成長と再起を正面から描いたアニメ『オーバーテイク!』

2023年に心に残ったアニメの一つに『オーバーテイク!』があります。

プレイベーターが多く参加する4輪レースの登竜門F4クラス。慢性的な資金難にあえぐレーシングチーム「小牧モータース」のレーサー浅雛悠(あさひなゆう)は高校生。同じくレーサーだった亡き父の思い出を胸に走りますが、思うような結果を出せません。そのピットにフォトグラファーの眞賀孝哉(まどかこうや)が現れます。彼は10年前の震災の際に撮影した写真が原因で、人物写真を撮れなくなっていたのでした。

レースを題材にしたアニメは少なくないですが、多少なりとも必殺技的なもののやり取りのが行われるバトル漫画だったり、あるいは百合アニメの舞台だったりとなかなか本気のレースが描かれることは少ないです。そんな中、この作品は珍しく真正面からレースをとらえていました。我が家は2輪のレースを家族で見ているせいか、そういうスタッフの本気がバシバシと伝わってくる面白い作品でした。

何といっても物語冒頭のエピソードが最高でした。スポンサーがついていないのでタイヤを存分に使えない。これは切ないですよ。タイヤは消費材ですもん。1レースで1本使いつぶすタイヤを大事に使いまわすなんて、良い結果が出るわけありません。しかし、プライベーターの資金難なんて当たり前のことです。第1話で資金豊富なチームと資金難のチームを見事に描き分けて、主人公のいる場所を明確化したのはお見事でした。

人をあまり寄せ付けず、伸び悩む成績に苦悩する若い浅雛悠。経験はあるのに被写体と向き合えなくなってしまった眞賀孝哉。この二人の成長と再起を軸としながら、話は進みます。。

作品全体を通して一貫しているのは、成長も再起も人々とのやり取りの中でこそという点です。そして二人とやり取りする人々もまた成長と再起を図ります。

悠と孝哉を軸としつつも、けがからの再起を図るベルソリートのファーストドライバー春永早月(はるながさつき)、悠や早月との戦いの中で彼らを理解し成長するベルソリートのセカンドドライバー徳丸俊軌(とくまるとしき)、悠の父である浅雛澄(あさひなとおる)をレースで亡くしながら、それぞれにレースを続ける小牧モータースの小牧太と、ベルソリーゾの笑生教典(えなきょうすけ)といった人物の群像劇となっているのも特徴です。

孝哉の再起に不可欠な題材として、東北の震災をネタではなく正面から取り上げたのも印象的でした。これについては、孝哉と元妻の雪平冴子(ゆきひらさえこ)が、震災の被害者とそれを支える人々のメタファーになっていることも好印象でした。

視聴者を置いてきぼりにしないようレースに関する技術的なことはあまり掘り下げていませんでしたが、スリップストリームが俊軌の成長の象徴として効果的に使われていたのはお見事です。

萌えもエロも遠ざけ、人、レース、災害に真剣に向かいつつバランスよく成長と再起を描いた、大人向けのよい作品でした。

†

『おにいちゃんはおしまい』のメタファー

今期のダークホース的な位置にある『お兄ちゃんはおしまい』は、TSもののコメディという極めて引火しやすそうなコンテンツです。しかしながら、根底に互いのことを思いやる兄と妹の心を描くことで、今にもどこかに飛んでいきそうな凧をうまくつなぎとめているように見えます。

さて、何回か繰り返し見ているうちに、作品中に面白いメタファーがちりばめられていることに気が付きました。

例によって強引な解釈ですがひとつづつ列挙してみます。

第1話

第1話では屋根の上にいる1羽の雀が描かれています。これが、まひろの孤独のメタファーだと考えるならば、毛づくろいする様は自分の体を何度も見下ろしていたまひろと重なるとも言えます。

それにしても美しい作画ですね。

終盤には見事なアゲハチョウが描かれます。変身のメタファーですね。

第2話

この回ではみはりが望んだとおり、二人の仲はより打ち解けたものになります。それを象徴するかのようにスズメは2羽になっています。電線の上のスズメと言えば、『とらドラ!』でも竜児と大河の仲がスズメで表現されていました。

