2013年冬アニメ終了

2013年の第一四半期も終了。冬アニメも続々最終回を迎えました。継続して視聴していたモノも含めて感想を。

絶園のテンペスト

1クール大詰めから心理戦へと舵を切り、新年からまさかのラブコメ展開で視聴者の度肝を抜いた本作品も最終回を迎えました。終わってみると、全編見事なほどに緊張感が持続しており、おのおののエピソードに無駄がなかったなと感じます。たとえば当初真広や吉野が口にする、次のセリフです。

世の中の関節は外れてしまった。
ああなんと呪われた因果が
それをなおすために生まれついたとは!

ハムレットのセリフなのですが、見返してみれば1話で愛花がつぶやいていたのでした。そして彼女のセリフとしてみれば、これが単に彼女の嗜好ではなく、置かれた立場そのものであることがわかります。その、悲劇からくる諦観のなかを漂っていた彼女の前に現れたのが真広と吉野であり、彼らのために彼女が運命を単なる悲劇からすべての人が幸せになる悲劇へ展開させることを望んだ気持ちは、最後まで視聴した今、痛いほどわかります。そして、その思い出こそが、富士山麓で吉野に大どんでん返しを行わせる原動力となったのでした。

当初過剰とも思えた愛花推しは、終わってみれば必要なエピソードであり、好きになった男のためになら何でもするという葉風の描写が、クライマックスでの愛花の行動の説明になっているなど、非常によく練られた構成でした。

原作は未読ですが、原作付き作品の強みとも言える、しっかりしたストーリーでした。

俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる

前半、主人公のあまりのくそ野郎加減に何度も視聴をやめようと思った本作品ですが、なんと、なんとの大化けを見せてくれました。後半参戦の愛衣が振りまく笑い一杯のラブコメエピソードをエンジンに話を推し進めつつ、真涼の心の変化をさりげなく細やかに描いた点が秀逸です。

当初非常に感じの悪いヒロインとして描かれていた真涼ですが、後半から気持ちが左右に揺れる様がよく描かれており、大振幅の大騒ぎを繰り広げる愛衣といいコントラストでした。

最終話では、がらくたのように崩れてしまった自分の心を見つめる真涼に鋭太が歩み寄って道を示してやるシーンがよかったです。

どこかで見たようなセリフ、どこかで見たようなシーンが耳や目につくのが気になりましたが、最終的に「彼女」と「幼なじみ」がいい感じに修羅場を演じる綺麗な終わり方でした。

たまこまーけっと

あっという間に最終回を迎えた本作品。随所でほろりとさせながら、しかし本当に大変なことは何も起きないと言う見事なほどの鉄板ホームドラマでした。

最後の最後まで居候ポジションを見事に演じきったデラに拍手を。

サイコパス

なかなか評価の難しい作品でした。

最終回のラストエピソードが、アカネの配属エピソードの繰り返しになっていながら、宜野座とアカネは違うと言うニュアンスが込められています。一方で、配属されたミカが、犯罪で友人を失った過去を持っている点、犯罪係数が100を突破してしまった宜野座が左手を義手に換えて父親と同じ職に就いた点、マキシマに同類であると指摘されたコウガミが、マキシマ同様社会のどこかに犯罪者として消えていってしまった点など、悲劇の繰り返しを暗喩する点も多くあります。

最後のシーン、コウガミが部屋(セーフハウス?)を出て行きますが、読みかけの本は「失われた時を求めて」の第一遍です。未読なのですが、調べたところによれば「スワン家の方」と「ゲルマン家のほう」という二つの方向からの人々が、ある女性の登場で象徴的に統合されるという話であるらしく、おそらくは犯罪者であるマキシマと刑事であるコウガミが、アカネの登場によって引き合わされ、そして一つになっていくことを暗喩しているのでしょう。

評価が難しい作品でした。大事なことなので二度書いておきます。

しろくまカフェ

全然話題にならない作品ながら、これを取り上げないのはもったいないほどいい作品でした。いい、という言葉をどういう意味で使うかによりますが、肩の力を抜いて穏やかな気分で見る事のできる作品です。かといって、癒やしなどというあざとい軸を持っていなかったのも魅力ですね。本当に得がたい作品でした。

アニメスタッフがずいぶんと作品に肩入れしている事がわかるのもこの作品の特徴でした。あちこちに工夫がしてあったり一手間かけているのがわかるんですよ。それだけに当初契約関係の雑音が聞こえてきたのは残念でした。

『絶園のテンペスト』 まいりました

「愛花が絶園の魔法使いじゃつまらない」と書きましたが、驚くほど面白い展開に引き込まれました。愛しているからこそ、私は死ぬのだと言うことを、強い意志と強い力で訴える姿に引き込まれるように見ていた30分でした。

『たまこまーけっと』 第9話

ものの見事に裏をかかれました。いやぁ、たまこの鼻歌は南の島につながっていると思ったんですけどねぇ。

10月10日はもちの日。いつも通り、もちのことしか考えていないたまこをよそに、あんこともち蔵はそれぞれ思うところあって気もそぞろです。一方、あんこ達の会話から、豆大はふと亡くなった奥さんの事を思い出します。

今回は演出と作画の良さが光りました。もちの日のイベントを終えて一息つこうと部屋に引っ込んだ豆大。ふとギターに目をとめたのは奥さんのことを最近に思いだしたからでしょうか。弦をつま弾きながら小さな声で歌う歌を、たまこが部屋の外で聴いてしまいます。彼女が覚えている母親の鼻歌と似ている、と。このときの一瞬の画面エフェクトがよかったです。エンディング・アニメーションで被写界深度浅めのエフェクトが多用されていて、それが透明感を引き立てていますが、今回もたまこが「はっ」とする瞬間に被写界深度の浅い絵が使われていて、短い時間ながら強い印象を残しました。

