ったよな。
憮然として天井を睨みつける竜児にしがみついたまま、小さな声で大河がつぶやく。
「大嫌いなんて嘘。私竜児の事が大好き」
涙でも滲んでいるのか、顔をゴシゴシ竜児の胸の辺りに押し付ける。
何をバカな、喧嘩の原因はそこじゃない。謝るべきところは他にある。と、思いつつも。竜児も自分が一番頭にきているのがそこだということは、よく分かっている。「嫁さんに嫌いと言われたくらいで、どんだけ動揺しているんだよ」と、腹の中の、もう一人の自分が今度は嘲り笑う。
うるせぇ。
「…私の事嫌いにならないで…」
涙声でしがみついてくる大河に、わざとうんざりした声を作って
「ならねぇよ。バカだなぁ。ほら、腕はなせ」
自分の本心を知られないようつっけんどんに扱う。嫌がる大河と揉み合って、ようやく自由を取り戻した腕を大きくまわすと、セミのようにしがみついている大河の頭を体ごと抱いてやる。
「俺がお前を嫌いになるわけないだろう」
小さな頭をほんの少し乱暴に揺すってやる。
「だって…」
大河は涙声を抑えながら
「言ったもん」
「何を」
「『大河なんか嫌いだ』って」
「言ってねぇよ」
勝手に作るんじゃねぇ、馬鹿女。
「さっき夢の中で言ってた」
「知らねぇよ。そいつは偽者だ」
まったくあきれた女だ。知ってはいたものの、夢の中まで本当にびくついてる。そんなに嫌われたくなけりゃ蹴っ飛ばさなきゃいいのに。後悔なら夢の中でしないで起きてるときにすればいいじゃないか。もう大人だぞ。今年でいったい幾つだよ。
「ほんと?」
「ほんとだ」
当たり前のことを聞く女だ。
「嫌いになってない?」
「なってない」
「怒ってない?」
それはまぁ。
「少しは…怒ってる」
「…ごめん」
「もういいんだ」
「わがまま言って、ごめん」
「いいんだ。わがままは。全部は聞いてやれねけどな」
「…ありがとう…」
「おう」
結婚して初めての大喧嘩も、ようやく終了した。軽く深呼吸。
「もう寝ろ」
「うん」
ようやく、二人共落ち着く。
とは言うものの。
久しぶりに荒々しい感情をぶつけ合ったせいか、ほとんど寝ていないにも関わらず、竜児はなかなか眠れない。腕の中の大河も同じらしく、一向に寝息を立てる様子はない。おそらくは、竜児が起きていることも知っているだろう。
15分ほどもたって
「…竜児?」
大河が小さな声で問いかける。
「おう」
だが、それっきり大河は黙ったまま。頭をゆっくりと竜児のパジャマの胸にこすりつけている。竜児も大河の頭を手のひらでゆっくり撫でてやる。そうやってしばらくして
「…竜児…」
つぶやいて身じろぎしたのが合図だったかのように竜児は胸に大河を抱えたまま寝返る。
小さな声を立てた大河は、されるがまま。おとなしく竜児に唇を吸われながら、腕を首に回す。何度も唇を吸われ、舌をからませあい、竜児の名前を呼ぶ。
吸った唇の柔らかさ。
手を当てた頬の肌のきめ細かさ。
絡めた舌の艶かしさ。
うなじを吸われて漏らす声の罪深さ。
全身を駆けめぐる情欲に突き動かされた竜児がネグリジェの裾に手を伸ばすころには、大河も熱い体を持て余すほど竜児を欲している。
芽生えた不安はつまらないものだと納得するために、目では見えない竜児の心の高ぶりを早く自分の体に叩きつけてほしい。そう願ってシーツを握りしめる。
◇ ◇ ◇ ◇
「おう、おはよう」
いつもより3分遅く起きて来た竜児が、まだ眠そうな顔で声をかける。
「おはよう、竜児」
頬を薔薇色に染めてそう微笑んだ大河は、逃げるようにキッチンへ。テーブルの上にはスクランブル・エッグ。竜児の卵はいつもよりひとつ多い。
念願の子供が生まれたのは、この日から10ヶ月ばかり後のことである。
(おしまい)
初出 : 2009年5月3日