女の子の日の話だったからか、ツバキらしき赤い花も描かれていました。

第5話

第3話4話はそれらしいメタファーはありませんでした。

第5話では冒頭に6羽のスズメが描かれます。ラストにもみじが友達のあさひとみよを連れてきて、OP/EDに描かれる6人がそろいました。

第6話

第6話では冒頭に淡いピンクの花が描かれます。中学校に編入して本格的に「女の園」を経験することになると暗示しているのでしょうか。スイートピーならば花言葉は「門出」と編入初日にぴったりです。

中盤にはスズメが4話。これは女子中学生4人組を表していますね。

まとめ

『お兄ちゃんはおしまい』はぼんやり見ても楽しいコメディですが、兄と妹の間の気持ち、ポップさの中にある美しい作画など細かく見ても楽しめる作品です。

メタファー探しも楽しいですよ。

おまけ

番組中にいろいろな形で出てくる謎の生物は、原作者のねことうふ氏のアイコンでもあるオオサンショウウオでしょうか。

一方、このシーンでは鰓と尾びれが描かれています。鰓がある描写は珍しく、意図的なものかもしれません。サンショウウオは幼体の時には鰓を持っています。しかしながら意図的に鰓のある姿を描いているのなら、このクッション(?)はウーパールーパーなのかもしれません。

ウーパールーパーといえば幼形成熟です。成人であるにもかかわらず中学生の姿をしているまひろのメタファーでしょうか。

実績ある米澤穂信の閉塞

米澤穂信はデビューして20年以上になるミステリ作家です。数々の賞も受賞していますし、代表作と呼ぶにふさわしい作品も複数あります。

その代表作の一つでありデビュー作でもある古典部シリーズは、原作発表から20年、アニメ放送から10年経過してもファンから愛されています。かくいう私も新作が発表されるたびに飛びついて読んでいます。

一方で、20年続く(あるいは20年完結しない)古典部シリーズは米澤穂信にとってちょっとした重荷になっているように思えます。というのは、ファンの気持ちが強いからです。

言うまでもなく古典部シリーズの中では主人公である折木奉太郎とヒロイン千反田えるがどうなるのか、が重要な一つの縦糸となっています。この二人の関係がどうなるのか、はもちろん作者である米澤穂信が決めることです。一方で、このご時世、ファンの重すぎる期待が時に過剰反応になることはご存じのとおりです。

これまでの話の流れから言って折木奉太郎を長い休日から引き出すのは(厳密にはこれもファンの期待に過ぎませんが)千反田えるでしょう。また、最近ツイッターのTLで読んだ解釈が面白かったのですが、その解釈に従うなら鍵のかかった部屋の少女である千反田えるを、鍵を開けて部屋(陣出)から引っ張り出すのは折木奉太郎の役割ということになります。

これはファンからするとハッピーエンドなわけですが、こんな風に方向が決まるのは閉塞感を描く作家にとってどうなんだろう、と考えずにいられません。

米澤穂信についてこのブログでは繰り返し『閉塞感』の作家だと書いています。無論、数ある作品の中には閉塞感を打ち破る結末もあります。しかしながら、現在でも発表される作品の多くは重苦しい閉塞感が舞台を覆っていたり、結末も閉塞から抜けきれないものが多数あります。

これまで閉塞感を打破した作品でも、登場の背後には何かしら閉塞した状況が続いていてそれが読後に何とも言えない重苦しさを少し残していました。ある意味米澤風味と言えますが、こういう重苦しさを引きずったうえでのハッピーエンドになるのかなぁ、などと感じています。

なんだか結末まで導くのがひどく難しい作業に思えます。が、そういった作品を書く上での『米澤穂信という作家を包む閉塞感』を考えると、多少不謹慎ですがアイロニカルな面白みを感じます。