たまこの鼻歌は、豆大がお母さん(ひなこ)に捧げた歌だったんですね。四方八方につっけんどんな豆大が喫茶店のマスターにだけは敬語で、この辺、近所の同世代のガキどもがそのまま持ち上がって店を支えているという商店街の人間関係が浮き彫りになっていて面白いです。「私、ここの豆大大好きなんです」という一言に対する盛大な勘違いから始まった豆大の恋が、彼が学生時代歌った歌に乗せて描かれます。この辺もうまいですね。いまいち乗り切れない曲、字余りしまくりの歌詞、チープな録音。それでも勢いだけはいいという学生バンドの雰囲気がよく出ており、どうやら平坦ではなかったらしい豆大の恋を飾ります。

好きで好きで仕方なくて、その気持ちをぶつけるように作った不器用な歌。その歌を、あなただけに聞いてほしいと本人の前で歌う。そういう学生時代のてらいの無いストレートな気持ちが、おそらくは四半世紀ほども経ち、結婚しそして先立ってしまった妻への変わらない思いとしてよみがえります。ぐっとくるシーンでした。「豆大、大好きです」と言った彼女が、写真のなかで豆大福を食べている、その辺の演出の憎らしいこと。福と豆大の横顔がよく見るとそっくりで、このあたりが仕込みも含めてうまいなと感じます。

Everybody Loves Someboy.

繰り返されるこの言葉は、この作品のなかでは誰に対しても暖かく優しい響きを持っています。

なかなか報われないもち蔵に、実はちゃっかりバースデープレゼントを用意していたたまこ。プレゼントがわからないように後ろ向きに歩く姿がかわいらしかったです。

岡田補正

「いや、絶園のテンペストは岡田原作じゃないから!」

まぁ、そうなんですけど。最新話はあっと驚く展開でしたね。愛花の正体がわかったときには驚きました。でもまぁ、驚きが収まると興ざめではあります。現在において周囲を振り回している女が始まりの樹の姫宮であることに対して、かつて周囲を振り回してたのがただの女子中学生であることが一つの趣出会ったわけですが、結局その人も絶園の樹の魔法使いでした。なんだ、つまらん。

あらゆる可能性を一つ一つつぶしていって逃げ場のない状況を作り出したこの番組ですが、この子が本当にラスボスなら面白くありません。それとも、すべてがハッピーエンドにつながる唯一の道として愛花が選んだのがこの方法だったのでしょうか。

虚淵補正

『サイコパス』はあーなるかなー、こーなるかなーという予想がいろいろ外れ、時に落胆、時に歓喜を繰り返しております。

ここに来て予想外の喜びは脚本・構成の妙を最新話「透明な影」で見ることができた点です。コウの知り合いの心理学(?)者、ギノのかかりつけのカウンセラー。それぞれの、「先生」に対する関わり方が対照的で面白かったですね。もちろん、関わっている理由が全く異なる以上、関わり方が異なるのは当然です。しかし、表面的な関わりか確かしていないギノ、どろりとした影の中までともに手を突っ込む関係を築いているコウというのはいろいろ象徴的なものを感じます。

さて、最新話の終わりで、厚生省のコンピュータによるアカネへの接触が行われました。彼女の数値的な面でのサイコパス体質を有効活用して、すでにすり切れてしまったギノの後釜に据えるのでしょう…と、思いましたが虚淵氏の作品なんですよね。

あれだ、最悪の斜め上を想定しなければ(笑)。

いろいろ考えているのですが、さすがに脳みそだけになっても自我は残っているらしいので気絶させて本人の知らない間に脳みそだけにされたアカネちゃんがタンパク質の電気化学パルス的に泣き叫ぶ、って展開は無いと思います。ただ、すべてを知らされた彼女が肉体を捨てて脳みそシビラへと参加する可能性はあるかもしれません。

情動的には常人だけど、耐ストレス的にはサイコパスである彼女が脳みそ集合に的確かどうかは疑問符がつきますが。

しかし、ロジカルにはあるんじゃ無いでしょうか。コウは「水に書いた約束」で、アカネに「自分は刑事として道を外れてしまうが、あなたは正しくあってほしい」と言う趣旨の手紙を残します。これはマキシマへの向かい方で意見が割れたことを示しています。殺すか、裁けぬとも法にゆだねるか。ところが、法にゆだねるとはとりもなおさず脳みそ集合のシビラに任せると言うことです。

シビラは後半悪のように描かれていますが、シビラは不完全なだけで悪じゃないんですよね。司法と行政の中枢を国民の合意なしに厚生省が握るというゆがんだシステムであるだけです。そして、行っているのは悪行ではなく、生産性の向上など多くの善政といえる事を成果として生んでいます。つまりシビラは「一匹狼」ものの刑事ドラマによく描かれるようなわかりやすい巨悪ではありません。今描かれているコウとアカネは善悪ではなく、マキシマという法で裁けない存在を軸にした考え方の違いを体現しているのです。

後期オープニングでマキシマにコウが銃を向けているシーンがありますが、アカネはドミネーターを向けています。アレはマキシマに向けているのではないという解釈をよく見ますが、私も同意です。コウとアカネが対立している様子を示しています。

すでにコウの犯罪係数は限界を突破してエリミネーターで即時処分されるレベルでしょう。それを変えるためにと考えてアカネが体を捨ててシビラに参加するエンドも虚淵ならあるかもしれません。彼女が探していた「個々にならアルかもしれない、私にしかできないこと」がまさにそれであることもあり得ます。未来版金色夜叉ですかね。