『ぼっち・ざ・ろっく!』と『アキバ冥途戦争』

2022年の最後を飾る秋アニメはきらら系コミックを原作とする『ぼっち・ざ・ろっく!』が台風の目の中心でした。一方で、TVオリジナルの『アキバ冥途戦争』も負けず劣らず強烈な印象を残しています。

以下、両作品について思いつくままに書いてみます。

原作への内挿と外挿が光った『ぼっち・ざ・ろっく!』

10月放送開始当時はそれほど注目されていなかった『ぼっち・ざ・ろっく!』ですが、11月には「今期のダークホース」と呼ばれ、12月に入ってからは堂々たる今期ナンバーワン候補となっていました。

原作はきらら系4コマ漫画です。激しいバトルがあるわけでもなく、黒々とした怨嗟も渦巻かず、淡々と心地よい程度のアップダウンを楽しむのがこの系統の作品です。『ぼっち・ざ・ろっく!』も多分に漏れずあっさり目のコメディとストーリーが続きます。

こういった作品をアニメ化するときには原作通りにしてしまうとあっという間に終わってしまうか、間を取りすぎて間延びした作品になってしまいます。

『ぼっち・ざ・ろっく』では徹底したキャラの理解のもとに、4コマのコマの間で起きていることを内挿しただけではなく、さらには「こんなやり取りもあったのでは」という外挿も行われていました。

例えば、大雨で観客の入りが悪かった初ライブの後の打ち上げで、ぼっちがサラリーマンの会話に耳を傾けるシーンがあります。このシーンは原作だと2コマ、しかもセリフだけです。しかしアニメにはここでくたびれた二人組のサラリーマンをじっくり描いてみませます。このシーンで抜群にうまかったのが視点の切り替えでした。カメラが移動してサラリーマンの向こうにボッチが映るだけでもう視聴者としては爆笑せずにはいられませんでした。ぼっちが将来に不安を抱いていることがきちんと描かれ、それが視聴者と共有されていると確信できているからこその演出です。

作画に関しても、実写アニメーションや特殊効果デフォルメといった挑戦的な描写が多々見られました。これらも原作に描かれているぼっちの精神崩壊表情を踏まえたうえで、「ここまでならやっても大丈夫だろう」という見極めが絶妙だったと言えます。

特に印象深く記憶に残っている場面があります。第6話「八景」で、ぼっちがきくりと出会うシーンです。ここでぼっちのギターを触ってみたきくりが「大事に使っているんだね」とギターを渡すシーンの二人の脚の動きに息をのみました。脚を動かしてギターの移動とのバランスをとる動作が描かれています。

言っちゃ悪いですが、原作は4コマまんがですよ。ここまで描写する必要なんてあるはずないのです。それでもぼっちの体の動きをきちんと描写することで「大事に使っているんだね」という何気ない言葉がきちんとした重さを持ったものになっています。

ところが同じシーンでもきくりに「ついておいでよ」と連行されるシーンでは物理もリアリティも踏み倒して極めて漫画的なひらひらした動作でぼっちが引っ張られています。「きくりに振り回されている」というぼっちの心境がよくわかります。

第6話「八景」より。同じ場所の連続するシーンだが、リアリティに対する深度が全く違う

原作への理解という点では、やはりヒロインに対する理解の深さをとりあげなけれなりません。『ぼっち・ざ・ろっく!』は女の子がバンドをやる様子を楽しく見る漫画ですが、根底にヒロインの

「他人とかかわるのが苦手だが、みんなにちやほやされたい」

という本人も認めるめんどくさい性格からくるハードモードな日常が横たわっています。アニメではこの部分を骨格に見事に作品を肉付けしています。

女の子バンドを楽しく見るアニメのオープニングの冒頭に「広い宇宙の中で押し入れの中に潜り込んでいる」ヒロインの絵を持ってきて、ラストに楽しそうなクラスメイト達を見つめる絵を持ってくる理解の深さがこの作品のクオリティの高さを物語っていると言えます。

オープニング・アニメーションより、冒頭と最後のシーン

一本びしっと通った筋を見せつけた『アキバ冥途戦争』

十人が十人、「なんじゃこりゃ!」と思うような作品でした。

かわいいメイドさんにあこがれて上京してきた和平なごみは、アキバのメイド喫茶『とんとことん』で働き始めます。そこは、彼女があこがれたかわいいメイドの世界ではなく、「メイドなら、殺られる前に殺れ」というやくざな世界でした。

第一話の嵐子の銃撃シーンがあまりにも強烈で、その辺で考えることを止めてしまったような気がします。(ギャグかな)と思ったのですが、放送中盤から(これは大ごとだぞ)と思いながら見ていました。大真面目にやくざ映画をやってる。メイドの恰好で。

途中にギャグをはさみながらも展開するのは、あくまで抗争です。毎回人が死にます。いとも簡単に。モブが死に、ゲストスターが死に、重要人物だと思っていた人が死ぬ。特にすさまじかったのは愛美が登場した中盤の数回で、さすがに彼女は死ぬだろうと思っていましたが、死体の処理には度肝を抜かれました。まじで?メイドさんを?

後半は

「和平なごみはヒロインではなく、和平なごみを通して描かれるヒロイン嵐子」

だと思っていたのです。だって嵐子には持ち歌があるけどなごみにはないじゃないですか。それも最終回直前にちゃぶ台返しでした。

この作品は見ているうちに「なごみは何をしているんだ、この作品はやくざ映画なんだから、メイドなら殺せよ」と思ってしまうのですが、それこそがスタッフの思うつぼ。最終回で凪率いるケモノランドグループ総出のかちこみを迎え撃ってなごみが仕掛けたのが『メイド戦争』。

初回で徹底的に否定した「メイドさんならお客さんを萌え萌えさせなければ」というなごみの主張で平押ししてきます。そんな世界でなかろうが彼女たちは知ったことではありません。とんとことんのスタッフはあおられても怒鳴られてもスマイル接客。

「お前らを殺しに来た」
「ありがとんとん!」

の下りは、この作品の狂気が頂点に達した瞬間です。そしてその後の展開も猛烈な緊張感をはらんだ狂気に彩られています。

怒号が飛び交う中、なごみが歌うのは死んだ嵐子の持ち歌。歌った後に語るのは堂々たるメイドの心得です。

一見これまでの世界観をぶち壊してます。しかし、それを聞きながら誰にも語らず凪が思い出す嵐子は、あくまでかわいいメイドを目指しています。

「かわいいメイドになりたかった」

と言って死んだ嵐子の持ち歌を歌い、メイドはお給仕だと説くなごみ。振り返ってみると、全く違うように見えた嵐子となごみは、二人とも「かわいいメイドさん」にあこがれ、二人とも年齢など歯牙にもかけず貫いています。

恐るべき鋼の意思で練り上げられた筋の通った脚本でした。

(ゾーヤのロシア語に「なんだって!」と返す下り、笑わずにはいらせませんでした)

考え抜くことを楽しんで作られた作品

『ぼっち・ざ・ろっく』とは『アキバ冥途戦争』は全くベクトルが違う作品です。しかしながら、いずれも製作スタッフが考えに考え抜いて作られた作品であり、しかも彼ら彼女らが楽しんで作ったであろうことがうかがわれる作品でした。

素晴らしい作品を作ってくれたスタッフに感謝します。

『三つの秘密、あるいは星ヶ谷杯準備滞ってるんだけど何があったの会議』

少し古い話になりますが米澤穂信の表記の短編を『野性時代』2022年7月号で読みました。古典部最新作です。以下、本作と古典部シリーズのネタバレがありますのでご注意を。

作品中の時期は『ふたりの距離の概算』の少し前。校内マラソン大会の準備中に総務委員による会議が開かれます。当のマラソン大会の準備が滞っているのですが、なぜ滞っているのかがわかりません。総務部副委員長の里志がこの行政的問題を解決するために司会を務めるのでした。

発売して即購入し、一読して「ああ、これはファンサービスだな」と思ったのを覚えています。

里志の自分の能力に対する諦念は、『クドリャフカの順番』『手作りチョコレート事件』で繰り返し取り上げられており、本人のみならず読者のよく知るところです。その彼が捨てたものではないどころか、とんでもない能力を持っていそうだと描いているのがこの作品です。

彼の司会の手際の良さは関係者三人に順番に発言させただけで問題を解決させたことにあり、これは明らかに『愚者のエンドロール』でほかならぬ里志が絶賛した『女帝』入須冬実をなぞらえたものです。彼女は同作品で奉太郎をコテンパンにのしており、里志が女帝なみの力量で会議をまわして問題解決したとなると、これ以上のファンサービスは無いように思えます。

が、昨日の事、帰宅途中にぼんやりと古典部の事を考えながら歩いていてこれまで気が付いていなかったあることに思い当たりました。この作品は古典部シリーズという作品の方向が変わっていく流れの中にあるようです。

私は常々、米澤穂信は閉塞感や全能感の喪失を描く作家だと書いています。デビュー当時からの代表的作品である古典部シリーズも例外ではありません。『氷菓』は集団からの無言の空気の中で声を上げることもできなかった男の青春を暴きつつ、奉太郎のバラ色ではない青春を肯定する話でした。『愚者のエンドロール』では奉太郎が抱いた「ひょっとして自分は特別なのか」という自負が叩き潰される話です。『クドリャフカの順番』では奉太郎を除く古典部の面々が自分の能力の限界をいやと言うほど思い知らされる話です(奉太郎が打ちのめされる未来もほのめかされている)。

そして高校1年生の終わりを締めくくる短編『遠まわりする雛』では、千反田さんが奉太郎に彼女が生きる世界がいかに閉塞しているかを語って聞かせます。

しかしながらこの作品を読んで、遅まきながら「二年生になってからの古典部は別の方向に向かっているのではないか」と思うようになりました。

いうまでもなく、最新短編集『いまさら翼といわれても』は、古典部の面々が歩き出す、あるいは歩き出さねばならない話が収録されています。

収録されている作品のうち『私たちの伝説の一冊』は、『クドリャフカの順番』で自分の力のなさを嫌と言うほど噛み締めた摩耶花が、同じく自分の力のなさを噛み締めていた河内先輩と話し合い、歩み始める話です。

『長い休日』は奉太郎がかつて関わった古い事件を思い起こしつつ、その彼の「休日」をやがて誰かが終わらせてくれるだろうという姉の言葉を思い出す話です。

表題作『いまさら翼といわれても』は、陣出に残って地域のために生きようと心に決めていた千反田さんが、籠の扉をあけられて戸惑う話です。この作品は都市労働者の目から見ると自由を獲得したという話にすぎません。が、シリーズ中で明かされた彼女の意志や人柄を考えれば重い読後感にならざるを得ません。

『長い休日』『いまさら翼といわれても』は『私たちの伝説の一冊』ほど強く前向きな作品ではありません。しかしながら奉太郎は誰かがその休日を終わらせる手前でぼんやりと立っているところであり、千反田さんは開け放たれた扉の前で戸惑っているところです。二人が互いに手を伸ばせばそれぞれの閉塞はそこで終わる。と、大変手前味噌な妄想を禁じえません。

そして里志です。負けず嫌いな自分が嫌いで、だけど奉太郎が見せた能力への羨望とコンプレックスを捨てきれなかった彼は、本作品では総務部でその手際を絶賛されています。

一年生のときはさんざんその限界と閉塞を描かれた四人でしたが、二年になってからはゆっくりと彼ら彼女らの世界が広がっていくように思えます。

第一作公開から20年経過してなお、彼ら彼女らの高校生活は半ばです。あと10年位で結末を見ることが出来るといいなぁと思いつつ、どうやら少し明るい方向に向かっているようでほっとしています。

アニメ『リコリス・リコイル』アラン機関のバランス

匂うなぁ。漂白された、除菌された、健康的で不健全な、嘘の匂いだ。バランスをとらなくっちゃぁなぁ!

4話。間島のセリフ

絶好調の『リコリス・リコイル』は7話が放送されました。個人的に6話での間島の描き方は好きになれないのですが、それはともかく世間はこの番組の事で大盛り上がりです。

女の子がイチャイチャする展開が目白押しのこの番組ですが、とうとうおっさんがイチャイチャするシーンまで登場し、視聴者の脳髄はめちゃくちゃです。一方、展開は極めて危うい方向に進んでいます。

ここまでではっきりしたことのうち、アラン機関についてわかっていることを書きます。

  • アラン機関は多くの人の才能を後押しして世間から賞賛されている
  • しかし機関が花開かせたい千束の能力は殺人
  • そのために間島を雇って次々に殺人を犯させている

めちゃめちゃです。1話のニュースで「人の善意」を体現しているかのように報道されていたアラン機関ですが、千束の殺人の能力を開花させるために、数えきれないほど多くの人を犠牲にしています。到底「人の善意」などと呼べる話ではありません。

私は4話でシンジが千束を類まれな殺しの天才とミカの前で評し、世界に届けなければならないと言った時からずっとこれが気にかかっていました。冒頭の間島のセリフは、このシンジのシーンの直後です。

「バランス」は間島の口癖です。冒頭に引用したように初登場の最初のセリフがこれでした。6話では何度も口にしてロボ太をイラつかせます。正直、特に意味のない口癖だと思っていました。ところが、7話のラストがこれです。

7話ラスト。チャームとバランス。

7話のラストで間島もフクロウのチャームを持っていることが明らかになります。つまり、アラン機関は単なる手ごまとして彼を使っているのではなく、その才能を発揮することを期待しているということになります。では何の才能でしょうか。これまで彼はテロリストとして描かれていました。テロリストの才能でしょうか。

そうじゃないように見えるのです。手すりの上にあり得ないバランスで立っているスマホ。ここでもバランスです。手の中のチャームとあり得ないバランス。彼の才能はバランスをとることかもしれません。

そう考えると、6話でロボ太に姫蒲さんが言った「うまく彼の中の興味のバランスをとってください」という言葉も単なる脚本上のギャグではなく、アラン機関が間島のバランスの才能を意識して使っていることを暗示しているのかもしれません。

同性愛とコントの洪水で忘れそうになりますが、1話冒頭でさらっと描かれたリコリスによる治安維持は病的です。実は狂っているのはリコリスが維持している安全で、正しいのは間島のバランス意識なのでしょうか。やっていることは狂人のそれですが。

アラン機関の目的は何なのでしょうか。アラン機関の目的が「埋もれている才能を発掘して世に出すこと」だとすると、何がアラン機関に間島の殺人を許させているのでしょうか。ランダムな大量殺人は埋もれいている人材を死に至らしめることだってあるでしょう。

単なる妄想ですが、アラン機関が「多くの才能を世に出すには、多様性が必要だ」と考えている可能性はあります。そうだとすると、リコリスを使って「悪い人たち」を無条件に刈り込んでいる日本社会は多様性を危機に追いやっており、アラン機関の目的と真っ向から対立している可能性があります。この筋書きは背景に社会ダーウィニズムが浮かび上がってきますので、かじ取りを間違うと大炎上になりかねません。ま、私の予想に過ぎませんが。

この作品のスタッフがストーリーをどう料理するのか、とても楽しみにしています。

アニメ『リコリス・リコイル』3話まで完璧な展開

アニメ『リコリス・リコイル』を視聴しています。

女子高生が主人公の近未来アクションです。正直この設定には

「またか」

という気持ちが強いのですが、1話でしてやられました。めちゃくちゃ面白いです。

話は喫茶リコリコに井ノ上たきなが合流する1話、ちさととたきなで護衛したウォールナットがリコリコに合流する2話、そしてたきながDAへの気持ちにいったんけりを付ける3話が放送されており、どうやらここまでで起承転結の起のようです。

これまでの3話を見る限り、この作品はストーリー、作画、演技いずれもハイレベルに仕上がっており、毎回楽しいですし次回が楽しみです。特にちさとがDAを去った理由については一部明かされましたがまだ不明な点があり、店長であるミカと敵であるアランの関係とともにどうやら話の本筋にかかわるようです。

さて、すでに述べた通りストーリー、作画、演技、と素晴らしいところが沢山あるのですが、ここまでで特別に印象深いのが脚本の妙です。3話までを作品の起と考えた時、そのなかでのテーマは

『たきなによるリコリコの受容』

です。DAを自分が本来居るべき場所と規定し、リコリコへの派遣を一時的な二軍落ちとしか考えていないたきな。その彼女がちさとに心を開いてリコリコに心から参加するまでが3話です。この作品の脚本がうまいな、とおもうのは

「たきなは心を開きました」

と描写するだけでなく、その心の変化をにおわせるエピソードが絶妙に配置していあるからです。

例えば、1話でちさとが銃弾を避けた際、たきなはそのシーンを目にしていません。しかし、2話でそれを後ろから目にした彼女は驚愕の表情を浮かべています。そのエピソードは2話ラストの髪留めのエピソードにコミカルにつながります。一方、たきなの銃の腕は1話のドローン撃墜で証明済みですが、射撃訓練場でさらにそれが偶然ではないことが描かれています。そして3話の終盤。ちさとはたきなのためにフキ・サクラ組に単身挑みます。その勝負に遅れて参戦したたきな。彼女がちさとごと背後のフキを打ち抜く構えを見せたことでちさとの能力を完全に信頼していることがわかります。ちさとも瞬時にその判断を見抜いて銃弾を交わし、勝負が決着します。このシーンはかつてのリーダーであるフキに銃を向けることとちさとの能力を信じることが重ねられており、たきなの決意が強く表れています。

また、1,2話でDAを追われたことへの不服の象徴だったたきなのほほの絆創膏はフキのほほにうつり、DAを(いったん?)去るというたきなの決意の象徴となったっています。うまい。

そしてなんといっても3話は帰りの列車のシーンです。ここでは

  • 行きで辞退した飴を受け取っている。
  • 「ちさとさん」から「ちさと」に呼び方が変わっている。
  • 初めて見せる笑顔。

の三連発でたきなの気持ちが前に進んだことが鮮やかに描かれています。そして

「たきなさぁ、私を狙って撃っただろ」

の一言。この一言は普段のちさとの軽さを感じさせない、ひょっとすると責めているんじゃないかと思わせるような言葉です。

ところがこのシーンでちさとはたきなに飴を渡します。

二人とも目を合わせていないにもかかわらず、ちさとはたきなを責めていませんし、たきなはちさとを受容しています。それが飴玉一つで表現されていて、何度見ても素晴らしいシーンです。

ちさととフキがいがみ合っているにもかかわらず互いを認めていることがわかったり、エリカの気持ちをヒバナが何よりも優先してやさしく寄り添ったりと細やかな描写が無理なく挿入されているのも見事です。ちさととフキの関係描写は事件の整理が同時に進行しているため説明臭ささもありません。3話冒頭でたきながボードゲーム参加を断るエピソードも、ラストのスマホのメッセージの意味を強めます。

それぞれのエピソードも、ちさととフキの素晴らしい煽りあいからのかっこいい銃撃戦へのなめらかな展開や、たきなの頑なな心が融かされている噴水前のちさとの言葉、へこまされてしゅんとなるサクラなど粒ぞろいです。そしてフキの

「二度と戻って来んじゃねぇ」

に続いて遠くから聞こえるちさとの

「置いてっちゃうぞぉ、置いてかないけど!」

の言葉が暗示する、たきなの居場所。もう、ほんと、ほめるところしかありません。

これまでのところ非常に高いレベルの作品です。今後の展開が楽しみです。